目黒区(中根・平町・緑が丘・大岡山コース)


踏破記


今日は前回の碑文谷・柿の木坂・八雲・自由が丘コースに引き続き、目黒区で最後の中根・平町・緑が丘・大岡山の坂を巡ります。先ずは前回のゴール地点である自由が丘駅からスタートします。自由が丘駅には、横浜駅と渋谷駅を結ぶ東横線と溝の口駅と大井町駅を結ぶ大井町線が乗り入れ、両線の乗換駅となっています。昭和二年(1927年)8月28日、東京横浜電鉄東横線の駅を設置するに際し、9体の阿弥陀如来像を安置していることから「九品仏」と呼ばれていた九品仏浄真寺の最寄り駅として「九品仏駅」という駅名が採用されました。しかし、大井町線の開業に伴い、浄真寺の門前に「九品仏駅」が設置されることになり、駅の所在地が荏原郡碑衾村大字衾(ふすま)であったことから、「衾駅」が新しい駅名の候補となりました。これに対し、駅名が田舎くさいということから舞踊家の石井漠ら文化人がその同年に開校した自由ヶ丘学園にちなんだ駅名に改称するよう運動し、「自由ケ丘駅」となり、さらに昭和四十年(1965年)に現在の「自由が丘駅」という駅名になりました。かって、東横線は横浜桜木町駅と渋谷駅の間を結んでいましたが、現在ではみなとみらい線の元町中華街から渋谷を経由して、東京メトロ副都心線・東武東上線・西武有楽町線・西武池袋線まで延伸されています。昔は東急の電車だけだったのですが、今では自由が丘駅のホームで様々なデザインの電車が見られます。



自由が丘駅の北西に面し、女神通り・カトレア通り・すずかけ通りに囲まれた面積約5000平方メートルの自由が丘一丁目29番地区には、地上14階・地下3階、高さ約60mの複合施設が新築され、令和五年(2023年)に着工し、令和七年(2025年)に建物が竣工する予定になっています。複合施設は、地下1階から5階に商業施設、6階に業務施設、7階から14階に都市型住宅が整備されます。既に地区内のお店は殆どが仮店舗への移転を完了しています。その中の「MONT−BLANC」は、昭和八年(1933年)創業の自由が丘では老舗の洋菓子店です。店名でもある洋菓子の「モンブラン」は、このお店が日本で初めて作ったといわれています。長い間地元の人達に親しまれてきましたが、再開発により現店舗での営業は令和四年12月31日をもって終了し、令和五年2月10日にカトレア通り沿いに仮店舗をオープンしました。なお、仮店舗の制約から、出来立てを味わえるティールームの営業は行なわず、販売スペースとテラス席で構成されています。リゾート気分で過ごせる緑に囲まれたテラス席はゆったりと寛げて週末になると満席になることもあるとのことです。MONT−BLANCは再開発事業が完了した後、現在地に戻ることになっています。



自由が丘デパートと道路を挟んで、自由が丘のもうひとつの古参商業施設のひかり街とサンリキのビルが続いています。サンリキのフロアには8店ほどがテナントで入っています。その先はひかり街のビルになっています。この建物は自由が丘デパートが開業した翌年の1954年に竣工しました。1階は文具店や宝石・アクセサリー店など昭和の専門店街になっていて、2階・3階には飲食店も入っています。「鈴木鳥獣店」といった今では見かけない古風な店名のお店も健在です。今のところ建て替えの計画はないようですが、将来はどうなるんでしょうね。



自由が丘の亀屋万年堂といえばナボナですね。昔、王貞治さんがテレビのCMで「ナボナはお菓子のホームラン王です」というキャッチコピーで宣伝していました。「ナボナ」は亀屋万年堂の創業者である引地末治氏がヨーロッパに旅行した際、現地の菓子文化に触れ、感銘を受けたことがきっかけで生まれました。元々和菓子職人だった引地末治氏の「和菓子の感性を活かしながら、洋菓子の楽しさにあふれた商品を創りたい」という試みは冒険的とも言えるものでしたが、熱い想いでナボナの商品化に成功しました。ヨーロッパ旅行の際、ナポリをとても気に入った引地末治氏は商品名を「ナポリ」にするつもりでした。しかし、その名前が既に他の菓子メーカーから「ナポリ」の商品名で商標登録されていることが判明し、改名を余儀なくされた結果、「ナヴォーナ(NAVONA:広場)」をモチーフにして、商品名が「ナボナ」になったのです。あのサクッとした軽い食感は忘れられません。私的には「ナボナ」が洋菓子のホームラン王なら、和菓子の竜王名人は博多に本店がある石村萬盛堂の「鶴乃子」だと思っています。ジュワッとした食感のふくよかな生地の中に風味のよい黄味餡が詰まっていて、甘さを抑えたまろやかな味わいは絶品です。



自由通りは緑小通りを越えた先で上り坂になっています。



36.睦坂

睦坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。昭和初期に新しい道ができた時に付近の住民の親睦を願って坂名が付けられました。ちなみに、自由が丘には12の商店会がありますが、睦坂の沿道に位置する「自由が丘一丁目睦会」はその中でも個性的なお店が集まっています。



坂の中ほどに案内柱が立っています

睦坂

この板のある道は、昭和の初めの耕地整理によって新しく造られた道である。当時この付近に住んでいた人々が親睦を願って名付けた。




次の坂は難題です。睦坂上の交差点で右折し、東横線の線路を渡った先の立源寺の北側に坂がある(あった)のですが、坂学会のHPには消滅した坂として詳細は記載はされていません。本来なら消滅した坂は私の坂巡りからは除外するのですが、念のため現地で確認した結果、条件に合いそうな坂を見付けましたので例外的に目黒区の坂に加えておきます。

37.蜀江坂

目黒区のHPには次のように書かれています。

目黒の坂 蜀江坂

蜀江坂は、かつて中根二丁目18番を西(立源寺裏)から東(呑川)に下る農道で、野良仕事の行き来に利用されていましたが、昭和初期に行われた耕地整理により廃道となった坂(写真の点線部分)です。この辺りは、米や麦や竹の子などの野菜づくりを主とする農村でした。しかし、関東大震災後に住居を求める人がたくさん移ってきたことや、更に東横線の開通によって市街地化の波が押し寄せ、これに対処するために耕地整理が行われ、河川や道路や土地の区割りが整備されました。当時蜀江坂を利用していた地元の方は、「私の家の裏に坂がありました。坂を下って行くと、右手は竹やぶで切り立った崖、左手は杉山で道幅は2〜3メートル位でした。坂が急なうえに日陰で赤土でしたから滑りやすく、農作物を運ぶときは天びん棒で担いだものでした。坂下の呑川に架かる土橋を渡ると田畑が続き、橋のたもとには水車小屋もありました。昔の呑川は、現在の位置より西側でしたが、耕地整理で変わったのです」と語っています。坂の名は、「衾村々誌」によると、1365年に世田谷城主の吉良治家が我が子祖朝の若死を悼んで東岡寺(東光寺)を建立したとき、蜀江の錦七条(七条は袈裟の大きさを表す)の袈裟と土地を寄進しました。蜀江坂はこれに因んだ坂名であると記されています。現在、この辺りは、5〜6メートル幅の道路で整然と区割りされた閑静な住宅地となっています。農道であった昔の面影はごく一部に残されているにすぎません。




現地を見た結果、中根二丁目13番17番と18番の間の坂がそれらしく見えます。恐らくは、かって農道だった蜀江坂が耕地整理された結果、場所を変えて新しく生まれ変わったのではないかと推測されます。



蜀江坂(?)の坂下の先に呑川の跡地に造られた呑川緑道が通っています。呑川は、桜新町辺りの品川用水からの漏れ水と、深沢周辺の湧き水の池から流出する水が合流して始まり、世田谷区内を約2km流れた後、目黒区八雲を通り、緑ヶ丘駅の先で九品仏川と合流し、大田区から東京湾に注ぐ全長14.4kmの二級河川です。呑川緑道の中央部は花壇になっていて、今の時期はチューリップなどの春の花々が咲き乱れています。桜の木は満開をやや過ぎて花が散り始めていますが、まだまだ楽しめます。今日は週末の土曜日でお天気も良いこともあり、散策の人も見られます。



蜀江坂(?)のひとつ東寄りに、中根公園の入口付近から坂が上がっています。「根」とは台地の縁部を意味し、「中根」の地名は、江戸時代に目黒六カ村のひとつだった衾村の小字名で、衾村の中央に位置していたことに由来しています。現在は一帯が閑静な住宅地になっていますが、その昔は「岡田の森」と親しまれた緑の多い土地でした。中根公園内にはムクノキやシラカシなどの巨木が茂り、起伏のある斜面には木製アスレチック遊具があって木々の中を走り回る子どもたちに大人気となっています。園内には斜面を利用した長い階段もあります。



38.兵庫坂

兵庫坂(ひょっこざか)は長さが約110mほどの緩やかな坂です。別名を「しょっこ坂・蜀江坂」といいます(坂学会では兵庫坂と蜀江坂を同一の坂としていますが、発音は似ているものの同じ坂かどうかは疑問です)。坂名の由来は、中根公園が旧名主の岡田邸の跡地にあり、岡田邸の坂側に兵器庫があったためと伝えられています。「兵器庫」が「兵庫」に短縮されたとのことですが、武家でない名主が邸内に兵器庫を建てたのでしょうか?



兵庫坂の坂上を左折し、みどり中根通りに入ります。曲がり角の先に坂が下っています。



坂の途中に邸内に巨木が生い茂る民家があります。入口には立派な長屋門が建っています。

長屋門のある風景

昔、このあたりは「岡田の森」と呼ばれ、森のすそを流れる呑川には水車もあったという。岡田家は代々名主をつとめた旧家で、風格のある母屋や長屋門は江戸時代につくられた。




39.寺郷の坂

寺郷の坂は長さが約160mほどの緩やかな坂です。別名を「衾の茶屋坂」といいます。坂名の由来は、かってこの周辺の地名が「寺郷」であったことに因みます。岡田家の長屋門の前の歩道脇に案内柱が立っています。

寺郷の坂

この坂上には立源寺があり、かってこの周辺を「寺郷」といった。また、この道は江戸時代、九品仏へ向かう道で、この辺りに水茶屋があったため「衾の茶屋坂」とも呼ばれていた。




寺郷の坂の坂下には中根小学校があり、その先の呑川緑道を越えたところから坂が上っています。



40.鉄飛坂

鉄飛坂は長さが約140mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、旧地名の「鉄飛」が坂名になったとも、「てつぴ」が 山頂の「てっぺん」を意味していてそれが坂名になったともいわれています。坂上に案内柱が立っています。

鉄飛坂

「てっぴ」とは山頂、てっぺんを意味し、それが坂名になったといわれるが、他にもポルトガル人テッピョウスという人物が住んでいたからや、鉄砲鍛冶がいたからなど諸説がある。




坂上の交差点の角には庚申塔を祀った御堂が建っています。

区指定有形文化財(歴史資料) 鉄飛坂庚申塔群

帝釈堂内にある、次の願文が刻まれた庚申塔3基と題目塔1基を歴史資料の文化財として、指定しています。

【庚申塔】(年代順)
・「奉敬礼帰命帝釈天王」           延宝八年(1680年)
・「奉尊敬帰命帝釈天王」           貞享二年(1685年)
・「南無妙法蓮華経」(下部に帝釈天像を浮彫) 明治十四年(1881年)

【題目塔】
・「南無妙法蓮華経」

江戸時代中期、農村では庚申待が盛んに行なわれました。60日毎にめぐってくる庚申の日に、講の人々が集まって青面金剛、帝釈天、猿田彦などをまつり、飲食を共にしながら夜を明かしました。庚申待を18回終えた後に、供養や記念のために建立されたのが庚申塔です。堂内に残る庚申塔が、日蓮宗の題目または帝釈天を中心とした塔であり、また庚申講が地元の人々により今日でも続けられているところに特色があります。境内にはこの他にも、他所より移設されてきた庚申塔1基と道標兼庚申塔1基があります。




御堂前の境内にも庚申塔が建っています。



鉄飛坂下から寺郷の坂に戻って坂上のひとつ先でみどり中根通りに戻ります。交差点を左折したひとつ先の東西に延びる住宅地の先から坂が下っています。

41.旭坂

旭坂は長さが約110mほどのやや急な坂です。坂名は戦前に付けられました。



旭坂の坂下から緑小通りを東にひとつ路地を進んだ先から坂が上がっています。



42.ちどり坂

ちどり坂は長さが約110mほどのやや急な坂です。昔から「ちどり坂」と呼ばれていたとのことです。



ちどり坂の坂上から東にふたつ路地を進んだ先から坂が下っています。

43.稲荷坂

稲荷坂は長さが約90mほどのやや急な坂です。江戸時代に坂の途中に名主のみに許されていた立派な長屋門を持つ家にお稲荷さんがあったことから、坂名が稲荷坂と呼ばれました。



稲荷坂の坂下から緑が丘交番前の六差路交差点を直進し、呑川緑道で右折します。目黒十一中のグランドの先から坂が上がっています。



44.鶯坂

鶯坂は長さが約100mほどのかなり急な坂です。坂名は、昔この坂の両側に竹や杉が茂り、鶯がよく鳴いたことから付けられました。坂上の手前に「鶯坂」と刻まれた小さな石柱が建っています。



石柱の横には案内柱も立っています。

鶯坂

昔このあたりは切り通しになっていて、両側に竹や杉が茂り、鶯がよく訪れて鳴いていたのでこの坂名になったといわれる。




今日のゴール地点の大岡山駅に着きました。



ということで、目黒区で最後の「中根・平町・緑が丘・大岡山コース」を歩き終えました。目黒区は随分といろんなところを歩いたのですけど、初めて訪れた場所も多かったです。次は大田区の坂を巡りたいと思います。





戻る