大田区(石川町・田園調布コース)
踏破記
目黒区の次はどの区にしようかと考えたのですが、23区で残っている板橋区(67)・世田谷区(66)・大田区(55)・杉並区(49)の中から、今までに歩いた場所に坂の多い大田区を選びました。
大田区の前身は大森区と蒲田区で、大田区の名称は「大」森区と蒲「田」区から1文字ずつ取って命名されました(大森区が由来のために「太田区」の表記は誤りです)。大田区は住宅都市であると同時に、臨海部は京浜工業地帯に含まれる工業都市でもあります。町工場が集積し、日本を代表をする「中小企業の街」となっています。大田区中心部の鎌田は繁華街・歓楽街として知られ、臨海部には東京の表玄関である羽田空港もあります。また、日本屈指の高級住宅街として知られている田園調布が区西部に位置しているなど多様な側面をみせています。東側は東京湾、西側は川崎市中原区・幸区、南側は川崎市川崎区、北側は江東区・品川区・目黒区・世田谷区と境界を接しています。東京湾に面した東部には、羽田空港や工場群が林立する広大な埋立地が広がっています。大田区は東京湾の埋め立てによって区域を拡大してきました。昭和四十二年(1967年)に平和島および昭和島、昭和四十七年(1972年)に大井ふ頭、昭和四十九年(1974年)に京浜島、昭和五十三年(1978年)に城南島と次々に人工島を造成し、更に昭和五十九年(1984年)から始まった羽田空港沖合埋立て工事が平成四年(1992年)に完了したことで世田谷区を抜いて東京23区総面積の9.6%を占める23区で最大の面積をもつ区となりました。ちなみに、埋立地の面積は大田区全体の約3分の1を占めています。地形的には、池上通りより西側は丘陵部となっています。丘陵部には臼田坂・蓬莱坂などの名称を持つ坂が約50あります。標高は東から西に向かって高くなり、最高点は約42.5mです。蛇足ですが、23区で標高が一番高い地点は練馬区関町南四丁目付近らしく、標高は約57mとのことです。但し、諸説あってどこが最高地点なのかネットの情報も様々です。
今回は大田区の坂道を、石川町・田園調布地区、田園調布地区の残りと鵜の木・久が原・池上・中央地区、西馬込・南馬込・山王・仲池上地区、それに東雪谷・上池台・中馬込・南千束・北千束地区の4つの地域に分けて巡ります。先ずは大岡山駅からスタートします。ちなみに、大岡山駅の西半分は目黒区、東半分は大田区に属しています。駅名の「大岡山」は、昔からある地名の「大岡山」に由来しています。明治時代はこの地域が荏原郡碑衾村大字衾字平南大岡山・平北大岡山であったことから「大岡山」と命名されました。元々の「大岡山」の地名の由来については諸説ありますが、大岡山駅周辺の大地主である岡田家が所有していた山から付けられたとする姓氏説、この近辺が昔から狭くて小高い丘や小さな山・谷が多かった事を意味する「大岡」と「山」が合わさって「大岡山」になったとする地理説などがあります。
大岡山駅の北西と南西には、大井町線・目黒線の線路を挟んで東京工業大学の広大な敷地が広がっています。かっては1934年に竣工し、空襲を潜り抜けて残った貴重な昭和初期の建物である大学本館が東工大のシンボルでしたが、現在では大岡山駅に面した正門脇に建つ1987年に開館した東京工業大学博物館・百年記念館の立体形状が組み合わさった建物が新たなシンボルになっています。尚、東京工業大学は東京医科歯科大学と統合して、2024年度中に「東京科学大学(仮称)」となる予定です。
東京工業大学の東側に沿って南下します。歩いても歩いても敷地の壁は続きます。それもその筈で、大岡山キャンパスの敷地面積は24.5ヘクタールと、浜離宮の広さに匹敵しています。ちなみに、大岡山駅と同様に、敷地の北側は目黒区に属しますが、大学本部を含む南側は大田区に属しています。敷地の東南端で右折して石川町文化センター前の小道に沿って進みますと、途中から坂道が下っています。
- 1.神明坂
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神明坂は長さが約140mほどのやや急な坂です。昔坂のそばに石川村の鎮守の神明社(現在の石川神社)があったことから神明坂と呼ばれました。坂上と坂下に案内柱が立っています。坂上の案内柱はかなり古く、木柱には亀裂が走って字も掠れています。
これに対し、坂下の案内柱は真新しくて文字も鮮明です。文面はどちらも同じです。
神明坂
昔、坂のそばに、村の鎮守の神明社があったので、神明坂というようになったと伝えられている。神明社は、現在の石川神社である。
その石川神社は坂の途中の右手の参道を奥に進んだところにあります。石川神社は、正保年間(1644年〜1648年)の石川村の開村以来の村の鎮守であり、古くは石川村のみならず、遠く品川界隅に至るまで崇敬者が多かったと伝えられています。御利益として、「歯痛を患うとき祈りて験を得る」と文政十一年(1828年)の「新編武蔵風土記稿」に記されています。現在でも、除夜祭に配られる御神箸を用いて食すれば忽にして歯痛が治まると云われています。ホントかなぁ。。。
神明坂の坂下を左折した先に、左に大きく彎曲した坂が上がっています。坂の左側には上の台公園があります。
- 2.稲荷坂
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稲荷坂は長さが約60mほどのやや急な坂です。坂名は、坂の南側に稲荷社があったことに由来します。坂下と坂上に案内柱が立っています。どちらも同じ位古いのですが、坂上の案内柱の方が幾分文字が鮮明になっています。
稲荷坂
坂の由来は、坂の南側に稲荷社があったことによる。この坂道は、もとは洗足池の脇から九品仏に通じた、古い道である。
大田区の石川町から、僅か数十メートルの幅しかない目黒区緑が丘を抜けて、世田谷区奥沢で自由通りに出ます。環八通りの田園調布中学校前交差点を横断して田園調布駅に向かいます。田園調布駅は現在は地下にありますが、かっては地上駅で、レトロ調の優雅な駅舎は今でも街のシンボルとして保存されています。都内でも有数の超高級住宅地として知られる田園調布の由来を記した巨大な石碑が駅前広場の一画に置かれています。
田園調布の由来
この広場を中心とする凡そ八十万平方米の地域は、明治文化の先覚者渋沢栄一翁が我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸(ようや)く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅地を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも拘らず、自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共鳴する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り、殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花垣か生け垣の低いものゝ程度とすることなどを厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生れたのであります。大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され、大正十二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ、間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正が行われて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶことゝなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は世田谷区玉川田園調布となりました。こゝに明るく住む方々も、こゝを来しく訪れる方々も、渋沢翁の理想が永くこゝに栄えてゆくように、この田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
歴史と文化の散歩道の案内碑も建っています。
田園調布
この町は大正年間に経済界の長老渋沢栄一翁らが、閑静で住むに便利な「田園都市」をと計画して作られた町です。駅西口から伸びる三本の放射状の銀杏並木を、四つの同心円で区切った街区に、緑の多い瀟洒な家並みが連らなっています。こうしたすばらしい景観は「町中が一つの公園のように」と理想の町づくりに励んできた住民の英知と努力の賜物です。秩序ある美しい町並みは今もなお維持されており「都市景観百選」の一つに選ばれています。町の名は田園都市の「田園」と日村名「調布」からとられたもので、当時の町並みは駅を中心に、現在の三丁目全域と一丁目〜五丁目の一部でした。
Denenchofu
Denencbofu is famous as the high class residential area, represented in Japan. The area was developed under "The Garden City (ie. Denen) Plan". Since the area was a part of “Chofu", it was later named Denenchofu.
田園調布駅の西口から伸びる三本の放射状の銀杏並木の真ん中の道を進み、田園調布三丁目交差点を渡ってなおも進んだ先の田園調布五丁目5番地と6番地の間から長い坂が下っています。坂上付近は谷底を見下ろすような急な傾斜になっています。
坂下は緩やかな傾斜になっていて、丸子川に架かる庵谷(いおりや)橋まで続いています。
丸子川は江戸時代初期に開墾された六郷用水の中流部分が整備され、名称を変えて残っている川です。六郷用水は、事業を担当した奉行の名から「次大夫堀」とも呼ばれていました。昭和二十六年(1951年)に始まった水路の改修により、六郷用水は廃止されて幾つかの区間に分けて埋め立てや排水路としての整備が行われることとなりました。仙川に架かる水神橋付近から多摩川との合流地点までの区間が「丸子川」と呼ばれています。
- 3.急坂
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急坂は長さが約350mほどの急な坂です。別名を「五丁目の急坂」といいます。この道路は大正末期に行われた耕地整理により誕生しましたが、急な大きい坂道という形状から自然発生的に「急坂」という坂名で呼ばれるようになったのは戦後のことです。坂上付近と坂の中ほどに案内柱が立っています。
急坂
急な大きい坂であるため、急坂と呼ばれる。「五丁目の急坂」ともいわれて親しまれ、この付近の目標にもなっている。
長坂の坂下手前から八幡神社と照善寺の裏を通る小道を進みますと、左手に緩く上がる坂が始まっています。途中で左右に曲がりながら住宅地の中を上がっていきます。
坂上の手前から急激に傾斜がキツくなっています。
- 4.馬坂
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馬坂は長さが約220mほどの坂で、坂下は緩く、坂上になると急な上り坂になっています。昔は馬で引く荷車で台地へ上れる唯一の坂道であったために馬坂と呼ばれました。坂上付近に案内柱が立っています。
馬坂
この坂道は、大正の頃まで、馬がひく荷車で台地へ上る唯一の坂道であるため、馬道と呼ばれた。昔は荷車が通るだけの狭い道幅であったが、耕地整理により道幅も現在に近いものになったといわれる。また、寺坂と呼ばれたこともあった。
多摩川台公園を貫通する道路を通って東横線のガードを抜けます。
東横線のガードを抜けた先から田園調布せせらぎ公園の北側に沿って、途中で向きを変えながら坂が上がっています。
- 5.どりこの坂
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どりこの坂は長さが約130mほどの緩やかな坂で、途中で”く”の字に曲がりながら上がっています。昭和の初めに滋養強壮を謳った清涼飲料水の“どりこの”という飲料の開発者(高橋孝太郎氏)の家が坂の近くにあったことでこの坂名が付きました。ちなみに、「どりこの」とはヘンな名前ですが、これは合成語で、開発のヒントになったドイツ人の生理学者のアーノルド・ドーリックの「DURI」、橋孝太郎のイニシャル「KO」、一番弟子の助手の中村松雄のイニシャル「N」、さらに3人の助手に共通するイニシャル「O」をつなげたものだそうです。暗号みたいな商品名ですね。坂下と坂上に案内柱が立っています。坂下の案内柱は新しくて綺麗ですが、坂上の案内柱はかなり年季が入っています。
どりこの坂
昭和の初めごろ、坂付近に、「どりこの」という名の清涼飲料を開発した医学博士が屋敷をかまえていたので、誰いうとなく「どりこの坂」と呼ぶようになったといわれている。それまでは、池山の坂といっていたという。
多摩川園は、大正十四年(1925年)12月23日に「温泉遊園地多摩川園」としてオープンしました。園内には、飛行塔・お化け屋敷・メリーゴーランドなどの遊戯施設があり、菊人形展などのイベントも開催されて多くの客で賑わいました。しかし、入場者数の減少や周辺道路の渋滞に対する苦情もあって、昭和五十四年(1979年)6月3日に閉園しました。ちなみに、現在の多摩川駅の駅名は平成十二年(2000年)までは「多摩川園駅」でした。その後、紆余曲折の末に跡地の2/3を大田区が取得し、平成十六年(2004年)8月に公園として一部が開放されました。平成十八年(2006年)7月には一般公募により公園名称を「田園調布せせらぎ公園」とすることに決定し、本格的に開放されました。
どりこの坂の坂上の先にある東門から公園に入ります。公園の東側は高台になっていて、そこから急峻な崖が下っています。多目的広場の隅にあるトイレの脇からジグザグに曲がりながら階段(一部は坂道)が下っています。
- 6.滝坂
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滝坂は長さが約90mほどの急な階段で、途中で坂道になっているところがあります。
坂名の由来は不明ですが、坂の途中に滝があり、崖下の池に水が流れ込んでいますので、それに因んでいるのかもしれません。
板塀に「ヘビに注意!」と書かれたプレートが貼られていますので、「蛇坂」という坂名でもいいかも。
滝坂の坂上の南側に急な階段が下っています。
階段の途中に踊り場があり、そこから更に階段が下っています。
- 7.大山坂
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大山坂は長さが約65mほどの急な階段で、途中の踊り場に坂名の由来を記した案内板が立っています。案内板に添えられた当時の写真を見ますと、滑り台には防護壁がなく、下には水が流れているように見えます。腕白坊主でも滑るのに躊躇しますよね。
大山坂
田園調布せせらぎ公園は大正から昭和まで「多摩川園」と呼よばれる子どもたちに大人気の遊園地でした。大山坂は「大山すべり」という地形を活かした長いすべり台でとてもスリリングなアトラクションでした。現在は約50メートルの階段になっています。
田園調布せせらぎ公園には3つの坂(階段)があります。三番目の階段は真新しくて手摺りも付いています。階段の途中で向きを変えながら上がっています。
- 8.いろは坂
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いろは坂は長さが約80mほどの急な階段です。10年ほど前の写真を見ますと、階段はジグザグに曲がって、雑草の生い茂った崖に石ころを並べたような状態でした。実は、「いろは坂」は自然の雰囲気を残すために、敢えて階段に土が出ているところも残し、落ち葉もほとんど清掃していなかったそうです。最近全面的に改修されたのでしょうけど、どちらが良かったのかは議論のあるところです。子供が通るところですので、安全性は確保しないといけませんけど。
今日のゴール地点の多摩川駅に着きました。
ということで、大田区で最初の「石川町・田園調布コース」を歩き終えました。訪れた坂の数は少なかったですけど、田園調布には急坂が多くてなかなかに手強かったです。高級住宅地のイメージがありますが、坂と共存するには体力が必要ですね。次は、大田区の南西側の坂を巡りたいと思います。
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