渋谷区(神宮前・千駄ヶ谷・代々木・笹塚コース)
踏破記
今日は渋谷駅の北側に位置する神宮前・千駄ヶ谷・代々木・笹塚周辺の坂を巡ります。前回のゴール地点である渋谷駅ハチ公改札からスタートします。
山手線の高架沿いに原宿方向に進みます。渋谷消防署横から渋谷区役所前交差点まで坂が上がっています。
- 16.フランス坂
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フランス坂は長さが約170mほどのやや急な坂です。この通りはイエローストリートとかバスティーユ通りとも呼ばれます。坂名の由来は不明です。
渋谷区役所前交差点からNHK放送センターを眺めますと、工事用のクレーンが林立しています。NHK放送センターは、2021年5月から15年をかけてNHKホールを除く全ての建物が建替えられることになっています。現在はT期工事として、情報棟の新設工事が行なわれています。中断が許されない放送業務ですから、工事も大変ですね。
東京電力館前交差点で山手線のガードを潜り、神宮前六丁目交差点で明治通りを横断し、渋谷高校の左手の細い路地を進みます。途中に旧穏田村の産土神である隠田神社があります。元々は第六天社と呼ばれていた寺院でしたが、明治維新で廃寺となって穏田神社と改められました。明治十八年(1885年)に同じ穏田村に鎮座していた熊野神社を合祀し、現在は「縁結び」を始め、「技術や芸の上達」や「美容」にご利益があるとされています。「産土神」とは、神道において人が生まれた土地の守護神を指します。人が生まれる前から死んだ後まで守護する神とされていて、他の土地に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられています。
穏田神社から次の坂に向います。公務員神宮前宿舎付近から天理教の教会前を通って屈曲しながら坂が下っています。
- 17.ネッコ坂
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ネッコ坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。奇妙な坂名ですが、坂の形状が木の根っこのように曲がっていることに因んで名付けられたらしいとのことです。ネットで調べてみましたら、次のように書かれていました。
ネッコ坂
ネッコ坂は、旧渋谷川(穏田川)に近い穏田の商店街から北青山方面にある公務員(旧郵政省・旧郵政公社)住宅付近の台地上まで登る全長約200メートルの坂です。坂の名称の由来には、「木の根のように曲がっている道だから」というものと、「木の根がたくさん道に出ていたため」という二説があります。坂の歴史は古く、天保年間に作られた地図には稲葉長門守の下屋敷と戸田武次郎の屋敷とのあいだを通って穏田橋に通じる道に「子ッコ坂」が記されています。天保年間に発行された府内場末其他往還沿革図書には、「ネッコサカ」とあり、また、嘉永四年(1851年)に作られた「青山長者丸辺の図」にも、「子ッコサカ」として記されています。この坂は、一説には鎌倉街道の一部だったともいわれています。明治四十二年(1909年)には代々木の原に代々木練兵場ができ、明治神宮や表参道が作られる以前のこの狭い坂は東京市内と練兵場との間を行き交う兵隊たちで一日中混雑していたということです。
表参道に出ます。表参道にはかって同潤会青山アパート(渋谷アパート)が建っていました。同潤会青山アパートは、大正から昭和初期にかけて東京・横浜の16ヶ所余りで建設された同潤会アパートのひとつです。歴史を遡れば、この周辺は江戸時代に広島藩浅野家の下屋敷でした。明治維新後に侯爵浅野長勲の所有になり、大正十四年(1925年)に同潤会が買い取って共同住宅が建てられ、昭和二年(1927年)から入居が始まりました。同潤会は大正十二年(1923年)に発生した関東大震災の義捐金をもとに内務省によって設立された財団法人で、東京と横浜において住宅供給を行いました。同潤会が目指したのは災害に対して強靱な鉄筋コンクリート造の良質な住宅を都市中間層向けに供給することでした。同潤会青山アパートの敷地内には鉄筋コンクリート造りの3階建てアパートが10棟配置されていました。完成当時は、軍人・役人・大学教授などしか入居できない高級アパートであり、表参道の新名所として観光バスも立ち寄るほどでした。しかし、建物や設備の老朽化が進んで平成十五年(2003年)に解体され、跡地には平成十八年(2006年)に複合施設「表参道ヒルズ」が竣工しました。その東端には、同潤会青山アパートの建材などを再利用して建てられた往時を偲ぶ建物の「同潤館」が設置されています。
手前の年代ものっぽい建物が復元された同潤館で、その先の商業施設が表参道ヒルズです。
表参道と交差する小道があります。「HARAJYUKU ST」という名称で、その両側には時代の先端をいくアパレル関係のお店が建並んでいます。交差点脇に「表参道まちかど庭園」と名づけられた小さなスペースが設けられています。ここには旧参道橋の親柱が二基残されています。この小道はかっての渋谷川の跡に造成されたものです。ちなみに、この小道は表参道と交差した先は遊歩道となり、「穏田キャットストリート」という名前が付けられていますが、これには理由があります。かつては穏田川と呼ばれて水車を回していた渋谷川ですが、「穏田」という地名の由来は徳川幕府が開かれた400年近く前に遡ります。家康は信頼していた伊賀忍者の一族郎党をこの辺りに住まわせました。忍者の隠れ里ということで「隠田(おんでん)」と呼ばれましたが、いつからか「穏田」という字を使うようになりました。当時はのどかな農村で、穏田には渋谷川の水流を利用した水車があちこちにあり、その風景は葛飾北斎の富嶽三十六景のひとつの「隠田の水車」として描かれています。昔はまだこの界隈は住宅街で子どもたちが大勢いましたが、周辺に公園がなかったために、子どもたちの遊び場をつくろうと現在のキャットストリートがある場所に滑り台やブランコ・砂場などが設置されました。やがて公園にはどこからともなく野良猫が集まり始めました。周辺の住人が餌を与えたために猫の数は増え続け、しだいに猫だらけの公園になっていきました。「キャットストリート」という名称の由来には諸説ありますが、そのように多くの猫が集まっていたからというのが最有力の説とのことです。
まちかど庭園には旧渋谷川の案内板が立っています。案内板に添えられた葛飾北斎の画には「穏田の水車」というタイトルが付いています。周りの人物と比べても数倍巨大な水車が勢いよく回っていますので、昔の渋谷川の水流はかなりなものだったのでしょう。
表参道まちかど庭園
今、渋谷川は遊歩道の下となり、参道橋の石碑だけが当時の面影を残しています。この川は、明治時代中期まで「富獄三十六景」にも描かれたほど、水車を使った精米業が盛んに行われていました。時代の先端をいく表参道の町並みとは対照的に、古き時代を思わせる原宿が、ここにあると感じるのではないでしょうか。
表参道交差点で左折し、青山通り(国道246号線)を南青山三丁目交差点まで進み、外苑西通りに入ります。ちなみに、この付近の外苑西通りは通称キラー通りと呼ばれています。「キラー通り」の名前は世界で活躍するファッションデザイナーであるコシノジュンコさんによって付けられました。大阪万博が開催された1969年にそのころ青山通りにあったコシノさんのブティックが南青山に移転しました。しかし、その通りには特に名前がなかったので、何か名前があればと思われたそうです。青山墓地が近くにあったこと、時代背景として「ピンキーとキラーズ」も大ヒットしていたことがあり、「キラーストリート(killer street)」と書いてみました。それが雑誌などではわかりやすくするためか、「キラー通り」と呼ばれるようになっていきました。当時は形容詞として使う英語のスラングで「素晴らしい・素敵な」の意味で捉える方が多かったので、キラー通りは「殺し屋通り」ではなく、「素敵な素晴らしい通り」という意味でした。外苑西通りから一歩入った路地に面したビルの前に行列ができています。ビルの片方は焼き鳥屋さんで、もう片方はとんかつ屋さんのようです。「焼鳥今井」は2016年11月にオープンし、「ミシュランガイド東京2021」では2年連続でビブグルマンに選出されました。「とんかつ七井土」は2018年にオープンし、「ミシュランガイド東京2020」でビブグルマンに選ばれ、4年連続でミシュランガイドに掲載されています。焼き鳥はお酒のつまみなので夜営業が普通ですが、「焼鳥今井」はランチ営業もやっています。
「焼鳥今井」の直ぐ北に、神宮前・北青山の総鎮守となっている熊野神社があります。熊野神社は、元和五年(1619年)に紀州徳川家・徳川頼宣が邸内(現在の赤坂御所の位置に所在)に御宮を勧請して創建されました。その後、地元町民の請によって正保元年(1644年)に現在地に移遷されました。社号は当初「熊野大権現」でしたが、明治維新時に発布された神仏分離の令により、明治二年(1869年)に「青山熊野神社」と改称されました。熊野神社は華麗な社殿を持つ他、俗謡に「青山に過ぎたるものが二つあり、鳶の薬缶に原宿の山車」と唄われるように、盛大な祭礼でも知られています。ちなみに、「神宮前」という町名ですが、これには歴史があります。この周辺は江戸時代から「原宿村」と「穏田村」のふたつの村があり、明治時代中期までその地名は続きました。明治二十二年(1889年)に市町村制が施行され、ふたつの村は合併して「千駄ケ谷村」となり、「千駄ケ谷村大字原宿」と「千駄ケ谷村大字穏田」と呼ばれるようになりました。さらに「千駄ケ谷町」を経て、昭和七年(1932年)に東京に区制が施行され「渋谷区」に属することになり「原宿一丁目〜原宿三丁目」と「穏田一丁目〜穏田三丁目」と「竹下町」に町名が変更されました。昭和四十年(1965年)には新住居表示になって「神宮前」という町名になりました。住居表示の変更をするに際して「原宿」と「穏田」の町名を推薦する声があがりましたが双方とも譲らず、結局明治神宮の前にあるから「神宮前」という安直な名前に落ち着いたといわれています。この時以来「原宿」という地名は存在しなくなりました。現在「原宿」の名前が残っているのは、「原宿駅」・「原宿警察署」・「原宿郵便局」などだけになっています。
熊野神社を出て右折しますと、その先の国学院高校の西側に坂が下っています。この道筋は旧鎌倉街道になります。
- 18.勢揃坂
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勢揃坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。別名を「源氏坂」といいます。坂名の由来は、後三年の役に際して八幡太郎義家が奥州征伐に向かう途中、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったことに因みます。坂の中ほどの歩道の脇に案内板が立っています。
勢揃坂
ここのゆるい勾配の坂を勢揃坂といい、渋谷区内に残っている古道のひとつです。永保三年(1083年)の後三年の役で八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢を揃えて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。このとき従軍した武士のなかに、桓武平氏良文の嫡流にあたる秩父十郎武綱(渋谷氏等の祖)が参陣して、手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが、区内に伝わる源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
勢揃坂は坂下で直角に曲がって外苑西通りに出ますが、その先から新国立競技場の全景が眺められます。新国立競技場は隈研吾が設計し、周辺(明治神宮外苑)との調和を目指した「杜のスタジアム」のコンセプトを掲げ、「自然に開かれた日本らしいスタジアム」を提案し、屋根や軒庇などを鉄骨と木材のハイブリッド構造とし、最大高さを47.4mと比較的低く設定することで水平ラインを強調した構造となっています。使用する木材は47都道府県から集められた杉材およびカラマツ約2千平方メートル分を使用し、塗装により本来の木材よりやや白みがかったものとなっています。屋根の下には法隆寺五重塔からヒントを得たといわれる三層の庇が水平さをより強調しています。
新国立競技場の手前の交差点の角に、交差点の名前にもなっている仙寿院があります。
法雲山仙壽院沿草
當山は、正保元年(1644年)紀伊の太守コ川頼宣の生母お萬の方(法名・養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遙(安房の太守里見羲康の次子)を開山として創立された。従って江戸期は、紀伊徳川家・伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれていた。お萬の方は徳川家康の側室で、紀伊徳川家の祖であるョ宣と水戸コ川家の祖であるョ房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。開山里見日遙(一源院日遙上人)は、後に飯高擅林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村田妙法寺へ瑞世した。日遙を祖とする千駄ヶ谷法類は、當山を縁頭寺とする江戸期において隆盛を誇った當山も明治維新の変革によって袁微し、明治十八年には火災によって全山焼失、その後里見日フ【王へんに夫】(體遵院日フ【王へんに夫】上人)により復興されるも、昭和二十年戦災で再び全山焼失した。更に昭和三十九年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、昭和四十年には本堂・書院を再建、昭和五十九年には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に至っている。
仙寿院交差点を左折し、神宮前二丁目交差点で右折した先に瑞円寺の前まで坂が上がっています。
- 19.榎坂
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榎坂は長さが約80mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、かって坂の途中に榎の巨木があったことに因みます。坂下の駐車場の角に案内柱が立っています。
榎坂
「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。かって、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡神社へ向かうこの道の右手に商売繁盛・縁結び・金縁・子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。
外苑西通りの観音橋交差点の西側の路地の先に聖輪寺というお寺があります。境内には、観音様のいわれを記した案内板が立っています。
聖輪寺観音略縁起
神亀二年(725年)五月、行基菩薩北越遊行の時、此地に暫く休息されました。谷の中より光がさし、聖如意輪観音が出現し、「此地は我に因縁あり、汝よろしく我姿を彫刻し、来世の衆生に結縁させよ、広く利益を与える事であろう」と申され、大きな古木の本に消えました。行基著薩は感激し、その古木を加持し、三尺五寸の如意輪観音像を彫み石の上に安置しました。これ故に山号を観谷山、寺号を聖輪寺と号することとなった。文明(1469年)の頃、渋谷氏一門の何某、この尊像を深く信仰し、その家は日々に栄え、子孫繁栄、富貴自在の身分となり、世の人々より黄金長者と呼ばれるようになった。同氏は堂宇を営造しこの尊像を崇いました。青山長者丸という所はこの黄金長者の跡である。天正(1573年)の頃、この里の童達が集りこの尊像を前の川へ運び、共に水浴びして遊びました。不思議な事に、ある夜、里人の夢の中に尊像が現れ「善哉善哉、童達毎日吾を浴びせし縁により、一切の病難から救うであろう、汝ら疑う事なかれ」と告げました。その頃、国中に疱瘡が流行(はやり)ましたが、この里の人々は病気から免れ、これ偏(ひとえ)に観音の大悲護念のしるしであると、この時より尊像の扉を閉め秘仏として崇め奉りました。又、慶長三年(1596年)三月、盗賊が忍び入り、この観音の双眼は、黄金であると伝へ聞き、鑿(のみ)で取り去ろうとした時、守護神の罰か、自然に自ら所特していた鑿に貫かれて死んだ。甲賀組の高橋四郎左衛門が親(まのあ)たりにこれを見、観音の霊験に驚き堂宇を再興して敬った。これより観音は「目玉の観音」・「千駄ヶ谷観音」と呼ばれ信仰を集めた。尚「江戸砂子」に、「この江戸において千余歳を数える霊場は浅草観音と当寺である」と記されている。
元禄三年(1690年)に建立された庚申塔も建っています。路傍の石塔みたいな感じで、祠に祀った方がいいと思うのですが。
庚申塔
庚申信仰は、江戸時代に盛んになり、講(グループ)が結成され、庚申供養塔があちこちの路傍に建てられました。その信仰というのは、六十日ごとに巡り来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て、天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。庚申信仰は、猿の信仰とも結びついていたので、青面金剛像の下には三匹の猿が彫ってあります。ここの庚申塔は、どこに建てられていたかは不明ですが、延宝五年(1677年)と元禄三年(1690年)の銘があります。
聖輪寺の手前で左手に路地が分岐し、その先から鳩森八幡神社に向かって坂が上がっています。この道筋は旧鎌倉街道になります。
- 20.観音坂
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観音坂は長さが約80mほどの緩やかな坂です。坂名は、近くの聖輪寺の本尊だった如意輪観音像に由来します。坂の中ほどに案内柱が立っています。
観音坂
坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来します。観音像は当寺の開山とされる行基の作と伝えられていましたが、残念ながら戦災によって焼失してしまいました。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたといいます。
観音坂の先に、こんもりと繁った大木の中に将棋の神様で知られる鳩森八幡宮が鎮座しています。
境内の一画にかなりな大きさの富士塚があります。「千駄ヶ谷の富士塚」という都内最古の富士塚だそうです。
登山道の入口の脇に案内板が立っています。
千駄ヶ谷の富士塚
この富士塚は寛政元年(1789年)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ばく【石ヘンに卜】(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が姿置されている。塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。この富士塚は大正十二年(1923年)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。
そこに山があれば登りたくなりますよね。でも、人工の山といっても馬鹿にはできません。登山道は細い上に岩がむき出しでとても歩きにくいです。手摺りとロープはありますが、下手すると足を踏み外して転げ落ちそうになります。
富士塚には富士山のいろんな見所が再現されているのですが、足下に気を取られてどれがどれだか分らなくなってしまいました。ま、無事に下山出来ただけでも良しとしましょう。
鳩森八幡宮は将棋の神様が棲むといわれていますが、将棋に関係するのは境内の真ん中に建てられた将棋堂だけのようです。一応、氏神の八幡神が祀られていますが、元々は奉納された巨大な将棋の駒を安置するために建てられたそうです。堂の周囲には棋力向上の願いを込めた沢山の絵馬が架けられています。御利益や如何?
将棋堂由来記
昭和六十一年一月、社団法人日本将棋連盟(当時の会長大山康晴十五世名人)より、山形県の駒師香月氏の製作による、高さ一米二十糎の欅製の大駒が奉納された。この縁により、同年十一月将棋の技術向上を目指す人々の守護神とし、更に将棋界の繁栄を願って、日本将棋連盟と神社が協力し、この大駒を納める六角の御堂を建立した。御堂の六角は天地四方を表わし、屋根の上の飾り金物は将棋盤の足の形、つまりくちなし(梔子)の実の形をしている。くちなしは口無しに通じ、助言無用の戒めからきていると古くから言い伝えられている。室内に安置された大駒は、御影石の将棋盤の上に立ち、その奥に氏神の八幡神が祀られている。毎年年頭に、この御堂の前で祈願祭が行われる。将棋上達を析願する人は、いつでもその夢を絵馬札に托して奉納することがてきる。参拝者は棋力向上の願いが叶えられ、よろず勝運に恵まれると言われている。
写真は以前訪れた際に撮ったものを転載しています。
鳩森八幡宮の向かいに将棋会館があります。現在の将棋会館は昭和五十一年(1976年)に建てられ、開館から50年近く経過したために老朽化が目立つようになりました。そのため、将棋連盟の創立100周年となる令和六年(2024年)に千駄ヶ谷駅近くの千駄ヶ谷センタービルの1階に移転することになっています。ワンフロアといっても、床面積は622坪(約2千u)もあります。移転前に一度お邪魔してみたいものです。
鳩森八幡神社の北西に沿って坂が下っています。
- 21.八幡坂
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八幡坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。坂名は、鳩森八幡神社に由来します。
八幡坂から明治通りに出て明治神宮の北参道に向かいます。北参道入口交差点の先で首都高4号新宿線の高架下を潜りますと、東海大学付属病院付近から首都高沿いに坂が上がっています。
- 22.日陰坂
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日陰坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名は、江戸時代に市中から甲州街道へ繋がる裏街道でしたが、樹木が生い茂って薄暗い日陰の坂だったことに因んでいます。
参宮橋交差点から首都高4号新宿線の高架に沿って西参道通りを進んで代々木地域安全センター前交差点で左折し、高架下を潜った先の右手に立正寺があります。
立正寺の前から南西に向かって坂が下っています。下りきった先で再び上り坂になっています。
- 23.切通しの坂
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切通しの坂は長さが約150mほどのやや急な坂です。坂名は、大正から昭和初期の洋画家であった岸田劉正が大正四年(1915年)に制作した作品「切り通しの写生」に描かれた坂道ということに因んでいます。現在はこの坂の両側にマンションが建ち並んでいて「切り通し」にはなっていませんが、大正初期にはこんな風景だったんですね。
立正寺の前に坂名の由来を記した石柱が建っています。真っ黒で何が書いてあるか分かりませんね。
岸田劉正が描いた 切通しの坂
画家岸田劉正は、大正三年(1914年)から大正五年(1916年)にかけて代々木に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に名作「切通之写生」(重要文化財)があり、大正四年(1915年)に発表しました。
坂の中ほどにも案内柱が立っています。文言は石柱のものと微妙に違っています。
岸田劉正が描いた 切通しの坂
画家岸田劉正は、大正三年(1914年)から大正五年(1916年)にかけて代々木山谷に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に名作「道路と土手と堀(切通之写生)」(重要文化財)があり、この前の坂を描いたものです。
山手通りの初台坂下交差点から斜め上に長い坂が上がっています。
- 24.初台坂
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初台坂は長さが約370mほどの緩やかな坂です。坂名は、徳川二代将軍秀忠の奥女中初台局がこの辺りに隠居したことに因んでいます。初台局の墓は代々木三丁目の正春寺にあります。
甲州街道から幡ヶ谷駅手前の六号通商店街に入り、商店街を抜けた水道道路の社会教育館前交差点角に玉川上水の案内板が立っています。玉川上水の旧水路は甲州街道の南側にありますが、この新水路は明治・大正期に使用され、その後現在の水道道路に生まれ変わったんですね。
玉川上水新水路跡
江戸市民の上水道であった玉川上水旧水路は、多摩川羽村から四谷大木戸まで堀り割りで造られていました。近代になると、水路を管理する役人がいなくなり、道路から汚水や動物の死骸が水路に流れ込み船も通行するなど、水質汚染は著しくなったのです。明治十九年(1886年)には、コレラが流行したこともあって、明治政府は改良水道を早急に設置する必要性に迫られました。そこで考案されたのが、淀橋に浄水場(現東京都庁付近)を新設して、水質の確保に努めることでした。旧水路を代田橋付近から分水し、ほぼ直線で築堤水路を構築し、浄水場まで通水するための工事が行われ、明治二十九年(1896年)にはほぼ完成しました。この新水路には十六の橋が架けられ、浄水場に近い方から順に番号が付けられていました。新水路は、戦後に道路となったため、橋は現存しませんが、かつてこの場所には六号橋が架けられていたことから、その通りを六号通りと呼ぶようになったのです。新水路は関東大震災等により損傷したため、甲州街道の地下に埋設した水道管に通水を開始した昭和十二年(1937年)にその役目を終えました。その後、新水路は道路に姿をかえ、水道道路と呼ばれるようになったのです。
交差点を渡った角に六号坂上公園があり、そこから100mほど進んだ先から坂が下っています。
- 25.六号坂
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六号坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。かって、淀橋浄水場(現在の新宿中央公園)から和泉給水所に向かって、玉川上水新水路に架けられた橋に番号名が付けられ、その六番目の橋が六号橋であったことに因み、通りの名前が六号通りとなり、坂名も六号坂と名付けられました。
水道道路の富士見丘高校交差点角に別の玉川上水の案内板が立っています。
玉川上水新水路跡
江戸市民の上水道であった玉川上水旧水路は、近代に入っても飲料水として用いられていました。ところが、幕府の瓦解により手入れが行き届かなくなった上水道は、明治十九年(1886年)にコレラを発症してしまいます。これによって、改良水道が急速に必要となりました。新水路は、代田橋付近から分水し、この前の通りを淀橋浄水所(現在の新宿中央公園あたり)まで送水するため築提工事が行われ、明治二十九年(1896年)にはほぼ完成しました。この新水路に架かる橋は、全部で十六あり、新宿側から順に番号が付けられていました。その番号が通りの名称となり、現在は橋はありませんが、ここには十号橋があったため、十号通りと名付けられたのです。なお、新水路は関東大震災により損傷したため、昭和十二年(1937年)甲州街道道路下に水道管を設け、新水路を廃止しました。その後、今のような道路に姿を変えました。
富士見丘高校交差点から坂が下っています。
- 26.十号坂
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十号坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。かって、淀橋浄水場(現在の新宿中央公園)から和泉給水所に向かって、玉川上水新水路に架けられた橋に番号名が付けられ、その十番目の橋が十号橋であったことに因み、通りの名前が十号通りとなり、坂名も十号坂と名付けられました。
中野通りから井ノ頭通りに入り、今日のゴール地点である代々木上原駅に着きました。
ということで、渋谷区で二番目の「神宮前・千駄ヶ谷・代々木・笹塚コース」を歩き終えました。次は、渋谷区の広尾と恵比寿地区の北側の坂を中心に巡りたいと思います。
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