目黒区(青葉台・上目黒・中目黒コース)
踏破記
渋谷区の次はどの区にしようかと考えたのですが、23区で残っている板橋区(67)・世田谷区(66)・大田区(55)・杉並区(49)・目黒区(47)の中から、季節柄桜の名所が多い目黒区を選びました。目黒区もほぼ全域を歩き尽くしたのでどの坂も一度は通った筈です。ま、坂を意識して歩いた訳ではないので記憶にない坂もあるかもしれませんが、お花見気分で巡りたいと思います。
目黒区は、昭和七年10月1日に東京府荏原郡目黒町と同碑衾町が合併し、東京市に編入されて誕生しました。区名の「目黒」の由来には、いろいろな説があります。最も分かりやすいのは、瀧泉寺の通称「目黒不動尊」に由来するという説です。寺の通称は不動尊像の目が黒かったことに因むといわれていますが、地名が成立した時期よりも後に関連付けられた可能性があり。確かではありません。その他には、境界地の筋目に設置された盛り土を意味する「メクロ(目畔)」に由来するという説、馬の牧場が多かった地域で馬が逃げ出さないように造られた畦道(盛り土)から「メクロ(馬畔)」になったという説、「メ」は「愛でる」・「クロ」は「驪」で「愛驪(めぐろ)」に由来するという説、「メ(谷)・クロ(嶺)」で目黒川と谷を囲む丘陵地帯に由来するという説、蛇行する川を表した地名で「メグル(巡)」に由来するという説などがあります。地形的には武蔵野台地の南東部に位置し、目黒川と呑川が形成する谷が北西から南東に向かって20m〜30mの深さのとい状の谷を形成しています。これらの谷の支谷が台地を刻み、目黒区は起伏の多い坂の街となっています。このように、目黒区の地形は台地の部分と谷の部分から成り立っています。台地の部分は「高い台地」と「低い台地」に分けられ、高い台地は目黒区の南西部にある「荏原台」と呼ばれる台地の一部と北東部の「淀橋台」と呼ばれる台地の一部になります。このふたつの台地の間には海抜25m〜32mの台地があり、この台地は「目黒台」と呼ばれています。目黒台は目黒川によって深い谷が刻まれ、高台の目黒駅から目黒川までは権之助坂となり、そこから再び上り坂になっています。台地上からは多くの急坂が目黒川に向かって下っていて、坂上からは雄大な富士山を望むことができます。23区には富士見坂と名の付く坂が多くありますが、富士山の全景を眺められるのは目黒駅近くの富士見坂だけでしょう。
今回は目黒区の坂道を、青葉台・上目黒・中目黒、上目黒・中目黒の残りの坂と下目黒・目黒・三田、碑文谷・柿の木坂・八雲・自由が丘、自由が丘の残りと中根・平町・緑が丘・大岡山の4つの地域に分けて巡ります。先ずは渋谷駅西口からスタートします。
渋谷駅から国道246号玉川通りの坂を上り、神泉町交差点を右折して旧山手通りに入ります。「神泉(しんせん)」の地名は、江戸時代に刊行された「江戸砂子」によりますと、「神仙水 八幡の西 むかし空鉢仙人此谷に来り不老長生の仙薬を練りたりと云霊水也此所を神仙谷といふ」とあり、「神仙谷」に由来しているという説が有力です。
神泉町交差点の直ぐ先で、旧山手通りに淡島通りが交差しています。玉川通りほどではありませんが、多くのバスが行き交う都心の幹線道路です。通称名の淡島通りの「淡島」とは、下北沢近くにある森巌寺境内の淡島神社に由来しています。森巌寺は世田谷の散歩道「@北沢地域コース 」で訪れました。森巌寺は徳川家康の次男の結城秀康の位牌所として建立された浄土宗の寺院です。開山した清誉上人は持病の腰痛に悩んでいましたが、淡島明神に祈願すると夢の中で霊示があり、灸を施したところ腰痛が完治しました。そこで淡島明神をこの地に勧請し、代々住職はこの灸治の法を口授相伝して毎月3と8の灸治の日に人々に施すようになったと伝えられています。山門の横には「粟嶋の灸」という大きな木の看板が掲げられています。森巌寺は針供養のお寺としても知られています。針供養とは、折れたり、曲がったり、錆びたりして使えなくなった古針を供養し、近くのお寺や神社に納める行事です。針供養は各地の社寺で執り行われていますが、主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われます。森巌寺の針供養の始まりは定かではありませんが、幕末には狂歌に詠まれていることから、当時すでに近郷に知られていたものと思われます。現在でも、毎年2月8日には淡島堂で針供養が行われています。淡島通りは、元々は道玄坂上と森巌寺付近を結び、淡島交差点付近で分岐して調布市方面に向かっていた滝坂道が原型です。その後道筋の変更が重ねられ、淡島神社付近を通らない現在のルートになりました。そういえば、道玄坂上交番前交差点脇に滝坂道の案内柱が立っていましたね。
滝坂道
滝坂道(甲州街道出道)は、かつての大山道が道玄坂から分岐をし、武蔵国府のあった府中に向かっていた古道で、その起源は江戸幕府が開府する前からと考えられています。滝坂道は、目黒区の北部を通り、世田谷区を横断して、調布市で甲州街道に合流します。名称の由来は、甲州街道の滝坂で合流することから滝坂道と呼ばれたようです。現在は、裏渋谷通りの愛称で親しまれています。
旧山手通りと交差した淡島通りは、山手通りの松見坂交差点に向かって谷底に落ちるように下っています。
- 1.富士見坂
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富士見坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。坂上に現在のような高い建物がなかった時代には、坂上から富士山が綺麗に見えたことでこの坂名が付けられたのでしょう。そんなことを言ったら、周辺の坂は全て富士見坂になってしまいますが。
淡島通りは、山手通りの松見坂交差点から駒場方面に向かって再び上がっています。
- 2.松見坂
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松見坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。別名を「駒場坂」といいます。坂名の由来は、この坂から「道玄物見の松」がよく見えたからとか、坂の途中に「松見地蔵」があったからとか、幾つかの説があります。坂下の松見坂交差点の脇に坂名の由来を記した石柱が建っています。
松見坂
この坂から、「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた)がよく見えたので、松見坂と呼ばれるようになったといわれる。また、坂の途中に「松見地蔵」があったので坂の名になったという説もある。昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる広大な原野があったが、今はその面影もない。
石柱には、かっての松見坂を描いた挿絵も添えられています。松の木の下を歩く旅人の顔がやけにもの悲しい表情をしていますね。
松見坂交差点から山手通りを池尻方向に歩いた先の左手に、”く”の字に曲がりながら坂が上がっています。この坂はかっての厚木街道の道筋に当たります。
- 3.大坂
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大坂は長さが約160mほどのかなり急な坂です。坂名の由来は、かっての厚木街道にあった坂のうち、急坂で一番大きな坂であったことに因んで「大坂」と名付けられました。坂上の玉川通りとの分岐点に案内柱が立っています。
大坂
厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大坂と呼ぶようになったといわれる。この坂標識の北側の坂が旧道で、南側の坂が新道である。
厚木街道の新道は左側の玉川通りとなり、かっての厚木街道は右側の大坂になります。
玉川通りを歩道橋で渡りますと、住友不動産の青葉台タワー(ラ・トゥール青葉台)の手前に超短い坂と階段が上がっています。坂上を進みますと、その先には階段が下っています。
- 4.蛇坂
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蛇坂は長さが約150mほどの階段です。坂上付近は踊り場の広い緩やかな階段になっていますが、途中で向きを変えた先は坂下に向かってやや急な階段になっています。坂名の由来は、昔はジメジメとした樹下の道で、蛇の棲家だったことに因んでいます。
蛇坂の階段下から100mほど先に菅刈小学校があります。その西側のフェンスに沿って玉川通りに向かうやや急な坂が上がっています。
- 5.相ノ坂
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相ノ坂は長さが約180mほどの左に弧を描いて上がるやや急な坂です。別名を「合の坂」といいます。坂名は、大坂と新道坂の間にある坂ということに因んで「あいの坂」と呼ばれるようになりました。坂下の菅刈小学校の角に案内柱が立っています。
相ノ坂
坂の上の旧大山道(現、玉川通り)と坂下の旧日向道の間の坂だからとする説や、人々が落ち合う坂(合の坂・逢の坂)だからとする説がある。
相ノ坂の坂上から路地を抜けて旧山手通りに出ます。旧山手通りに面してアカデミー出版の本社があります。大人のためのホビー講座やギター講座、幼児のための情操教育講座などを開いていますが、書籍の出版が最大の事業です。アメリカの人気作家シドニー・シェルダン氏の作品を超訳(自然な日本語に訳すこと)し、彼の作品はどれも大ベストセラーになりました。特に、代表作の「ゲームの達人」は長期間に亘ってベストセラーの1位を続け、ついには上下計700万部という日本の出版記録を打ち立てました。本の出版だけでなく、本を英語教育(イングリッシュ・アドベンチャー)の教材にしたことも特筆すべきことです。その火付け役になったのが「追跡(The Chase)」です。日本人のために書き下ろしたオリジナル作品を12章に分け、名優オーソン・ウェルズがひとりで朗読した録音テープを教材として毎月配布するという、当時としては画期的な試みでした。その後、「ゲームの達人」も教材化され、これによって日本人の英語力(特にヒアリング力)が向上したと言っても過言ではないと思っています。
「西郷山公園」は旧山手通りから目K川に向って下っていく斜面に設けられた公園で、見晴らしの良い広場からはお天気が良ければ富士山が拝めます。ここは明治時代の元老旧西郷従道(西郷隆盛の弟)の別邸の一部でした。今は公園内の桜が満開を迎えています。
都立第一商高交差点を右折しますと、急な坂道が下っています。
坂の途中には、美空ひばりが住んでいた頃のままの自宅の一部を公開している「ひばり記念館」があります。入口横には、歌一筋に生きた美空ひばりの人生への対処の知恵が込められた言葉を記したプレートが掲げられています。
「生まれし時に この道 知らずとも この道を歩み 幾年月ぞ 今日涙して 明日又 笑おうぞ」
昭和を代表する大スターの美空ひばりは、歌は1931曲、映画の主演は170本、芝居の座長公演は4600回、コンサート興業では8000万人を集客するという気の遠くなるような怒濤の仕事をしました。亡くなる1年前には、病を押して東京ドームのこけら落しという大舞台に立ち、5万5千人のファンを集めた復活コンサートを成功させました。当日は体調の悪い中で40曲を歌い、伝説のコンサートとして後世にまで語り継がれています。翌年の1989年6月24日に52歳の若さで永眠し、女性初の国民栄誉賞が贈られました。奇しくも、その年に昭和は終わり、平成の時代が幕を明けました。
- 6.上村坂
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上村坂は長さが約180mほどの弧を描くように右に曲がりながら下るやや急な坂です。坂名は、明治時代の軍人である上村彦之丞の邸が坂上にあったことに因んでいます。坂下の交差点脇に案内柱が立っています。
上村坂
名称の由来は、明治時代の軍人で海軍大将・男爵にまですすんだ上村彦乃丞の邸宅が、この坂の上にあったためといわれている。なお、歌手・美空ひばりの邸宅もこの坂に面していたことから、「ひばり坂」という名称でも親しまれている。
上村坂の坂下から西郷山通りを進んだ先に、左手に緩やかに曲がりながら坂が上っています。
- 7.目切坂
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目切坂は長さが約200mほどのやや急な坂です。別名を「しめ切坂・くらやみ坂」といいます。坂名は、江戸時代にこの辺りに石臼の目を切る職人が住んでいたことに因んでいます。坂下の交差点脇に案内柱が立っています。
目切坂
江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」の上目黒村の項には「メキリ坂」という坂名がみえ、渋谷との境にあり石臼の目を切る職人が住んでいたため目切坂となったと記されています。
案内柱の横には目黒区が設置した「目黒区みどりの散歩道」の案内板が立っています。この案内板は目黒区内の名所・旧跡で必ず見かけます。歴史的な解説がなされていて、大変役に立ちます。
目切坂と旧鎌倉街道
目の前の坂が目切坂。江戸時代、近くに石ウスの目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前がついたという。この道はかっての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉へ急行できるようにとつくられた道の一つ。「いざ鎌倉へ」と、鎧かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。
今は建物と樹木によって視界が遮られていますが、かっての目切坂の坂上は富士山が眺望できる絶好の場所でした。「関東の富士見100景」にも選ばれています。
坂上には江戸時代に富士塚が造られ、大勢の参拝客で賑わいました。富士塚は都内各地で見られますが、本物の富士山と一緒に拝めるのはこことこの後に訪れるもうひとつの新富士だけだったかもしれません。「富士信仰と元富士」の案内板も立っています。
富士信仰と元富士
富士信仰が広まった江戸後期、手軽に富士登山ができるよう各地に“ミニ富士”が造られた。高さ12mの元富士もそのひとつ。山頂からは本物の富士山も望め大勢の人で賑わった。
「目黒元富士跡」の別の案内板も立っています。都内で最初の富士塚は、安永九年(1780年)に高田村(現在の新宿区戸塚)の藤四郎という者が遙々富士の麓から溶岩塊を運んで近所の宝泉寺領に人造の富士を築いたのが最初といわれています。目黒元富士は別名西富士または丸旦山といわれ、文化九年(1812年)に目黒村の熱烈な富士講員たちが築きました。高さは12メートルほどもあり、つづら折りの登り道の先の山頂には浅間神社が奉られていました。旧6月1日の山開きに限らず、江戸の人びとの行楽の名所として春も秋も賑わいました。「丸旦山」は目黒村の富士講のマークが丸に旦の字であったことに由来します。明治十一年にお宮や鳥居が撤去され、丸旦マークの碑石は池尻大橋の氷川神社に移されました。今でも7月1日には浅間様の例祭が行われています。
目黒元富士跡
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化九年(1812年)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政二年(1819年)に、別所坂上(中目黒2−1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の「名所江戸百景」に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました。
旧朝倉家住宅の向かいに小さな地蔵尊が祀られています。
地蔵・道しるべ
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。この地蔵尊は、文政元年(1818年)の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
旧山手通りは鎗ヶ崎交差点で終点となり、駒沢通りに合流します。駒沢通りは鎗ヶ崎交差点の先から目黒川に向かって長い下り坂になっています。
- 8.新道坂
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新道坂は長さが約170mほどの左に大きく曲がりながら緩やかに下る坂です。坂名は、別所坂と目切坂の間に新しく開かれた坂ということに因んで名付けられました。坂の途中に金属製の案内板が建っています。落書きが酷くて挿絵は判別できず、碑文も殆ど読み取れません。どうせ落書きするんであれば、自分の顔にすればいいのに。
頑張って読み取りました!
新道坂
坂名は、別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため、新道坂と呼ぶようになった。坂上の左右に見えるコンクリートのようへきは三田用水のなごりである。三田用水は、寛文四年(1664年)芝白金御殿の池水を引くために玉川上水の分水路としてつくられ、この尾根を通って三田・芝方面に流れていた。人々は農業・工業・雑用水として利用したが昭和五十年にその流れを止め、約三百年にわたる歴史を閉じた。線路ぎわの狭い坂が旧道である。
目黒川に架かる皀樹橋からは川面に垂れる満開の桜並木が眺められます。
目黒学園中学校・高等学校の先から左右に曲がりながら急な坂が上がっています。
あまりの急勾配なために、坂上には階段が併設されています。勿論、自動車は通り抜けできません。坂上は曲がり角の先にありますので坂下からは見通しがきかず、標識を見落として無理して上がるとUターンもできず、悲惨なことになります。
- 9.別所坂
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別所坂は長さが約150mほどの左右に大きく曲がりながら上る非常に急な坂です。坂名は、近くに「別所」という地名があったことに因んで名付けられました。坂下に案内柱が立っています。
別所坂
この辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。
江戸時代に別所坂の坂上に築山されたのは「新富士」と呼ばれ、目切坂の坂上にあった「元富士」と並んで目黒の名所でした。目黒新富士は元富士に遅れること7年の文政二年(1819年)に、択捉島探検で知られる近藤重蔵が三田村鎗ヶ崎の邸内に築いたもので、東富士とも近藤富士とも呼ばれました。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、富士の築山も信仰心からというよりも観賞のために築山したと思われます。昭和三十四年まで残っていましたが、今日では別所坂の崖上にある別所坂児童遊園に石碑が残るだけとなっています。
新富士
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、 新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政二年(1819年)、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(「遊歴雑記」)と書かれるほどであった。新富士は昭和三十四年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月建之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
別所坂上で直角に折れ曲がる角に庚申塔が祭られた小祠があり、その横に案内板のプレートが壁に貼り付けられています。
庚申塔
「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。仲間たちは60日に一度くる庚申の日に、眠ってしまうと、「三戸(さんし)」という虫が体から抜け出し、天の神に目頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。江戸時代には、豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦や農作業の情報交換の場ともなり盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。形や図柄は様々だが多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。別所坂上庚申塔の昭和五十一年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天〜明和元年(1665年〜1764年)である。
坂上の階段の手摺りの前には新富士の案内板も立っています。
目黒の”新富士”と新富士遺跡
この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。平成三年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。
別所坂を下りて目黒川の遊歩道を中目黒方向に進みます。丁度桜は満開で、遊歩道は多くの花見客で賑わっています。海外からの観光客でしょうか、外人さんも大勢見かけます。
お花見といえば定番の宴会ですね。でも、目黒川の遊歩道では座り込んでの飲食は禁止されています。川沿いの飲食店とかテイクアウトのお店で調達して食べながらお花見をするしかありません。大樽さんも屋台のお店も年に一度のかき入れ時ですね。
次の坂は目黒川から少し離れた場所にあります。山手通りの東山一丁目交差点を横断し、路地を入った先から烏森小学校の前まで長い坂が上がっています。
- 10.小川坂
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小川坂は長さが約360mほどの大きく弧を描きながら上る緩やかな坂です。坂名は、かってこの一帯の地名が「小川」だったことに因んで名付けられました。坂上の烏森小学校の校門脇の壁に案内板が貼られています。
小川坂
かつて、この一帯を「小川」といい、坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。
野沢通りの宿山交番前交差点の近くに庚申塔が建っています。
宿山の庚申塔
江戸時代の農村では、庚申信仰が盛んで各集落に庚申請があったといいます。60日毎にめぐってくる庚申の日に、溝の人々が集まって青面金剛、帝釈天、猿田彦などをまつり、飲食を共にしながら夜を明かす庚申待が行われました。そして庚申待を18回終えると、供養や記念のために庚申塔を建立しました。この周辺はかつて、字名で宿山といいました。向かって右から2番目の庚申塔は、元禄五年(1692年)の造立で本尊を青面金剛とし、日月、二鶏と、三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿ずつ浮き彫りされています。その左の庚申塔は、地蔵菩薩を本尊とするもので、延宝三年(1675年)に造立されました。一番左の庚申塔は宝永五年(1708年)の造立で、青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれています。
ロイヤルパレス上目黒付近から蛇崩交差点に向かって坂が下っています。
- 11.半兵衛坂
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半兵衛坂は長さが約160mほどの緩やかな坂です。坂名は、江戸時代にこの辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったことに因んでいます。坂の中ほどに案内柱が立っています。
半兵衛坂
江戸時代、この辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶようになった。尚、この道路は昭和十五年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称「オリンピック道路」とも呼ばれる。
蛇崩交差点で左折して次の坂に向かいます。「蛇崩」とは怖い名前ですが、名前の由来には大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきたからなど幾つかの説があります。交差点の先で蛇崩川遊歩道と交差します。蛇崩川遊歩道は昔流れていた蛇崩川を暗渠化して出来た緑道です。蛇崩川は、旧弦巻村を水源にして旧上馬引沢村から旧下馬引沢村を通り、目黒区の旧上目黒村(現在の中目黒駅の脇)で目黒川に合流する小さな川でした。川の名称の由来は、流れる形が赤土の地層を崩したように蛇行していたことに因むといわれています。大蛇説よりはもっともらしいですね。
東横線の高架に向かって真っ直ぐな坂が上がっています。
- 12.謡坂
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謡坂(うたいざか)は長さが約130mほどの緩やかな坂です。坂名は、昭和初期に坂の近くに謡の好きな人が住んでいたことに因んでいます。坂の中ほどのマンションの前に坂名を記した御影石製の碑が建っています。崩し文字が使われているので、初めて見た人は「謡」とは読めないかもしれません。
坂上には案内柱も立っています。雨風に晒され、文字は消えて碑面はのっぺらぽうになっています。
謡坂
昭和の初め頃、この坂の近くに謡の好きな人が住んでいたので、謡坂と呼ばれるようになったといわれる。
謡坂の坂上の先で東横線のガードにぶつかりますが、その手前で斜め左手に坂が下っています。
- 13.稲荷坂
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稲荷坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。私は見逃しましたが、坂の途中に棘抜稲荷の祠があることから「稲荷坂」という名前が付けられました。坂の途中に案内柱が立っています。
稲荷坂
この近くに刺抜稲荷大明神があるので、稲荷坂と呼ばれるようになった。一説に、この道はかつての鎌倉道の一部とも言われ、目黒でも古い道の一つである。
今日のゴール地点の中目黒駅に着きました。
ということで、目黒区で最初の「青葉台・上目黒・中目黒コース」を歩き終えました。次は、目黒区中心地域の坂を巡りたいと思います。
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