渋谷区(上原・広尾・恵比寿コース)
踏破記
今日は前回の渋谷駅の北側に位置する神宮前・千駄ヶ谷・代々木・笹塚周辺地区に引き続いて、上原・広尾・恵比寿地区の北側の坂を巡ります。前回のゴール地点である代々木上原駅からスタートします。
井ノ頭通りに面して、円柱形の外観が印象的な古賀政男音楽博物館が建っています。昭和期の代表的な作曲家であり、ギタリストでもあった古賀政男は明治大学を卒業後に代々木上原に移り住み、この地に音楽創造に邁進する同志を集めて音楽村をつくろうという構想を持っていました。古賀政男音楽博物館は古賀政男の意思を引き継ぐ形で誕生した大衆音楽の博物館です。古賀政男関連の展示はもちろん、日本の歌謡史も展示してあります。「見て・聴いて・歌える」博物館になっていて、カラオケスタジオも付属しています。
古賀政男音楽博物館の裏手を東に向かって坂が上っています。
- 27.やりくり坂
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やりくり坂は長さが約100mほどのやや急な坂です。坂名は、昭和四年(1929年)頃に付近の住民が坂をつくるのに必要な費用をやり繰り算段して出し合い、労力を奉仕して開通させたことに由来します。この坂が出来てから代々木上原から渋谷・青山方面に出るのが非常に便利になりました。
代々木上原駅東口の線路脇から渋谷上原郵便局前を通って商店街の坂が上がっています。
- 28.旭坂
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旭坂は長さが約120mほどのやや急な坂です。現在、坂の両側は上原銀座商店街として賑わっていますが、昔は暗くて寂しい坂道でした。昭和初期にこの坂道が改修された際に、当時代々木上原町の町会長を務めていた粟野政之亮氏が有志とはかってこの坂の名前を旭坂と呼ぶことにしました。改修された坂道に朝日が射すことから名付けましたが、坂名の表記には朝日と同音同義の「旭」の文字が当てられました。
旭坂の2ブロック東寄りの住宅地の中に、小田急線のガード下から直角に曲がった坂が上がっています。
- 29.弥之助坂
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弥之助坂は長さが約130mほどのやや急な坂です。昔、池上弥之助という人の所有地が坂の先にあったことからこの坂名が付けられました。
直角に曲がった後は南西方向に真っ直ぐに上がり、坂上から路地を抜けて井ノ頭通りの上原三丁目交差点に合流しています。
渋谷区の坂は地区によってかなり離れた場所に散在しています。代々木上原から次の坂がある広尾まで渋谷区を大横断します。六本木通りにある西麻布交差点のひとつ手前の小道を外苑西通りと並行して進みますと、港区でも巡った幾つかの坂に再会します。その中のひとつが堀田坂です。港区と渋谷区の境界になる坂ですので、一応渋谷区の坂にも含めることにします。
- 30.堀田坂
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堀田坂は長さが約100mほどのやや急な坂で、別名を「御太刀坂・禿坂」といいます。江戸時代に、大名の堀田家の下屋敷に向って上る坂だったことが坂名の由来になっています。坂下と坂上の曲がり角に案内柱が立っています。
堀田坂
ほったざか 江戸時代には、大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっていた。
坂上の曲がり角に立っている案内柱の足元の植え込みの脇には相変わらず人面石が置いてあります。眼が妙に生々しくて気持ちが悪いですね。
広尾北公園に隣り合って広尾ガーデンフォレストがあります。広尾ガーデンフォレストは、広尾ガーデンヒルズの北西隣接地に竣工した大規模マンションです。桜レジデンス(A棟・B棟)、楓レジデンス(C棟・D棟)、白樺レジデンス(E棟・F棟)、椿レジデンス(G棟・H棟)と名付けられた全8棟のマンションに、合計674戸が配置されているほか、郵便局なども入居する業務棟も設けられています。駐車場をすべて地下化することで車両と歩行者の動線を分離しています。セキュリティも万全で、日本赤十字医療センターとの医療連携サービスも備えられています。50年後にはマンションは取り壊されて更地になるそうなので、永久の住まいとはいかないようです。その敷地の角に枝を切り落とされて立ち枯れたようになった大銀杏の木が植わっています。でも、渋谷区の散歩道で4月の末に訪れた時は青葉が繁っていましたので、枯れている訳ではありません。
大銀杏
この説明板の後ろにみえる大きな銀杏は、根本の周囲が約5.1メートル、目の高さの周囲は、4.7メートルもあり、樹齢は約五百年と考えられます。日赤医療センターの敷地と付近一帯は、江戸時代初期の延宝年間(1673年〜1681年)以前から下総国佐倉領主堀田家の下屋敷でした。樹齢からこの大銀杏は、それより前の時代にすでに生育していたものとわかります。かつては、区内にあった名木・古木のほとんどが戦災などで失われていました。そのため、区内に現存する最古の樹木として、大切に保存してゆきたいものです。
日赤医療センターに向かい合う東京女学館の北端の交差点から渋谷区広尾三丁目と港区南青山七丁目の境界に沿って進みますと、二股路の左側の細い坂が東4丁目交差点に向かって下っています。
- 31.羽沢坂
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羽沢坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。この辺りはかって羽沢町の町域であったことからこの坂名が付きました。
広尾高等学校前交差点から明治通りの東三丁目交差点まで坂が下っています。
- 32.南郭坂
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南郭坂は長さが約250mほどの緩やかな坂です。江戸時代の儒学者である服部南郭の別邸がこの辺りにあったためにこの坂名で呼ばれるようになりました。坂の途中の曲がり角にある「敬老館」の前に「服部南郭別邸跡」という案内板が立っていたそうですが、どこを探しても見つかりませんでした。敬老館自体も存続しているのかどうか分かりませんでした。
服部南郭(なんかく)別邸跡
服部南郭は、江戸中期の儒学者。漢詩人で幼名を勘助、のち元喬(もとたか)といい、字を子遷(しせん)、書斎を芙(キョ)館(ふきょかん)と称しました(「ふきょ」とは、「蓮・蓮の花」の意)。この場所は、南郭の別邸があったところで、邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。南郭は、天和三年(1683年)に京都に生まれ、十六歳の時に和歌と絵画をもって江戸の柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人となって、古文辞学と詩を学びました。三十四歳の時、柳沢家を辞し、ここの別邸で塾を開いて在野の人となり、もっぱら漢詩文に親しみ、後継者の育成に努めました。宝暦九年(1759年)没。享年七十七歳。著書に「南郭文集」「大東世語」「南郭先生燈下書」などがあります。
この建物が敬老館?
恵比寿西一丁目交差点は五差路になっていますが、地下に潜った東横線の手前にあるミスター・フレンドリー・カフェの前まで坂が上っています。
- 33.衆楽坂
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衆楽坂は長さが約220mほどの緩やかな坂です。坂上付近はやや急な坂になっています。この辺りの昔の町名が衆楽町であったことから、町名に因んでこの坂名になりました。
衆楽坂の坂下付近から南西方向に100mほど進んだところからギャラリー懐美館の前まで坂が上がっています。
- 34.内記坂
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内記坂は長さが約210mほどの弧を描くように左に曲がりながら上がる緩やかな坂です。坂名は、江戸時代に坂付近に「横山内記抱屋舗」があったことに因んでいます。「抱屋舗」とは、武家や町人などが百姓地であった土地を買い取って建てた屋敷のことです。
長谷戸小学校の前から恵比寿公園に向かって坂が下っています。
- 35.夕やけ坂
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夕やけ坂は長さが約60mほどのやや急な坂です。坂名は、長谷戸小学校の正門前に建つ「夕やけこやけの碑」に因んで名付けられました。長谷戸小学校は、「夕やけこやけ」の作曲で知られる草川信が音楽教師として教えていた小学校です。草川信は「夕やけこやけ」の他にも誰でも知っている歌を多く作曲していますが、こんな先生に教わった子供達はさぞかし幸せだったことでしょう。
夕やけこやけの碑
草川信先生は大正六年三月に音楽学校を卒業、同年四月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。昭和二年四月までの十余年勤務されました。その間、児童の音楽教育に情熱を傾けられ、本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力、幾多の功績を残されました。さらに、本校在職中に児量の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表。子どもたちはこの歌を口すさみながら成長しました。ここに創立七十五周年を記念して草川先生を偲び、この顕彰碑を建立するものであります。
作曲・作品
「ゆりかごの歌」、「どこかで春が」、「風」、「夕焼け小焼け」、「春の歌」、「風鈴」、「緑のそよ風」、「汽車ポッポ」他
恵比寿南三丁目交差点の角に、小さなお堂が建っています。ここは祐天寺に行く道と目黒不動尊に行く道が分かれていたところなのでしょう。道標の横には欠けた仏像らしき石碑も置かれています。
祠の脇の塀には案内板が貼られています。
道しるべ
江戸時代中期の安永八年(1779年)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り、麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。
恵比寿南三丁目交差点から南西方向に、渋谷区と目黒区の区境付近まで坂が上がっています。
坂の途中には馬頭観世音菩薩を祀った祠があります。「馬頭観世音」とは六観音のひとつで、頭の上に馬の頭をいただいていることから、六道のひとつの畜生界を済度するといわれ、馬の守護神として昔から広く信仰されています。観世音菩薩三十三化身のなかで唯一忿怒の相をしています。第三の目も持ち、普通は三つの顔で、腕は二つまたは八つを持っています。怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、また馬は大食であることから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれています。馬の頭を頂いた観音様の姿を見て、馬とともに生活する当時の人々に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれ、農家では農耕馬の、馬の産地では生まれ育つ仔馬たちの、そして馬によって稼いでいた人々にあっては馬と歩む道中の安全を祈ったり、死んでしまった馬の冥福を祈ったり、そんな理由で馬頭観音が作られたといわれています。
馬頭観世音
このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四年(1719年)、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。そのお礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福にくらしたとのことです。この道は目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。
- 36.新富士坂
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新富士坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。別名を「観音坂・中山坂」といいます。坂名は、江戸時代にこの坂を上り詰めた崖の上に新富士があったことに因んでいます。この辺りは将軍家の狩猟地で、庶民が近づけないお留め山でした。この土地の管理をしていた中山間右衛門の屋敷がこ坂沿いにあったことから「中山坂」と呼ばれるようになりました。また「観音坂」の坂名は、坂の途中に馬頭観世音像があることに因んでいます。坂の案内柱はありませんが、坂上のマンション「テラス恵比寿丘の上」の前に「目黒の“新富士”と新富士遺跡」という案内板が立っています。
目黒の”新富士”と新富士遺跡
この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。平成三年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。
恵比寿駅西口前の広場南側から山手線の線路沿いに南に坂が上がっています。
- 37.いなり坂
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いなり坂は長さが約120mほどのかなり急な坂です。坂名は、坂の中ほどに福徳稲荷社が鎮座していることに因んでいます。。。の筈ですが、どこを探しても福徳稲荷社が見つかりません。ネットで調べると、坂の中ほどに赤い鳥居と祠が建っていると書いてあるのですがね。
スカイウォークからも眺められたかっての福徳稲荷社です。
更に調べて見ると、飲食ビルの建設で一時的に取り壊され、新ビルが完成した後でビルの屋上に遷されるとのことです。工事中のビルは見当たりませんので、既に新ビルは竣工済と思われますが、いくら背伸びをしても坂に面したビルの屋上に稲荷社は見当たりません。一般の人も参拝出来るようなるとのことなんですけど。
今日のゴール地点である恵比寿駅に着きました。
ということで、渋谷区で三番目の「上原・広尾・恵比寿コース」を歩き終えました。次は、渋谷区で最後となる広尾と恵比寿地区の残りの坂を中心に巡りたいと思います。
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