目黒区(碑文谷・柿の木坂・八雲・自由が丘コース)
踏破記
今日は前回の上目黒・中目黒・下目黒・目黒・三田コースに引き続き、目黒区で三番目の碑文谷・柿の木坂・八雲・自由が丘の坂を巡ります。先ずは前回のゴール地点である不動前駅からスタートします。
不動前駅から今日の最初の坂までは随分と距離があります。不動前駅からかむろ坂通りに出て、小山台高校の先で26号線通りに入ります。あまり聞き慣れない道路名ですが、品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である都道420号鮫洲大山線の目黒郵便局前交差点〜戸越三丁目交差点の区間の通り名です。都道420号鮫洲大山線は、山手通り(環状6号線)と環七通り(環状7号線)の中間を通ることから「環状6.5号線」と呼ばれることもあります。26号線通りは目黒郵便局前交差点で目黒通りにぶつかりますから、何も考えずに26号線通りを進めばよかったのですが、近道しようと思って途中で路地に入り込みました。歩き慣れた道の筈だったのですが、どうも方角を間違えたようで目黒本町と碑文谷の住宅地を堂々巡りするハメになってしまいました。やっとのことで田向公園の手前で目黒通りに出ます。目黒通りは柿の木坂陸橋を頂点として、東側が上り坂で西側が下り坂になっています。
先ずは上り坂に向かいます。概ね碑文谷保健センター交差点辺りから上りとなり、柿の木坂陸橋手前のスーパーのOZEKIの先辺りまで坂が続いています。
- 28.どぜむ坂
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どぜむ坂は長さが約180mほどの緩やかな坂です。別名を「どぜも坂」といいます。OZEKIの前に金属製の案内板が建っています。側面に多少の落書きはあるものの、表面は綺麗です。
案内板の上部には、「昭和初年の二子道(現在の目黒通り)。碑文谷警察署辺り」と記された挿絵が添えられています。道路の脇に大木が植わっていたり、荷車を引いた人がいたりと、隔世の感がします。
水に浮いた水死体のことを「土左衛門」と呼ぶようになったのは江戸時代からのことです。水死体はいったん水底に沈み腐敗が始まるとガスを発生し、組織が水を吸ってぶよぶよになり、体が膨れ上がって真っ白に見えることがあります。これが享保年間に色白で典型的なあんこ型体形(締まりのない肥満体)で有名だった大相撲力士の成瀬川土左衛門にそっくりだったことから「土左衛門」という名前がついたとのことです。碑文に出てくる「土左衛門」は勿論関係ないと思いますが。
どぜむ坂
坂名の”どぜむ”は堂前(どうぜん)の意味で、昔このあたりの道端にお堂があったことから”どぜむ坂”と呼ぶようになったといわれる。また、この土地の”土左衛門”なる人がひらいた坂なので”どざえもん坂”、それがなまって”どぜも坂”・”どぜむ坂”と呼ばれるようになったともいわれている。
環七通りの陸橋と目黒通りが立体交差する柿の木坂陸橋付近から、高架で目黒通りを横断する東横線のガードをくぐった先まで下り坂が続いています。
- 29.柿の木坂
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柿の木坂は長さが約350mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂の途中に大きな柿の木があったから「柿の木坂」と呼ばれたとか、この坂を通る野菜運びの荷車から子供たちが柿を抜き取ったことで「柿抜き坂」と呼ばれ、それが転訛したとか諸説があります。東横線のガード手前に金属製の案内板が建っています。「どぜむ坂」の案内板には落書きはなかったのですが、こちらは「新道坂」ほどではないですけど裏面はかなり悲惨な状態です。
案内板の上部には、「大正年間 秋の午后」と記された挿絵が添えられています。道路の脇に木々が茂り、萱葺きの民家の前には荷物を満載した荷車を引いた人や鍬を担いだお百姓さんが歩いていたりと、秋の長閑な風景が見て取れます。道路の脇には放し飼いの鶏も描かれていますね。
案内板の文字はかなり読みづらくなっていますが、何とか解読しました。
柿の木坂
坂の途中に人目につく大きな柿の木があったので、この名がついたといわれる。また、近所の子どもが、この坂を通る野菜を運ぶ荷車から柿を抜き取ったため、「柿抜き坂」が変って「柿の木坂」になったという説もある。目黒通りが今のように広くなる前は、現在の東横線高架橋の高さまで登る急坂であった。
目黒通りの都立大駅前交差点で右折して柿の木坂通りに入ります。同じ「柿の木坂」ですが、こちらは目黒通りの「柿の木坂」とは別の道路です。最初の交差点のところから「めぐろ区民キャンパス」入口前の交差点まで坂が上がっています。
- 30.天神坂
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天神坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂の途中に天神を祀った北野神社があることに因んでいます。坂上の交差点脇に案内柱が立っています。
天神坂
坂の途中に北野神社があり、天神様(菅原道真)を祀っていることからこの坂名となった。坂のあるこの道は、もとは駒沢方面へ通じる古道であったが、現在は直線的になり経路も変更になっている。
氏子さんが制作されたのでしょうか、手作り感満載の柿の木坂北野神社の案内板が立っています。
柿の木坂の天神様
天満宮の内陣には菅原道真公のご神体(木彫りの天神様)がお祀りされています。ご神体はいつの時代のものかわからない。しかし、平成十三年七月、奉賛会有志がご神体と社殿の下部と基礎を修復したときに、御神体の下部に「安永六丁酉九月二十五日 再興 小杉山十五世日従(花押)」と黒書(民間機関などが独自の観点から調査して欠点や改善点を告発・指摘する報告書【官庁が出す白書に対していう語】)が発見され、安永六年(1777年)九月二十五日に小杉山常円寺十五世日従住職が再興されたことがわかった。柿の木坂の天神様は地元の色々な方にお祀りされて、今日に至っている。
学業 文芸 武芸 書道の天神様
地元の天神様に学業成就などお願いしたら如何でしょうか。
「目黒区みどりの散歩道」の案内板も立っています。耕地整理事業は利害関係が絡み合って大変な努力が必要だったのでしょう。
北野神社と耕地整理の碑
天神様こと菅原道真を祀る。北野神社はもとは田んぼの脇にあり、農業神として崇められていたが、昭和初期の耕地整理で現在地に移された。境内には耕地整理の記念碑がある。
めぐろ区民キャンパスは、1991年に八王子市に移転した都立大学(現在の首都大学東京)の跡地を整備して造られた目黒区の複合施設です。八雲中央図書館や目黒区立八雲体育館などの施設があるめぐろパーシモンホールを核にして、葬儀専用式場のセレモニー目黒、高層住宅棟、それに広い芝生広場や渓流で寛げる区民の憩いの公園から構成されています。
めぐろ区民キャンパスの南側の道路を真っ直ぐに進みますと、呑川駒沢支流緑道と交差します。緑道は桜並木になっていて、満開の桜が散り始めています。
呑川駒沢支流緑道から自由通りを越えた先まで坂が上っています。
- 31.化坂
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化坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、昔坂の周辺に化け猫が住んでいたということではありません。湧水が出る所を「はけ」と呼びますが、それが転じて「化」坂となりました。また、衾村と深沢村の境を分けたので「分け坂」とも呼ばれました。坂上の交差点脇に案内柱が立っています。
化坂
元の化坂は耕地整理のため消滅している。武蔵野台地の斜面に多い赤土層に砂礫層が露出し、湧水が出るところを「はけ」といった。それが転じて化坂となったといわれる。また、この坂が衾と深沢の堺(境?)を分けたので「分け坂」とも呼んだという。
呑川駒沢支流緑道に戻って南方向に進みますと呑川緑道とT字型に突き当たります。呑川緑道も(いや、もっと)桜が満開になっています。
呑川緑道を都立大学駅方向に少し進んだ先の左手奥に氷川神社があります。氷川神社は、かっては武蔵国荏原郡衾村(現在の目黒区八雲・東が丘・柿の木坂・自由が丘・緑が丘・平町・大岡山)の鎮守でした。創建年代は不明ですが、衾村で代々名主を務めた栗山家に伝わる文書に宝暦七年(1757年)7月に鳥居建立という記事が残っていることから、少なくともこれ以前と考えられます。大正時代には、毎晩12時頃から明け方の3時頃にかけてこの木から呻き声が聞こえると話題になり、氷川様の呻り樫と呼ばれました。
八雲氷川神社と劔の舞
旧衾村の鎮守様。昔から「癪封じの神様」として知られ、健康を願って、わざわざ遠方から参詣に来る人のための宿泊所まで設けられていた。御神木である境内のアカガシをけずりとり煎じてのむと咳や腹痛がなおると信じられていたそうで、そのご利益にあやかろうと木の皮をはぐ人が絶えなかったという。昔のご神木はすでに枯れてしまったが、樹齢数百年にもなるアカガシの根株が今も神殿の裏手に残っている。また神社には八岐大蛇退治にちなんだ「剣の舞」が伝わり、祭礼の折には二百年あまりの歴史を持つ古式豊かな舞いが奉納される。
氷川神社の参道はとても長く、本殿は遙か彼方に鎮座しています。
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もうひとつの案内板も立っています。
氷川神社
旧衾村の鎮守で、祭神は素戔鳴尊、稲田姫命、大己貴命の3柱です。創建の年代は詳らかではありませんが、内陣に文化十四年(1817年)奉納の記載があり、また社殿の改築が安政二年(1855年)に行われているところからみて、かなり古いことがわかります。祭礼は、毎年1月、5月、9月に行われますが、特に9月には神楽殿で素戔嗚尊の”八岐大蛇退治の物語”を表現している「剣の舞」が奉納されます。約200年の昔から伝わる古式豊かな舞で、太鼓、笛、大拍子に合わせて、一人の人が舞う美しいものです。この神社は昔から「癪封じの神」として広く信仰され、遠く下総や相模からも参詣人がつめかけ、栄えた神社です。
本殿の裏手には、アカガシの根株が今も大事に祀られています。
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呑川緑道に戻ります。氷川神社の参道の延長線上に目黒通りの手前まで坂が上がっています。
- 32.氷川坂
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氷川坂は長さが約110mほどの緩やかな坂です。別名を「八幡坂・宮前坂」といいます。坂名の由来は、近くに氷川神社があることに因んでいます。坂の中ほどに案内柱が立っています。
氷川坂
近くに氷川神社があるので氷川坂と呼ぶようになり、この坂下のあたりを坂口といった。坂のあるこの道から氷川神社の前を右折し、商店街を通る道は二子道と呼ばれた古道である。
氷川坂上から目黒通りのひとつ内側の道路を西に進みます。目黒通りから宮前小学校の東側に沿って坂が下りています。
- 33.しどめ坂
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しどめ坂は長さが約140mほどのやや急な坂です。別名を「しとめ坂」といいます。坂名の由来は、昔坂下に流れていた呑川の岸辺にしどみ(しどめ)が群生していたことに因んでいます。宮前小学校の東南角に案内柱が立っています。
しどめ坂
「しどめ」とはバラ科の草ぼけ(しどみ)のことで、赤い花の咲くとげのある木である。昔はこのしどめが、呑川の岸辺に群生していたので坂名になったといわれる。
宮前小学校の北側は呑川緑道に面しています。呑川は、桜新町辺りの品川用水からの漏れ水と、深沢周辺の湧き水の池から流出する水が合流して始まり、世田谷区内を約2km流れた後、目黒区八雲を通り、緑ヶ丘で九品仏川と合流し、大田区から東京湾に注ぐ全長14.4kmの二級河川です。このうち、深沢一丁目から五丁目までの区間は下水道幹線として暗渠化され、上部が呑川緑道として整備されています。呑川の両側には、かつて川の土手に植えられていた約300本の桜が今も残っていて、緑道や川を覆うように枝を広げています。桜の季節には多くの人の目を楽しませ、夏には木陰を提供しています。上流部の870mの区間は親水公園として、下流部の1153mの区間は呑川緑道として整備されています。呑川緑道は都立大学駅南側の東横線の高架手前で柿の木坂支流緑道を合わせ、緑が丘駅の手前で開渠となり、東から南に流路を変えて大田区に向かっています。緑道の脇に「歴史と文化の散歩道」の案内板があります。
碑文谷そぞろ散歩
碑文谷そぞろ散歩は、武蔵小山駅から碑文谷を経て自由(が)丘駅までの約5.8kmのみちのりです。桜並木の立会川緑道と碑文谷八幡、円融寺といった大きな寺社、そして武蔵小山、都立大学、自由が丘のショッピング街と静かな住宅街をめぐります。
呑川と衾村
呑川は、世田谷区桜新町の湧水を合わせた呑川源流と、奥沢浄真寺(九品仏)境内の湧水池を水源とする九品仏川が合流し、次に大田区池上で洗足池を水源とする小川を合わせて蒲田方面へと流れ、東京湾に注ぎます。江戸時代より農業用水として利用されてきました。当時川流がつくる地形は起伏に富み、谷地は水田に、台地上は畑地に利用されました。このあたり一帯は衾村といい、大根、芋、筍などが特産品だったようです。衾の名の由来については定かではありません。村の地形が衾をひろげた形に似ているからという説、牧場が多く、馬の飼料であるフスマの産地であったからという説、また病気の伏馬から付けたという説などがあります。
Nomikawa River and Fusumamura Village
Since Edo Era, Nomikawa River was used as irrigation water. The area along the river was called Fusumamura Village and was a production center of various vegetables such as radish, potato, and bambooshoot.
宮前小学校の西側に沿って坂が上がっています。
- 34.太鼓坂
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太鼓坂は長さが約120mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、昔この坂の斜面が太鼓のような形をしていたとか、急坂のために太鼓を転がすように人が転げ落ちたとか、諸説があります。宮前小学校の西側の擁壁にプレート型の案内板が貼られています。
太鼓坂
昔、この坂の斜面が太鼓のような形をしていたので、または、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたので、太鼓坂と呼ばれるようになったといわれています。また、目黒には多くの坂があり、この付近だけでも他に5つの坂があります。
@化坂 Aしどめ坂 B氷川坂 C谷畑坂 D睦坂
ザ・ガーデン自由が丘は、「高質食品スーパーマーケット」をコンセプトとし、地方名産品やワインなどを重点的に取り扱う食品スーパーです。自由が丘で創業した単独路面型食品スーパーですが、百貨店や駅商業施設内の食品売り場へもテナント出店しています。八雲三丁目交差点角に建つ自由が丘本店は、昭和四十一年(1966年)12月にシェル石油のガソリンスタンドの敷地に併設して輸入食材を扱う「スーパーマーケット・シェルガーデン」としてオープンしました。駐車場では駐車場誘導員が車の誘導を行なっています。お客さんが乗ってくる乗用車は殆どが高級輸入車なので、駐車時に接触してキズを作っては大変なことになりますからね。
ザ・ガーデン自由が丘の一つ先の交差点で目黒通りを左折し、住宅地の小道を進みます。アドレス自由が丘の前の交差点からすずかけ通りとの交差点まで坂が下っています。
- 35.谷畑坂
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谷畑坂は長さが約110mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、かってこの付近が衾村と呼ばれた頃の字名「谷畑」に因んでいます。起伏のある地形ですので、文字通り谷間に畑が散在していたのでしょう。坂上に案内柱が立っています。
谷畑坂
旧衾村の字「谷畑」にあることから谷畑坂と呼ばれた。この坂下はかつて湿地で鷺草が自生していた。またこの道は、二子道(現、目黒通り)から九品仏方面への道として耕地整理以前から現在に近い形で、直線的にあった古道であった。
小規模店の多い自由が丘では貴重な存在だったピーコックストア自由が丘店は52年間の営業を終え、現在は建て替え工事が進行中です。建て替えとはいっても、跡地にはイオンモールの商業施設が2023年秋に開業するとのことです。
自由が丘駅の北西に面し、女神通り・カトレア通り・すずかけ通りに囲まれた面積約5000平方メートルの自由が丘一丁目29番地区には、地上14階・地下3階、高さ約60mの複合施設が新築され、令和五年(2023年)に着工し、令和七年(2025年)に建物が竣工する予定になっています。複合施設は、地下1階から5階に商業施設、6階に業務施設、7階から14階に都市型住宅が整備されます。既に路地は閉鎖され、地区内のお店も殆どが仮店舗に移転を完了しています。完成した暁には自由が丘駅前の風景は一変することでしょう。
自由の女神像「あおそら(蒼穹)」は自由が丘のシンボルとなる彫像で、自由が丘駅前ロータリーの中に建っています。体育の日の連休に開催される「自由が丘女神まつり」は、数ある自由が丘のイベントの中でも最大スケールで、毎年約50万人もの来場者が集まります。コロナ渦で2020年・2021年は中止になっていましたが、2022年は3年ぶりに開催されました。今年は以前のような規模に戻るのではないかと期待しています。
自由が丘駅前広場の生い立ち
昭和の初め、この地には田畑がのどかに広がっていました。昭和二年、当時の衾西部耕地整理組合長の栗山久次郎氏が街の発展のためにと五島慶太氏と交渉を重ね、この地に駅を誘致することに成功しました。当時は「九品仏」という駅でしたが、昭和四年には大井町線も通り、駅の名称も「自由ヶ丘」と改名し場所も現在の位置に移されました。その後、自由が丘の街は商店街、住宅地とも発展を遂げ、駅前には建物が建ち並んでいましたが、戦争が激しくなるとともに建物は強制疎開で取り壊しとなり、残存していた建物も昭和二十年の空襲で焼失し、自由が丘の街は焼け野原になってしまいました。戦後、駅前の復興について話し合いが行われましたが、元のような商店街を望む人と駅前広場をつくったほうが良いという人との間で大論争があったといいます。結果として駅前広場をつくることに決まりましたが、当時から先進的な考えを持っていた自由が丘の人々の気質が垣間見られます。昭和二十二年に駅前広場が誕生しましたが、しばらくの間はわずかな植え込みにロータリーがあるだけで、決して立派なものではありませんでした。やがて駅前も商店街としての街並みが整うにつれて、街のシンボルとして外国の広場のように彫像を設けたらどうかという話になり、当時の商店街連合組合の事業として実施することになりました。彫像の制作は彫刻家の澤田政廣氏に依頼し、完成したのが自由の女神像「あきそら」です。昭和三十六年のことでした。以来、自由の女神像は街のシンボルとして、自由が丘の街を見守り続けています。このたびの自由が丘駅前広場整備は、自由が丘住民代表と目黒区が2年余にわたる検討を経て完成したものです。これまでの車優先のロータリーから安心して歩けるように歩道を拡幅し、女神広場も設けました。進取の気性に富んだ先人の努力に感謝しつつ、人に優しい自由が丘駅前広場をいつまでも美しく保ち、楽しく活用したいものです。
今日のゴール地点の自由が丘駅に着きました。
ということで、目黒区で三番目の「碑文谷・柿の木坂・八雲・自由が丘コース」を歩き終えました。目黒区の坂巡りの最後は、東横線の東側にある残りの坂を巡りたいと思います。
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