大田区(田園調布・鵜の木・久が原・池上・中央コース)


踏破記


今日は、昨日の石川町・田園調布地区の坂に引き続き、田園調布地区の残りと鵜の木・久が原・池上・中央地区の坂を巡ります。昨日のゴール地点である多摩川駅からスタートします。



多摩川駅から東急多摩川線の線路沿いに南に進みますと、踏切から西に向かって田園調布富士見会館まで坂が上っています。



9.富士見坂

富士見坂は長さが約220mほどのやや急な坂です。大正末期頃から行われた耕地整理によって出来た坂道で、坂から富士山がよく見えたので「富士見坂」と呼ばれるようになりました。坂沿いの斜面にある樹林の緑が美しく映えますが、現在は樹木に隠されて富士山を見ることはできなくなっています。坂下と坂上に案内柱が立っています。

富士見坂

この坂道は、大正末期ごろから行われた耕地整理によって出来た道である。ここからは、富士山がよく見えるので、富士見坂と呼ぶようになったといわれている。




富士見坂の坂上から住宅地を抜けて中原街道を横断します。東急多摩川線の沼部駅から北東に約600mほど坂が上っていて、坂の中程のさくら坂交差点からさくら坂上交差点までは切通しになっています。



10.桜坂

桜坂は長さが約180mほどの緩やかな坂です。坂の両側には石垣が積まれ、その上には桜の木が植えられて春には桜のトンネルが出現します。この道筋は旧中原街道に当り、江戸時代には坂下から多摩川に下りると「丸子の渡し」がありました。坂は「沼部の大坂」と呼ばれたほど勾配がきつく、荷車などの通行には難所になっていました。桜坂が現在のような切通しの緩やかな坂となったは大正十二年(1923年)の改修工事が行なわれた結果です。その後、昭和五年(1930年)に切通しの両側に桜が植えられて「桜坂」と命名されました。桜坂は無名の坂でしたが、デビュー前に近所に住んでいた福山雅治さんが2000年にこの坂をモチーフにした「桜坂」という曲を歌ったことで一躍有名になりました。そのためか、花見客のマナーが悪く、落書きやいたずらが多いということでも有名です。さくら坂交差点の脇に、坂名を刻んだ石柱が建っています。



坂下と坂上には案内柱も立っています。

桜坂

この坂道は、旧中原街道の切通しで、昔は沼部大坂といい、勾配のきつい坂で、荷車の通行などは大変であったという。今ではゆるい傾斜道となっているが、坂の西側に旧中原街道のおもかげを残している。坂名は両側に植えられた桜に因む。




桜坂のシンボルは「桜橋」でしょう。坂の中央の切通しに架かる小さな歩道橋ですが、真っ赤に塗られた欄干は満開の桜と相まって印象的な景観を醸し出しています。



歩道橋の上からの眺めも素晴らしいです。



坂の途中には旧中原街道の案内板も立っています。

大田区文化財 旧中原街道

中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以前に存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された道である。江戸初期には、参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。また平塚からは東海道よりも短距離であったため、急ぎの旅人たちに近道として好まれたという。中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけとなった。かつて桜坂付近は「沼部大坂」と呼ばれる難所であり、現在の側道がその傾斜の名残である。




桜坂を下って行きますと、旧六郷用水の跡に造られ、「手づくり郷土賞」にも選ばれている遊歩道に出ます。休息所を兼ねた小広場に六郷用水の案内板が立っています。

六郷用水物語

六郷用水とは、六郷領(現在の大田区の平地地域)の潅漑を目的として、江戸時代初期に幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水路です。徳川家康の新田開発政策の一環として行われた六郷用水の工事は、慶長二年(1597年)の測量に始まり、慶長十四年(1609年)に主要水路が完成、小堀と呼ばれる各村への分水路工事も含めると終了までに14年という長い年月を費やした大工事でした。

多摩郡和泉村(現在の狛江市和泉)で多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領を経て、六郷領へと入り、矢口村の南北引き分けで北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに二分されました。その全長は約30km、潅漑面積は1、500haに及んだといわれています。この結果、六郷領と世田谷領の一部を合わせた約50ヶ村の村々が恩恵を受けることになり、以後300年余り、大田区の農民の生活になくてはならない用水路として利用されてきたのです。




遊歩道には所々に休息所が設けられていて、絶好の散策路となっています。今は花々が一斉に咲き始めています。



桜坂通りを50mほど上がった田園調布本町郵便局の直ぐ先で右折しますと、東海道新幹線の高架下まで坂が上がっています。



11.おいと坂

おいと坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。別名を「雄井戸坂」といいます。かって坂下に「雄井戸(おいと)」と呼ばれた井戸があり、旧中原街道を隔てて西側にあった「雌井戸(めいと)」と呼ばれた井戸と共に人々に親しまれていました。坂名はこの「雄井戸」に由来するといわれています。今は住宅街の中の目立たない真っ直ぐな坂道になっていますが、耕地整理前までは竹やぶの中の急な曲った坂道であったと伝えられています。坂下と坂上に案内柱が立っています。

おいと坂

「大森区史」は「下沼部にある。伝えるところによれば、北条時頼行脚して中原に来た。病を得て難治であった。井戸水があって使用したところ程なく全治した。その井戸は沼部に一つ中原に一つあった。後、中原の井戸を沼部に移し雌井、雄井と称した。おいと坂は即ち雄井戸坂のことであろう」と記している。




遊歩道の奥に嶺西向庚申を祀った小さな御堂が建っています。嶺村(現在の西嶺町)では昭和中期になってもまだ盛んに庚申講が行われていました。昔は年6回、60日毎にやってくる庚申の日に行っていましたが、昭和になってからは春秋の年2回になったそうです。嶺村の庚申講は輪番制で、米2合と菜代の金を集め、庚申の晩に持ち回りで決められている家に村人が集まって庚申様の掛け軸を掛けてお祈りをしていました。集まるのは暗くなってからで、お風呂を浴びて身を清め、掛け軸の庚申様を拝んだのちに食卓を囲みました。世間話に花を咲かせて夜まで村の交流を行うのが江戸後期から昭和までのしきたりでした。江戸時代は三尸の話を本当に信じていたようで、朝まで飲み騒ぎをしていましたが、時代と共に午後10時位までと短くなっていきました。嶺村では不幸があった家とお産があった家はその回の庚申は欠席することになっていました。堂宇に祀られているのは駒型の庚申塔で、青面金剛像・邪鬼・三猿の図柄となっています。三猿の並びが偏っているのが特徴的です。この庚申塔の造立年は不詳ですが、宝永・正徳・享保年間あたり(1700年〜1720年)に制作されたものと思われます。

庚申塔の由来

庚申信仰は江戸時代に民間信仰として栄え、庚申供養塔はその象徴として村の厄災を防ぐため、建てられたという。当地(旧嶺村の高砂)の住民は講をつくり、この庚申塔を建立した。庚申の日に宿(当番)の家に集って談笑し、地域の人々のくらしの無事を祈る風習庚申待は、現在も続いている。 という




鵜の木駅の北方に鵜の木松山公園があります。公園の中の東斜面下には、七世紀後半から八世紀前半にかけて造られた横穴墓が保存されています。



横穴墓の入口脇には、実際に使われていた切石が展示されています。

鵜の木一丁目横穴墓群について

多摩川流域の横穴墓は、古墳時代(六世紀末)から奈良時代(八世紀前半)にかけて、台地斜面に横穴を掘って造られた地域の有力者のお墓です。大田区周辺の台地斜面では、鵜の木台地をはじめとして、いままでにおよそ260基の横穴墓が発見されています。鵜の木一丁目横穴墓群は、「区立鵜の木松山公園」の東斜面標高約12mの地点に、七世紀後半から八世紀前半にかけて構築されました。昭和六十一年(1986年)の公園造成の際に2基が、平成十七年〜十九年(2005年〜2007年)の公園整備で4号〜7号墓が発掘調査されています。なかでも6号墓は、大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門構造をもつ貴重な横穴墓であることから、発掘当時の姿で保存しています。

6号横穴墓について

6号墓は、墓道と羨門および墓室からなり、全長11.3mと長大です。墓道は切り通し状で、被葬者を墓室へ運び、墓前祭を行う場所で5.9mあります。泥岩製切石の羨門は、高さ1m、幅0.7mあり、3段積の切石で閉じられていました。墓室は徳利を半分に割った形で、全長5.4mです。被葬者は墓室奥に、礫敷きの棺台に3体埋葬されていました。3体は、20歳前後2体と30歳以上1体です。うち1体は、20歳前後の女性と判明しています。3体の被葬者が追葬されていることから、6号墓は有力者の家族墓と考えられます。6号墓は、その形態と付近の横穴墓の年代から、奈良時代前後(いまから1300年前頃)に造られたと考えられます。

横の3段積切石は、羨門を閉じた切石です。




鵜の木松山公園の東南方向から坂が上がって来て公園にぶつかっています。



右側から上ってきた坂は直角に向きを変えて公園沿いに上がっています。



鵜の木駅方向から上がってきてこの坂に合流する坂がありますが、こちらは名もなき坂です。



12.河原坂

河原坂は長さが約75mほどの緩やかな坂です。東急多摩川線の西側から多摩川にかけての鵜の木二丁目・三丁目付近は、昔多摩川の河川敷であったことから「河原」という地名で呼ばれていました。坂名の由来は、この河原に出る坂道であったことに因んでいます。現在は切通しになっていて緩やかになっていますが、昔は道幅も狭く急な坂道で、河原の畑と往来する荷車などは大変難儀をしたといわれています。鵜の木松山公園に向かう坂下付近と公園沿いに上がった坂上付近に案内柱が立っています。

河原坂

現在の、鵜の木二・三丁目付近は、昔、多摩川の河川敷であったので、河原の地名がある。坂名の由来は、河原に出る坂道であることによる。今は「切通」になって、ゆるやかであるが、以前は道幅も狭く急な坂で、河原の畑を往来する荷車などは、難儀をしたという。




河原坂の坂下を南に進みますと、三差路で左手に曲がった先からくねくねと坂があがっています。

13.富士見坂

富士見坂は長さが約65mほどのやや急な坂です。大田区には田園調布にも富士見坂がありますが、この坂は鵜の木の富士見坂です。「鵜の木」という地名の由来は、かつて此の地にあった鵜の森神社に由来するといわれています。「 鵜の森」は鵜が集まるような森という意味で、それが転じて鵜ノ木という地名になりました。かっては坂から富士山が眺められ、地元で呼ばれていた坂名が定着したと思われます。しかし坂の周辺でマンション建設が進み、1990年頃から富士山は見えなくなったそうです。更に、武蔵小杉に高層ビル(マンション)がタケノコのように建つようになってから、この辺り一帯から富士山はビルに遮られて見れなくなりました。



富士見坂の坂上の先に増明院があります。増明院の山号である青林山という名の通り、緑いっぱいのお寺です。春には美しい桜が境内を埋め尽くすように咲き、多くの人が訪れます。寺伝では、寛永二年(1625年)に長誉阿闍梨が高野山より下向し、青山因幡守の信頼を得て開創したといわれています。山門は、備前池田家の表門であったと伝えられる武家屋敷門が使用されています。



増明院の先で環八通りに出ます。藤森稲荷前交差点で左折しますと、小高い丘の上に藤森稲荷神社が鎮座しています。詳しい創建年代や由緒は不明ですが、江戸時代後期にはこの地にあったと思われます。神社の横に坂が上がっています。



14.ぬめり坂

ぬめり坂は長さが約140mほどの”く”の字に曲がる緩やかな坂です。この道は旧鎌倉街道の下ノ道(しもつみち)に当たり、多摩川の平間の渡し(現在のガス橋付近)に繋がっていたといわれています。昔は多摩川は東急多摩川線のあたりを流れていたらしく、この辺りは低湿地で大雨が降ればすぐに坂がぬめったことから、ぬめり坂という坂名になったと思われます。村人が難儀をしたからといって、なにも自ら望んで生き埋めにならなくても。。。

ぬめり坂

「大森区史」は、「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪邸に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生埋となった。以来その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁栄したという」と記している。




次の坂は東急池上線を越えたかなり遠くにあります。久が原の住宅地を抜け、久原小学校近くの久が原図書館の先で左折しますと、東部八幡神社に向かって細い坂が上がっています。



坂上にある八幡神社は、奈良時代の天平神護元年(765年)9月に豊前国宇佐神宮より分霊を勧請し、久が原台地で一番高いところに奉斎し創建されました。徳川家康が江戸入府した天正十八年(1590年)に旧久ヶ原村が東の馬込領と西の六郷領に分村されることになり、村民は両村を向と原に呼び分けました。東部八幡神社は馬込領久ヶ原村(向)の鎮守とされ、六郷領の鎮守は現在の久が原西部八幡神社となりました。現在の本殿は弘化元年(1845年)、拝殿は文久二年(1862年)の造営とされています。

大田区文化財 社殿

本殿は、切妻造、千木・堅魚木付き。幣殿は、両下造。拝殿は入母屋造、向唐破風向拝付き。いずれも屋根は銅板葺である。社殿は、北東を正面とし、本殿・幣殿・拝殿が連結して一棟を構成している。本殿は弘化元年(1844年)の再建、拝殿は文久二年(1862年)に建てられたと伝えられる。指定当時は、厚い茅葺の入母屋造の屋根であったが、昭和五十二年(1977年)、火災予防のため、銅板に葺き替えられた。蓑甲の破風口の曲縁が深いこと、籠彫の持ち送りを多用して装飾過多であること等、江戸末期の神社建築の特色を伝えている。




15.宮坂

宮坂は長さが約75mほどの緩やかな坂です。久が原東部八幡神社の前を通る坂であることから、宮坂という坂名で呼ばれています。

宮坂

久が原東部八幡神社の前の坂道で宮坂と呼ぶようになったといわれている。




呑川を渡り、第二京浜を横断して池上本門寺の北端にある池上梅林にやってきました。一月に来たときは梅の花が咲き始めていて早春の香りが漂っていましたが、今や梅林はすっかり緑に覆われています。



池上本門寺は日蓮宗の大本山で、山号を長栄山といいます。弘安五年(1282年)9月8日、病身の日蓮聖人は身延山を出て湯治のために常陸(茨城県)へ向かいます。9月18日に武蔵国池上郷(大田区池上)の池上宗仲の館に到着し、生涯最後の20数日間を過ごすこととなりました。同月に池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源になっています。翌10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69、384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し、寺院の基礎が築かれました。以来「池上本門寺」と呼びならわされています。池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられていて、現在は建治二年(1276年)に建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院大坊本行寺の境内となっています。本門寺は鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えました。大坊本行寺の入口付近から山上の境内に階段が上っています。



16.大坊坂

大坊坂は長さが約65mほどの六層になった急な石段です。坂名は、大坊本行寺に因んでいます。大坊とは、この地の領主だった池上宗仲の屋敷のことです。宗仲は日蓮を崇信し、日蓮の死後に屋敷の一部を寄進し、日澄を開山僧として大坊を起こしました。階段下と階段上に案内柱が立っています。

大坊坂

「新編武蔵風土記稿」に、「大坊坂,方丈の右の坂なり、大坊へ行く道なればこの名あり」と記されている。本門寺山内西隅の石段坂で坂下に大坊と呼ばれる本行寺がある。




大坊坂を上がる第三の踊り場から左に下る石段の先に朱塗りの宝塔があります。日蓮を荼毘に付した場所で、都の指定文化財になっています。

重要文化財 池上本門寺多宝塔

宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔。建立は宗祖五百五十遠忌を期して行われ、江戸芝口講中の本願により、文政十一年(1828年)に上棟、同十三年(天保元年)に開堂供養を修している。石造の方形基壇に築いた円形蓮華座の上に建つ木造宝塔形式の建物で、内外ともに漆や彩色によって華やかな装飾が施されている。塔内中央には金箔や彩色で装飾された華麗な木造宝塔を安置し、日蓮大聖人御所持の水晶念珠を奉安している。宝塔形式の木造塔婆は極めて現存例が少なく、当山多宝塔はその中でも最大規模を誇る本格的な宝塔として、極めて貴重な建物である。なお、「多宝塔」の名称は建立当初から呼称されているのものであり、文化財としての名称は「池上本門寺宝塔」である。




大坊坂の坂上から真っ直ぐに境内を横切ると、本門寺大堂と客殿を結ぶ渡り廊下の下を通って坂が下っています。



17.紅葉坂

紅葉坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。かって、坂の付近には紅葉の木が多かったようで、それが坂名になったといわれています。坂下で交差する道を北へ下ると、西側に松濤園という江戸初期に造られた庭園があります。慶応四年(1868年)に西郷隆盛と勝海舟がこの東屋で江戸城明け渡しの会見をしたとされ、園内にその記念碑があります。ちなみに、「東屋」とは、「屋根を葺いただけの壁のない簡素な造りの小屋」のことです。東屋の「東」とは、「東の国」、即ち京の都から離れた東の国を意味し、江戸のことを指しています。「東屋」は、「京の都から見たら東国は田舎」という意味が込められているのです。階段下と階段上に案内柱が立っています。

紅葉坂

「新編武蔵風土記稿」には「紅葉坂、方丈の左の坂なり、裏門へ通う坂なり」と記されている。坂付近には紅葉の樹が多いことから、この名がついたのであろう。坂下で交差する道を北に行くと、西側に松濤園という庭園があり、都の旧跡に指定されている「西郷、勝両雄会見の処」という記念碑がある。




大坊坂の坂上の右手から池上本門寺の境内の西側沿いに、”S”字状に曲がりながら池上稲荷橋付近まで車道が下っています。



18.車坂

車坂は長さが約240mほどのやや急な坂です。江戸時代にはすでに荷車が使用されるようになっていたことから、「荷車を通す坂」が「車坂」という坂名になったと思われます。坂下に案内柱が立っています。

車坂

「新編武蔵風土記稿」に「車坂、経蔵の背後の坂なり」とあり、また、「池上長泉山本門寺記」天明元年(1781年)には、車坂が描かれている。昔からある古い坂道である。




総門から境内に入ります。扁額の字体が特徴的ですね。

大田区文化財 総門と扁額

総門は、主柱間5.3メートル、高さ6.4メートル。総欅素木造。一間一戸の高麗門である。江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」によれば元禄年間(1688年〜1704年)に建造された。池上本門寺山内に現存する古い建造物の一つで、歌川広重の「江戸百景」などにも描かれ、著名である。扁額に浮彫りされた「本門寺」の文字は、熱心な法華経信奉者で、また名筆家として知られた本阿弥光悦(1558年〜1637年)の書を彫刻したものである。背面銘文から、寛永四年(1627年)、本阿弥一族が父母の供養のため三堂(総門・楼門・祖師堂)に掲げた額の一つであることがわかる。本阿弥一族の日蓮宗とのかかわりを伝える貴重な遺品である。




池上本門寺の総門を入った奥に、本門寺の正面参道である石段が上がっています。



19.此経難持坂

此経難持坂(しきょうなんじざか)は長さが約60mほどの96段の急な石段です。一般には「男坂」と呼ばれる池上本門寺の主参道の入口となる石段で、「法華経」の詩句に因んで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名としました。末法の世に法華経を守ることの困難さを石段を上ることの苦しさと対比させ、経文を称えながら上れば自然に上れると言い伝えられています。石段を15段ほど上がった手摺りの外と石段上に案内柱が立っています。

此経難持坂

この石段坂は、慶長年間(1596年〜1615年)加藤清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」宝塔品の詩句九十六文字にちなんで石段を九十六段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名とした。なお、石段は元禄年間(1688年〜1704年)に改修されたといわれる。




同じような文面ですが、石段下には案内板も立っています。

大田区文化財 池上本門寺の石段

この石段は、加藤清正(1562年〜1611年)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品の偈文(げぶん)九六文字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此経難持坂」という。なお、元禄(1688年〜1704年)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。清正は慶長十一年(1606年)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もその頃の所産と思われる。




此経難持坂の石段上の正面には仁王門が建っています。元々はこの場所に旧国宝の山門が建っていましたが、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失し、その後、昭和五十二年(1977年)になって仁王門として再建されました。門内には彫刻家圓鍔勝三がアントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されていましたが、近年修理を機に本殿内に移設され、新たに仏師原田佳美作の仁王像が平成十三年(2001年)10月に開眼供養が行われ奉られています。



「此経難持坂」の坂上の直ぐ先に、ジグザグに下る階段があります。



20.おんな坂

おんな坂は長さが約140mほどの緩やかな階段です。直線で急な此経難持坂を「男坂」に見立て、それよりも傾斜が緩い坂ということで「おんな坂」と呼んだのでしょう。元々は「此経難持坂」の石坂の途中から分かれて上がる階段でしたが、2002年に「おんな坂」が整備され、「此経難持坂」と独立して境内に上れるようになりました。その時に、次のような案内板が掲示されたとのことです。

おんな坂 (今年4月1日開通)

この坂を上ると本門寺の境内に着きます。正面の石段(此経難持坂)よりもずっと楽に歩けますのでどうぞ歩いてみて下さい(但し宗務院の建物には入れませんので念の為)




朗子会館と池上会館の間に、池上本門寺の墓地に向かって上がる狭く急な石段があります。



石段の途中で直角に向きを変え、石段上で踊り場のようになった後で再び向きを変えて石段が続いています。



21.朗師坂

朗師坂は長さが約70mほどの小さく左右に曲がりながら上がるやや急な階段です。坂名の「朗師」とは、日蓮門下六老僧の一人の日朗のことです。日朗は日蓮の入滅後、寺窪(現在の照栄院付近)に草庵を建て、以後三十有余年の間毎日この坂を上って山上の日蓮御廟所へ参拝したといわれています。幼少の頃より日蓮の門下僧となり、師孝に厚く奉仕した日朗の美談は「日蓮聖人伝」に数多く描かれています。石段の入口に「史跡 朗師坂」と書かれた石碑が建っています。

史蹟 朗師坂

日朗聖人ガ三十九年ノ間日蓮大聖人ノ御墓所ヘ日日往復ナサレ給ヒシ坂ナリ




坂上手前の踊り場脇に案内柱も立っています。

朗師坂

日蓮聖人の愛弟子日朗聖人は、祖師入滅後ささやかな草庵をつくり、山上の日連聖人御廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれる。




池上小学校の東側にある照栄院の脇から山上に急な石段が上がっています。



22.妙見坂

妙見坂は長さが約40mほどの急な石段です。坂名は、石段上にある妙見堂に因んでいます。妙見堂には、加藤清正(1562年〜1611年)の娘の瑤林院(紀井大納言頼宣の夫人)が手刻して最初に本門寺に納め、その後に昭栄院に移されたという妙見菩薩立像が祀られています。

大田区文化財 妙見菩薩立像(非公開)

木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高43センチ。この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛文四年(1664年)に、徳川家康の子で紀伊徳川藩の祖である頼宣の「現世安穏後世善処」を祈念して造像されたことがわかる。像背に、当時の本門寺貫主、日豊(1600年〜1669年)の開眼墨書銘がある。製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重である。頼宣の妻、瑤林院(加藤清正の娘)が、本門寺に寄進したもので、元禄期(1688年〜1704年)に、南谷檀林(僧侶の学校)が開設された際に、その守護の尊像として当院に移管されたものである。




石段下と石段上に案内柱が立っています。

妙見坂

「大日本名所図会」には「妙見堂、妙見坂の上にあり、妙見大菩薩を安置す。寛文四年甲辰七月紀伊頼宣卿の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす」とあり、坂名はこれに因む。また、照栄院には元禄期に南谷壇林が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は、のちに檀林の守護鎮守として、坂上のお堂に移されたと伝えられる。




妙見堂の裏手をぐるっと回り込みますと、坂が下っています。



23.めぐみ坂

めぐみ坂は長さが約230mほどの左右に複雑に曲がった急な坂です。坂上にめぐみ教会があることで「めぐみ坂」の坂名で呼ばれています。昭和五年発行の「大東京川崎横浜復興大地図」では、この坂は「あけぼの坂」となっていますが、明治時代中期に発表された徳富蘆花の小説「富士」に出てくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会の敷地に開業し、それに因んだ坂名と思われます。明治時代にはこの付近で温泉が出たため、「曙楼」という料亭や「池上温泉場」が設けられ、景勝地だったこともあって多くの政治家や文人らが訪れ賑わったといいます。日露戦争の戦勝祝賀会も催されたと伝えられていますが、昭和四年に廃業しました。坂上と坂下に案内柱が立っています。

めぐみ坂

現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和四年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。




めぐみ坂から閑静な住宅地を抜けて東に向かい、太田神社を越えた先に坂が上がっています。



24.蓬莱坂

蓬莱坂は長さが約250mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂近くにある稲荷社に因んでいるといわれています。江戸時代の三代将軍家光の頃、稲荷社の境内で珍しい黒い鶴が捕らえられました。この鶴を将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたと伝えられています。蓬莱とはその吉兆を象徴した名で、そこから現在の坂名がつけられられたとのことです。坂上と坂下に案内柱が立っています。

蓬莱坂

坂上の東北(中央五丁目4−2)に通称「黒鶴稲荷」という稲荷社がある。伝説によるとその境内で捕獲された黒い鶴を、将軍家に献上したところ、吉兆であると喜ばれたという。「蓬莱」とは、縁起のよいことに使われる意味もあり、坂名はその黒鶴伝説に因みつけられたのであろう。




蓬莱坂の坂上から1ブロック北に進んだところから中央五丁目公園の前まで坂が下っています。



25.汐見坂

汐見坂は長さが約190mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、かつてこの坂から大森の海や舟の白帆、それに海苔ひび(海苔を付着させて養殖するために浅い海中に立てる竹や木の枝のこと)などがよく見えたことに因んで「汐見坂」の名前で呼ばれるようになりました。昭和の初めに耕地整理が行われるまで、この坂は赤土で今より道幅も狭く、坂の周囲には畑が広がっていました。今日では大森方面にビル群が建て込み、海などは見られなくなっています。坂上と坂下に案内柱が立っています。

汐見坂

かつて、この坂から大森の海や白帆・海苔ひびなどがよく見えたため、汐見坂と呼ばれた。また、この坂道は池上本門寺への旧池上道の近道でもあった。




汐見坂の坂上から本門寺公園に向かって南西に進んだ先から坂が上がっています。



坂上は十字路になっていて、その先は梅田小学校の正門まで下り坂になっています。マンション名に「貴船坂」と表示されていますが、こちらは無名の坂です。



26.貴船坂

貴船坂(きぶねざか)は長さが約200mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、本門寺公園の中にある東之院の貴船(きぶね)明神に因んでいるといわれています。東之院は本門寺の子院のひとつで、貴船明神はその鬼門除けとして置かれていましたが、明治初年の神仏分離令により東之院と分離され、明治四十五年に近くの太田神社に合祀されました。因みに、「太田神社」は「大田神社」とは書きません。太田神社は那須与一縁の神社として知られています。寿永四年(1185年)二月、屋島の戦いにて那須与一が「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ」と祈念して放った矢は見事扇を射抜きました。「平家物語」にも描かれたこの逸話は広く知られていますが、太田神社はその那須与一が守本尊とした神像を御神体として安置しています。古来よりその故事に因んで「願えば叶わぬこと無し」と厚く信仰され、那須与一が一本の矢一発で見事扇を射抜いたことから、一度の挑戦をものにしなければならない入学祈願・学業成就祈願・スポーツ競技の勝利祈願などにご利益があるとされ、古くから多くの参拝者が訪れています。坂上に案内柱が立っています。

貴船坂

坂名の由来となった貴船明神(神狐の石像)は、東之院(池上一丁目7番)に昔、本門寺の鬼門除けとしておかれていたが、神仏分離令で同寺院と分離され、近くの太田神社(中央六丁目3番)に合祀されたと伝えられる。




今日のゴール地点の西馬込駅に着きました。



ということで、大田区で二番目の「田園調布・鵜の木・久が原・池上・中央コース」を歩き終えました。次は西馬込・南馬込・山王・仲池上の坂を巡りたいと思います。





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