大田区(西馬込・南馬込・山王・仲池上コース)


踏破記


今日は、昨日の田園調布・鵜の木・久が原・池上・中央地区の坂に引き続き、西馬込・南馬込・山王・仲池上地区の坂を巡ります。昨日のゴール地点である西馬込駅からスタートします。



西馬込駅からほど近い善照寺を目指します。善照寺は昭和二十一年に創建された比較的歴史の新しいお寺です。その善照寺の前の道路には「桜並木通り」という愛称が付けられています。道路は車道部分と歩道部分に分かれていて、歩道部分はかってここを流れていた内川を暗渠にして、その上部を緑道にしたものです。馬込の桜並木は、昭和二十八年(1953年)に町の有志が寄付金を集めて1メートル50センチほどの4年苗木を植えたのが始まりです。最初の桜並木は60メートルほどしかありませんでしたが、その後も植樹を続けて現在の桜並木へと育っていきました。その当時の内川はドブ川でしたが、昭和四十六年(1971年)から昭和五十一年(1976年)にかけて殆どが埋め立てられ、現在のような姿になりました。今は桜が満開で、文字通り桜並木になっています。



大田区では、洗足流れや旧内川など、かつて人々の暮らしを支えた水路跡を「桜のプロムナード」という名称で散策路に設定しています。これらの水路跡は現在緑道として整備され、大田区の主要な桜の見どころとなっています。桜の時期はもちろんのこと、一年を通して四季を感じることができます。緑道には案内の地図板が置かれ、コースに迷うことはありません。



善照寺の裏手に「ひばり児童遊園」があります。この前の道路は旧鎌倉街道に当たります。都内には至る所にかっての鎌倉街道の道筋が残っていますね。



ひばり児童遊園は「出世稲荷神社」の境内にあります。この神社の社殿は珍しく北向きに建てられているために「北向稲荷神社」とも呼ばれています。また、この地域の地名をつけて「北向上臺稲荷」とも呼ばれます。「出世」を冠しているのは、旧家森氏の守護神だった稲荷が後に馬込村上臺の鎮守に昇格したことに由来するものと思われます。



ひばり児童遊園脇から出世稲荷神社と万福寺の墓地に沿って曲がりくねった坂が上がっています。



27.おいはぎ坂

おいはぎ坂は長さが約75mほどのやや急な坂です。別名を「牛洗戸坂」といいます。昔は墓地の反対側には木が繁り、寂しい雰囲気の坂でした。通行人がたびたび追い剥ぎの被害にあったことから、この坂名が付けられたといわれています。駅前の案内地図と「歴史と文化の散歩道」の案内碑の地図に「おいはぎ坂」の表記があります。



善照寺前に戻り、桜並木通りを進んで馬込桜並木通り交差点で左折した先に左右に曲がりながら坂が上がっています。



28.鐙坂

鐙坂(あぶみざか)は長さが約160mほどの緩やかな坂です。坂名は、鎌倉時代の武将梶原景季(1162年〜1200年)の愛馬だった磨墨(するすみ)の鐙が落ちたという伝説に因んで名付けられた谷の地名に因んでいます。現在の鐙坂は大正十三年頃に行われた耕地整理によって出来たもので、それ以前は幅1メートルほどの農道でした。ちなみに、磨墨伝説の磨墨塚は臼田坂バス停付近にあります。坂下と坂上に案内柱が立っています。

鐙坂

大正末期から始った耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった。坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落したところという。鐙谷の地名から名付けられたものという。




かって馬込には多くの作家や芸術家が居を構え、「馬込文士村」と呼ばれました。その旧居跡を巡るコース図があちこちに掲示されています。また、文士のエピソードを記した案内板も似顔絵を添えて一緒に置かれています。



第二京浜国道の馬込橋から池上通りの大田文化の森交差点に向かうバス道路の臼田坂上バス停の先から臼田坂下バス停付近まで長〜〜〜い坂が下っています。



29.臼田坂

臼田坂は長さが約280mほどの緩やかな坂です。昔は馬込から大森に出るには、この坂と闇坂が主な道でした。昔はこのバス通りは田無街道と呼ばれ、馬込から荏原町と三軒茶屋を経て田無へ通じる街道でした。明治四年に東京府制が施行されてからもこの道路は府道第56号大森田無線と呼ばれています。臼田坂の坂名の由来は、坂のあたりに臼田姓の家が多かったことに因んでいるといわれています。また、坂周辺には大正末期から昭和初期にかけて萩原朔太郎・川端康成・石坂洋次郎など多くの作家が住み、「馬込文士村」という言葉も生まれました。文士村のメインストリートであったこの坂は、当時は現在と異なり赤土の急坂でした。萩原朔太郎の散文詩「坂」は、この頃の臼田坂辺りを魅力的に描写しています。坂上と坂下に案内柱が立っています。

臼田坂

坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起ったといわれている。




臼田坂の坂下の龍子記念館入口交差点を左折してから東側の小道に入り、最初の四差路を左折して北上しますと、住宅地の中に曲がりくねった坂が臼田坂に合流する手前まで上がっています。



30.右近坂

右近坂は長さが約190mほどの緩やかな坂です。坂名の由来については、臼田坂の右近くから谷中に下りる坂道なので右近坂と呼ばれるようになったとか、坂の近くに「右近」という人あるいは「おこん」という女性が住んでいたとか、鬱金色の着物を着た娘がよくこの坂を通ったとか、諸説があります。坂下に案内柱が立っています。

右近坂

この坂名の由来については、近くに「右近」という者、あるいは「おこん」という女性が住んでいたからとか、いろいろな伝説があり、明らかでない。




鐙坂でも触れましたが、磨墨伝説の磨墨塚は右近坂上の先で臼田坂に合流する三差路の角にあります。

磨墨塚の由来

「磨墨」は、源頼朝の家臣であった梶原景季(鎌倉時代の武将)の愛馬であり、平家物語で有名な宇治川の合戦で、佐々木高綱の乗った「池月」と先陣を争った名馬です。その景季の愛馬「磨墨」をこの場所に埋めたとの言い伝えがあり、明治三十三年(1900年)八月に、馬込村の有志により、石碑が建立されました。馬込は、鎌倉時代に梶原景時(景季の父)の領地であったとの説があり、近くの古刹萬福寺には、景時の墓とされる墓石や「磨墨」の銅像があります。また、周辺には、「磨墨」が落命したという「駒落の谷」や「磨墨」が鎧を落としたという「鎧谷」に由来する「鐙坂」などの地名が残っています。




大森駅に向かいます。住宅地の中に(山王)厳島神社があります。厳島神社の創建年代は不明ですが、社を取り囲むように巡らされた弁天池の内に鎮座し、小町弁天とも呼ばれています。ちなみに、源義経の海苔伝説で知られているのは産業道路沿いにある三輪厳島神社です。



山王公園の角から池上通りに突き当たるところまで坂が下っています。坂下付近は大きく彎曲しています。



31.闇坂

闇坂は長さが約170mほどのかなり急な坂です。昔坂の両側に八景園と加納子爵邸があり、その間を通る坂に八景園の樹木が鬱蒼と覆いかかって昼間でも暗かったことから「闇坂」の坂名が付きました。八景園とは、明治十七年に開園した遊園地のことです。現在の天祖神社の裏手一帯に位置し、広さ約一万坪の敷地に数百株の梅が植えられ、東京湾が一望できる風光明媚なところだったといわれています。坂上と坂下に案内柱が立っています。

闇坂

むかし、坂側に八景園という遊園地があり、その反対側に加納邸があって、この坂道は細く曲り、八景園の樹木がうっそうとおおいかかり、昼間でも暗かったために、この名がついたといわれている。




池上通りは、山王二丁目交差点から山王口交差点に向かって長〜〜〜い上り坂になっています。



32.八景坂

八景坂は長さが約360mほどの緩やかな坂です。別名を「やけい坂・薬研坂」といいます。かってはこの坂上からの眺めは素晴しく、近くは大森の海岸、遠くは房総まで一望のもとに見渡すことができたといい、そこから「八景坂」という坂名で呼ばれるようになったといわれています。また、昔は相当の急坂だったために雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研のようになったことから「薬研坂」とも呼ばれました。坂の中ほどの大森駅西口交差点に面した丘の上に天祖神社があり、参道となる石段下に案内板が立っています。

大田区文化財 八景坂

今でこそゆるやかな坂道であるが、昔は相当な急坂で、あたかも薬草などを刻む薬研の溝のようだったところから、別名薬研坂と呼ばれた。この坂の上からは、かつて大森の海辺より遠く房総まで一望でき、この風景を愛した人たちにより「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」という八景が選ばれ、八景坂というようになったといわれる。かつて坂上には、源義家が鎧をかけたと伝えられる松があり、広重らの浮世絵に描かれ、有名であった。




折角なので、天祖神社に参拝していこうと思います。正面の参道(男坂)はかなり急な石段になっています。おまけに石段が不規則に歪んでいますので、手摺りに捕まりながら慎重に上っていきます。この坂も大田区の坂道に加えていいかも。



本殿は意外と小ぶりな社です。天祖神社は、八景天祖神社とも神明山天祖神社とも呼ばれ、創建年代は不明です。かつて境内には「鎧掛松」という松がありました。源義家の軍勢が後三年の役に出征途中に天祖神社で戦勝を祈願し、その際に松の枝に鎧をかけた故事に因んで名付けられました。歌川広重の「八景坂鎧掛松」という題材にもなる程の有名な松でしたが、明治時代に枯れてしまい現在は存在しません。

神明山 天祖神社由来

一.由来
お社は江戸時代神明社といわれ主神は天照大神を祭神とし凡そ、享保年間(約三百年前)に、土地の庄屋、年寄、百姓が相謀り伊勢神宮の参詣を目的に「伊勢講」を作り伊勢皇大神宮に詣で分霊をお受けして祭祀したのを初めとする。八大(代?)将軍徳川吉宗が将軍就任と共に、伊勢の橋爪源太郎が享保二年(1717年)幕命を受け「綱差役:将軍の鷹狩りの時に捕らえた鳥に餌付けする役職で彼は鶴の生捕り、飼育に長けていた」として不入斗に居を構え菩提寺は円能寺にある。新井宿村の伊勢講の成立ち、並びに遂行管理に伊勢出身者の彼が便宜を図ったことが予測されるので、此の頃には創建された根拠になっている。伊勢神宮は天照大神を主祭神とし、天手力男神、万幡豊秋津姫命を相殿に祀る。従い、本神社も三種の神器の一つの八咫鏡を神体としている。お社は八景坂の西上に当たり境内は四十八段の石段を上りたる幽邃の地にして、延宝五年(1677年)、江戸幕府の命により円能寺の別当するところになり、明治初年まで同寺の管理下にあった。明治五年(1872年)十一月神仏混淆の禁令に伴い、円能寺の手を離れ神明社は伊勢を意味していたので神社ではあるが区内唯一冠称を付け「神明山 天祖神社」と名を改め地元の鎮守として、階段下の神社の大きな標柱にも「鎮守 天祖神社」と刻字され物語っている。

二.伝承
境内社殿脇に大きな松があったが徐々に枯れ大正六年(1917年)十月の暴風雨で倒れたが、この松は平安末期、寛治五年辛未頃(1091年)鎮守府将軍八幡太郎義家(源頼朝の高祖父)が後三年の役に奥州征伐に赴くに当たり駒を止め、鞭を下し、鎧を掛けて土地の風景を眺め暫し汗を拭い取ったとのことで「八幡太郎鎧掛けの松」と古来伝承され、その孫松の大きな切り株(直径161cm)は当社拝殿の中に大切に保管されている。

三.浮世絵などの史実
安永九年(1780年)の大橋方長の著作「武蔵演路」、天保五年(1834年)の長谷川雪旦の「江戸名所図会」並びに、初代歌川広重の「名所江戸百景」、「絵本江戸土産」などにも八景坂鎧掛松として描かれている。往時は、お社から眺める風景は田園、海岸、遠くは房総まで一望の下に見渡すことが出来たという。

四.建造物
狛犬(正確には角が無いので獅子)は階段の上りきった所に境内の神域を守護し阿吽の形で、子獅子も阿吽の形は、区内では二例目で珍しく、椎の巨木と八重桜に見守られているのが本殿で切妻造、拝殿は入母屋造向拝付である。

五.石造物
慶応二年(1866年)大野貫蔵建立、大野榮山書の句碑「鎌倉のよより明るしのちの月」、大野景山の八景碑「荒藺崎八景:笠嶋夜雨 羽田帰帆 柚浦秋雨 鮫洲晴嵐 六郷夕照 池上晩鐘 大森暮雪 大井落雁」、新井宿在住だった歌人で覇王樹社を主宰した臼井大翼の碑文「片明かりひそめる庭の面みれば夜ふけにすみてつきはのぼれる」並びに民族的には石の持つ呪力・霊力を信じることから発展し、江戸期には力持ちの興行や成人の確認へと変化を遂げた「力石」等多くの石造物が残されている。

六.祭礼
祭礼は毎年八月第三乃至は第四土・日曜日(昭和十四年頃までは十月三日、戦後は九月十八日)に例大祭を行なう。

七.境内末社、他の建造物
  • 正一位伏見稲荷神社:屋根形式 一間社流正面千鳥破風付 祭礼 例年二の午
  • 末社 祭神 宇迦之御魂命 記紀神話の男神 五穀・食物を祀る神
  • 庚申供養塔 寛政十二年(1800年)造立 区内唯一神社の崖下を刳り抜き入口は狐格子。駒型青面金剛立像で線香台も八幡海岸(現在の大森本庁一帯)、石工「石政」の刻字が残されていて珍しい。




境内には樹齢400年といわれる椎の御神木が祀られています。今でも樹勢は盛んで、秋には沢山実を付けるそうです。樹木は幹の外側に成長層があり、参拝客はその樹力を授かりたいと幹に手の平を当てて念じます。なるほど、幹の中が空洞になっても葉っぱが青々と生い茂っているのはそういうことですか。



天祖神社の女坂から下りる途中の石塀に馬込文士村の歴史を記したパネルが埋め込まれています。山王一帯は眺望の良さから別荘地となり、それから文士達が移り住みようになったんですね。

馬込文士村と山王・馬込の移り変わり

今では閑静な住宅地となっている山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか「馬込文士村」と呼ばれるようになりました。文士や芸術家たちが住み始めた頃、大森駅前の高台は都市近郊の別荘地として知られていました。一方の馬込は雑木林や大根畑が広がる一帯でした。馬込の大根畑の真ん中に若い尾ア士郎・宇野千代が移ってきたのは大正十二年(1923年)のこと。士郎は文学仲間を次々に誘い、社交的な二人は文士たちの中心的な存在となりました。大正十二年といえば関東大震災の年。東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化され、景観が大きく変わってきた時代でした。




当時の風景を描いた銅版画には解説文も添えられています。麻雀は大正時代に流行してたんですか。手積みの懐かしい台ですね。

関東大震災の騒ぎが一段落してくると、世間では新しい風俗が見られるようになりました。ダンスホールができ、洋装のモダンボーイや断髪姿のモダンガールが現われ、大正十四年には麻雀が大流行、麻雀カフェーができました。作家の広津和郎も麻雀カフェーに通った一人で、馬込の自宅にも麻雀を持ち込み文士たちに伝授しました。



麻雀の次はダンスパーティですか。文士にお似合いの楽しみです。

昭和の初期、文学の世界は転換期を迎えていました。まだ若かった馬込の文士たちにとっても将来に不安の多い時代であったといえます。仲間同士集まって気を紛らわそうというのか、麻雀に続いて馬込の面々が凝り始めたのはダンスでした。衣巻家のアトリエで開かれるダンスパーティーに通ってきたのは、萩原朔太郎夫婦や室生犀星、宇野千代、時には川端康成夫人の姿もありました。



昭和の時代には文士も相撲をとったんですね。

昭和六年、文士の間で相撲の話が持ち上がり、「大森相撲協会」が発足しました。文士(力士)には四股名をつけ、番付表を作り、土俵は池上本門寺の裏手にあった空屋敷の庭にこしらえ、相撲大会を開きます。ダンス流行の頃からやや退廃的なムードが漂っていた文士村は、住人の入れ替わりがあってようやく落ち着きを取り戻しつつありました。



池上通りの山王口交差点のひとつ手前の交差点に合流する路地をちょっと進みますと、その先は二股に分かれています。その右側に坂が上がっています。



33.清浦さんの坂

「清浦さんの坂」は長さが約85mほどの緩やかな坂です。別名を「清浦坂」といいます。清浦奎吾は大正時代の政治家で山王に長く住み、邸宅前の坂が清浦坂といわれるほどでした。大正十一年(1923年)に総理大臣に就任しましたが、在任5か月という短さで辞任しました。坂下と坂上に案内柱が立っています。

清浦さんの坂

大森駅前池上通りから山王の高台に続くこの坂道は、大正から昭和にかけて坂の中ほどに居を構えた第二十三代内閣総理大臣「清浦奎吾」にちなんで、「清浦さんの坂」と呼ばれていました。都心から程近く、海の見える緑豊かな大森山王周辺の高台は、閑静な住宅地として人気があり、多くの政治家や文人などが暮らしていました。




次の坂は清浦さんの坂からかなり離れたところにあります。先ずはジャーマン通りに出ます。池上通りの山王口交差点から環七通りの馬込銀座交差点までの道路は「ジャーマン通り」という愛称が付いていますが、これはその昔東京ドイツ人学校が此の地にあったことに因んでいます。大森にドイツ人学校ってあまりピンときませんが、山王から馬込・池上の辺りには古くは景勝地の「八景坂」があり、明治時代から文化人の集まる街でした。関東大震災後に横浜から東京独逸学園が移転してきて、1991年までジャーマン通りに校舎があったのです。周辺には外国人居住者も多く、山王の山の手のイメージとあいまっておしゃれな街の印象を醸し出していました。現在は中層階のビルが並んで二車線の交通量の多い広い道路になっていますが、今もハナミズキなどの街路樹が続いています。洋館が数多く残る山王エリアは、田園調布と並ぶ大田区有数の高級住宅街として知られています。ちなみに、「ジャーマン通り」の名付け親は石原慎太郎氏です。環七通りを第二京浜(国道1号線)の松原橋交差点方向に進んで東海道新幹線のガード手前で左折しますと、マンションが建ち並ぶ住宅地に坂が上がっています。



34.蛇坂

蛇坂は長さが約85mほどのかなり急な坂です。坂名の由来は不明ですが、坂の辺りに蛇が多く生息していたことによるとか、蛇のように曲っていることによるとかいわれています。 坂下と坂上に案内柱が立っています。

蛇坂

蛇のように曲っていることから、この名がついたという。また、昔は坂のあたりに蛇がいたことによるともいわれる。




蛇坂から馬込陸橋に出ます。馬込陸橋の下には横須賀線、地上には第二京浜、頭上には東海道新幹線の高架が通っています。



馬込陸橋の先から、第二京浜は長〜〜〜い長〜〜〜い坂となって下っています。



35.馬込坂

馬込坂は長さが約480mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、第二京浜国道が建設されて五反田から多摩川間のバスが通るようになり、馬込橋・馬込坂下のバス停ができると自然に馬込坂と呼ばれるようになりました。第二京浜国道は昭和十一年に着工し、全面舗装が終わったのは昭和三十四年で、それ以前はこの付近一帯は小高い丘や水田で、坂下には内川の清流が流れていました。坂の中ほどに案内柱が立っています。

馬込坂

坂名は、第二京浜国道が建設され、昭和二十四年頃より五反田から多摩川際までのバスが通るようになり、馬込坂下、馬込橋のバス停ができると自然に馬込坂と呼ばれるようになった。第二京浜国道ができる前のこの付近一帯は小高い丘や水田で、坂下には内川の清流が流れていた。




馬込坂の中ほどから左手に坂が上がっています。



36.南坂

南坂は長さが約130mほどの”S”字状に曲がる緩やかな坂です。坂名の由来は、馬込の氏神である八幡神社から見て南にあることに因んでいます。昔の南坂は道幅も狭く急な坂道で、今の第二京浜国道の中央あたりまで延びていました。そこから西へ下って二本木(西馬込一丁目付近)を通り、旧池上村の根方(仲池上一丁目付近)に通じた古い道でした。その当時、坂道の両側は高く、坂を下る左側には雑木が繁り、今ではマンションになっている坂の右側の辺りは竹藪でした。耕地整理によって、新しい坂道は坂上を削られて傾斜は緩やかになりました。坂下と坂上に案内柱が立っています。

南坂

馬込の中心にある八幡神社からみて、南側にあるので南坂といわれている。昔の坂は、道幅も狭く急な坂で、今の第二京浜国道の中央あたりまであったという。この坂道は西へ下って二本木を通り、池上の根方に通じた古い道である。




馬込坂下交差点から旧内川跡の緑道(桜のプロムナード)を少し進んだ先で左折し、立正大学附属中学校・高等学校の南端に沿った先から坂が上がっています。ちなみに、学校の敷地は平成十六年(2004年)6月に廃止された東京都交通局馬込車両工場跡地になります。



37.二本木坂

二本木坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、かってこの付近一帯は馬込村小字二本木と呼ばれていて、坂名はその地名に因んでいると思われます。この坂道は南坂から旧池上村の根方(仲池上一丁目付近)に通じていた古い道になります。坂上に架かる新幹線の跨線橋には二本木橋という橋名が付けられています。



坂下付近に案内柱が立っています。

二本木坂

この坂道は、馬込の八幡神社付近の南坂を通り、旧池上村根方方面に向かう古い道である。坂名は、旧馬込村の小字二本木に由来する。




坂上付近にも案内柱が立っていますが、文面は少し異なります。「二本木橋」について書き加えられたようです。

二本木坂

この坂道は、馬込の八幡神社付近の南坂を通り、旧池上村根方方面に向かう古い道である。坂名は、旧馬込村の小字二本木に由来する。付近の新幹線の架橋は、二本木橋と名付けられた。




二本木坂の坂上から新幹線の線路に沿って久が原方向に進みますと、富士見橋の南詰から坂が下っています。



富士見橋を渡った北詰からも坂が下っています。新幹線の線路を挟んだふたつの坂はどちらも同じ坂名で呼ばれています。



38.相生坂

相生坂は、それぞれ長さが約120mほどのやや急な坂です。すぐ近くを平行する一組(2本)の坂道、あるいは上りと下りが向き合った坂道は“相生坂”と呼ばれることがあります。この相生坂も、新幹線の線路を挟んで両側にふたつの坂が並んでいることからこの名前が付きました。南側の坂の坂上に案内柱が立っています。

相生坂

新幹線を挟んで両側に、二つの坂が並んでいるところから、この坂を相生坂という。昭和初年耕地整理により出来た坂である。




北側の坂の坂上にも案内柱が立っています。文面は同じです。

相生坂

新幹線を挟んで両側に、二つの坂が並んでいるところから、この坂を相生坂という。昭和初年耕地整理により出来た城である。




西馬込の隣の町域は仲池上になります。仲池上の高台に子安八幡神社が鎮座しています。子安八幡神社は別名「八幡神社・根方八幡」とも呼ばれ、旧池上郷の鎮守でした。鎌倉時代の康元元年(1256年)、此の地の領主だった池上宗仲が池上山(現在の池上本門寺内)に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建されました。池上宗仲が妻の除病平産を祈願し、無事に男子を産んだ事から「子安八幡宮」と称されました。その後、天正九年(1581年)に現在の地に遷座したと伝えられています。



子安八幡神社の脇から坂が上がっています。



39.八幡坂

八幡坂は長さが約150mほどのやや急な坂です。子安八幡神社に沿っているためにこの坂名で呼ばれるようになりました。坂下と坂上に案内柱が立っています。

八幡坂

子安八幡神社にそってあるため、この坂を八幡坂という。坂下には子安橋があり、ともに神社からの由来する名である。




林昌寺の1ブロック東側で坂が下っています。



40.六郎坂

六郎坂は長さが約140mほどのやや急な坂です。坂名は、江戸時代後期に池上村のために尽力した海老沢六郎左衛門の屋敷が坂に沿ってあったことに由来しています。仲池上や上池台付近には耕地整理によって出来た坂道が多いのですが、六郎坂は古くからある坂道です。坂上と坂下に案内柱が立っています。

六郎坂

坂名は、江戸時代後期、この村のために尽した海老沢六郎左衛門の屋敷が坂にそってあったことに由来する。坂下の水路にかかる橋を六郎橋という。




六郎坂の坂下から「ねがた桜みち」を第二京浜方向に進み、大森第十中学校の北東角で左折しますと、その先の交差点から坂が上がっています。



41.大尽坂

大尽坂は長さが約75mほどの”く”の字に曲がったやや急な坂です。昭和初期に行われた耕地整理によって出来た坂道であるといわれ、坂名はその昔大尽(財産をたくさん持っている人のこと)がこの辺りに住んでいたことに由来すると伝えられていますが、その大尽が誰であったかについては諸説があって明らかではありません。坂下と坂上に案内柱が立っています。

大尽坂

昔、大尽(財産をたくさん持っている人)が、このあたりに住んでいたということで名付けられたという。




今日のスタート地点と同じ、ゴール地点の西馬込駅に着きました。



ということで、大田区で三番目の「西馬込・南馬込・山王・仲池上コース」を歩き終えました。次は大田区最後の東雪谷・上池台・中馬込・南千束・北千束の坂を巡りたいと思います。





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