大田区(東雪谷・上池台・中馬込・南千束・北千束コース)
踏破記
今日は、昨日の西馬込・南馬込・山王・仲池上地区の坂に引き続き、大田区最後の東雪谷・上池台・中馬込・南千束・北千束地区の坂を巡ります。昨日のゴール地点である西馬込駅からスタートします。
西馬込駅から、ねがた桜みち・十中通りを経由し、道々橋交番前交差点の先で東海道新幹線・横須賀線のガードを抜けた左手から池雪小学校脇まで坂が上がっています。
- 42.花抜坂
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花抜坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名は、日蓮聖人が洗足池から池上へと向かう途中でこの付近に野花が美しく咲き乱れていたので思わず手折って以来、此の地が「花抜き(花の木)」の地名で呼ばれるようになったという伝説に由来します。伝説の通り、この坂は古い道で中原街道から別れて矢口の渡しまで通じる道でした。昔は現在のようなまっすぐな坂道ではなく、両側は高い崖になっていて、坂下には竹藪が生い茂った彎曲した坂道になっていたといわれています。坂下に案内柱が立っています。
花抜坂
「大田区史」に載せられた伝説によると、この付近は野花が美しく咲き乱れ、日蓮聖人が思わず手折ったので、以来「花抜き(花の木ともいう)」の地名でよばれるようになったという。坂名はこの地名に由来する。
十中通りは東海道新幹線・横須賀線の高架先で二股に分かれ、左手は荏原病院通り、右手は学研通りとなります。荏原病院通りの周辺には3つの坂、学研通りの周辺には8つの坂が集中しています。歩いてみた感じでは、荏原病院通りは高台を通り、学研通りは谷底を通っているように思えます。先ずは学研通りに進みます。くわはら耳鼻咽喉科クリニックの角を右折しますと、進んだ先の中谷駐在所の北側が二叉路になっています。左右の道路に挟まれたところは林昌寺の墓地になっていて、東側のコンクリート塀に沿って右に曲がりながら坂が上がっています。ちなみに、林昌寺は子安八幡神社と隣り合った仲池上一丁目にありますが、コンクリート塀に囲まれた墓地は飛び地になっているようです。
- 43.猿坂
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猿坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。昔は子安八幡神社や林昌寺からこの坂にかけての台地には森林が続き、猿が多く生息していたといわれており、坂名はそれに因んでいると思われます。この道は池上本門寺前から仲池上の根方を通り、猿坂を通って台地に上り、馬込の夫婦坂を経て荏原町に達する古い道でした。坂下と坂上に案内柱が立っています。
猿坂
「新編武蔵風土記稿」の林昌寺の項に「境内墓所の側に坂あり、猿坂と呼、昔山林茂りて猿多く住せし故是名あり」と記されている。おそらく、古くから知られた坂道であろう。
猿坂の坂上から北東に1ブロック進んだ左手から学研通りに向かって坂が下っています。
- 44.大久保坂
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大久保坂は長さが約180mほどのやや急な坂です。坂名は、昭和初期に耕地整理で坂が出来た際に、この場所が大久保氏の屋敷跡であったことに由来します。坂上と坂下に案内柱が立っています。
大久保坂
昭和初年の耕地整理によって出来た坂道で、坂の名は、昔、大久保氏の屋敷跡であったということに由来するという。
上池台五丁目交差点の右手に住宅地の間を坂が上がっています。ちなみに、上池台五丁目交差点の角地にスーパーのライフがありますが、ここには昭和三十二年(1957年)から平成二十年(2008年)まで「学研:学習研究社」の本社がありました。現在は本社を五反田に移していますが、「学研通り」という通り名はその名残りです。
- 45.稲荷坂
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稲荷坂は長さが約110mほどの緩やかな坂です。坂名は、昭和初期に耕地整理で坂が出来た際に、坂上に「玉倉稲荷」という稲荷社が祀ってあることに因んで名付けられました。坂下と坂上に案内柱が立っています。
稲荷坂
坂上の上池台五丁目十四番の南側角地に、玉倉稲荷という上谷戸の稲荷神社が祀ってあるので稲荷坂と名づけられたという。この坂道は耕地整理により出来たといわれている。
その玉倉稲荷神社は、稲荷坂の坂上付近から右折して住宅地の中を通った右手にこじんまりと鎮座しています。手元の地図には載っていないので探しあぐねていましたら、通りかかった地元の方に場所を教えて頂きました。かなり歴史のある神社だということです。稲荷坂に面していないのは、かっては原型となった坂が神社の前を通っていましたが、新しく開かれた際に道筋が変わったのではないかと思われます。
稲荷坂の坂下に戻ります。学研通りの稲荷坂バス停付近から貝塚坂バス停付近まで上り坂になっています。
- 46.貝塚坂
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貝塚坂は長さが約330mほどの緩やかな坂です。坂名は、この坂の周辺に貝塚を伴う集落遺跡があったことに因んで名付けられました。大田区内の鵜の木・池上・山王と連なる台地には縄文時代から古墳時代にかけての集落遺跡が多く、貝塚坂周辺にあったといわれる遺跡もそのひとつです。坂上の歩道の脇の植え込みの中に案内柱が立っています。
貝塚坂
坂名の由来となった馬込貝塚を、「大森区史」は「馬込の根方に貝塚というのがある。石器時代の器物や矢の根石などがよく掘り出されたといっている。今もなお好事家の尋ねて来るものが少なくない。」と記している。
貝塚坂の坂上から直ぐ先のウエルシア大田上池台店(旧ピーコックストア上池台店跡地に2017年にオープン)の前から環七通りの夫婦坂交差点を挟んで品川区との区境まで延びる擂鉢状の坂があります。
坂は夫婦坂交差点を底にして下りと上りが連続しています。
- 47.夫婦坂
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夫婦坂は長さが約350mほどの緩やかな坂です。坂が向かい合う様子を夫婦に例えて夫婦坂と呼ぶようになりました。昭和の初期までの夫婦坂は今よりも道幅も狭く曲った坂道でした。環状七号線もまだ開通しておらず、竹藪や雑木林などに囲まれ、昼なお暗く寂しい急な坂道でした。ウエルシア大田上池台店前の交差点脇に案内柱が立っています。起点は上池台四丁目で、終点は北馬込一丁目品川境になると思うのですがね。勝手ながら文面を入れ替えてみました。
夫婦坂
この坂は、上池台四丁目坂上から、環七通りを挟んで北馬込一丁目品川境に連なる坂で、その向い合うさまを夫婦にたとえてよぶようになったといわれている。
大田区北馬込一丁目と品川区旗の台四丁目との境界付近の交差点脇にも案内柱が立っています。こちらは北馬込から上池台に向かう坂と案内されています。
夫婦坂
この坂は、北馬込一丁目品川境から、環七通りを挟んで上池台四丁目地先に連なる坂で、その向い合うさまを夫婦にたとえてよぶようになったといわれている。
貝塚坂に戻り、上池台四丁目交差点を右折します。こちらにも鍋のような下りと上りが繋がった坂があります。
学研通りから下る坂には名前は付いていませんが、鍋底から上がる坂には坂名が付いています。
- 48.庄屋坂
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庄屋坂は長さが約150mほどのかなり急な坂です。坂の付近に昔からの庄屋の家があったと伝えられることからこの坂名がついたといわれていますが、庄屋が誰であったのかは不明です。坂下と坂上に案内柱が立っています。
庄屋坂
坂の付近に、昔から庄屋の家があったと伝えられることから、この名がついたといわれる。
庄屋坂の2ブロック南西に、稲荷坂下の上池台五丁目交差点に向かって坂が下りています。
- 49.鸛の巣坂
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鸛の巣坂(こうのすざか)は長さが約75mほどのかなり急な坂です。この付近には、かつて鸛(こう:コウノトリ)の巣があったことから、「鸛の巣山」と呼ばれ、坂名はそれに因んでいます。坂下に残っていた水路は「鸛の巣流れ」と呼ばれ、かつては用水路として、近年は排水路として使用されていましたが、下水道の敷設により現在は埋められています。鸛の巣坂にほぼ並行して、北東側には庄屋坂、南側には蝉坂があります。坂上と坂下に案内柱が立っています。
鸛の巣坂
鸛(こうのとり)の巣があったということからこの付近を鸛の巣山と呼んでいた。坂名はそれに由来する。また、坂下に今でも残る水路は鸛の巣流れといわれている。
鸛の巣坂の1ブロック南に坂が下っています。
- 50.蝉坂
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蝉坂は長さが約160mほどの逆”く”の字に曲がるかなり急な坂です。この坂道は耕地整理以前から存在する古い道筋で、付近一帯が「池上村蝉山(せみやま)」と呼ばれていたことに因んで坂名が付けられたと考えられます。坂上と坂下に案内柱が立っています。
蝉坂
この坂の付近一帯を、もとは蝉山といっていた。坂名の由来はこれによったらしい。付近に蝉山橋もある。
上池台三丁目と東雪谷四丁目の間に「洗足流れ」という水路が残っていて、そこに架かる橋には「蝉山橋」という橋名が付けられています。これも蝉山の地名に由来しているのでしょう。
都立荏原病院は伝染病院が起源で、昭和九年に現在の場所で診療を開始し、それ以来長年にわたって伝染病床(現在は感染症病床)を持つ病院として知られています。2020年2月には、 新型コロナウイルス感染症(COVID−19)の患者を受け入れたことで注目されました。住宅地の中の閑静な場所に立地し、院内の庭には草木や花が植えられ、治療には良い環境の病院となっています。
荏原病院の北西端から南西に3ブロック進んだ先から坂が上がっています。
- 51.権現坂
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権現坂は長さが約200mほどのやや急な坂です。昔坂の付近に権現社があり、それに因んで地名が権現山と呼ばれていました。この坂道は大正末期に行われた耕地整理によって出来ましたが、坂名は地名に由来して名付けられました。坂上に案内柱が立っています。
権現坂
この付近に、権現社があり、その地をもとは権現山とよんでいた。坂道は大正末期に行われた耕地整理によって出来たものであるが、地名に由来して名付けられた。
権現坂の坂上は四つ角の交差点になっていますが、権現坂に直交するように南西に下る坂があります。
坂下には権現坂と並行して石川台希望ヶ丘商店街が延びています。
- 52.雪見坂
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雪見坂は長さが約250mほどのやや急な坂です。かつて坂上から富士山の頂の雪がよく見えたことから、地元では雪見坂と呼ばれていました。昭和初期に行われた耕地整理により坂路が整備された際に、正式に坂名として名付けられました。坂下と坂上に案内柱が立っています。
雪見坂
かつて、この坂より富士山の頂の雪がよく見えたため、雪見坂と呼ばれるようになった。昭和六年から九年まで行われた耕地整理により、道路が整備された後につけられた坂名である。
権現坂と雪見坂の交点から北西に進んだ先の突き当たりに雪ケ谷八幡神社が鎮座しています。一之鳥居・二之鳥居・三之鳥居がある雪ヶ谷村の鎮守社でした。二之鳥居は、本柱の前後に短い控え柱を立て貫で本柱とつないだ四脚鳥居になっています。ちなみに、「雪ヶ谷」の地名のいわれですが、諸説があって定かではありません。そのひとつとして「氷室説」があります。雪ヶ谷は、呑川を挟んで東側の雪ヶ谷八幡神社のある丘陵地と、西側にある日下山というふたつの丘に挟まれた文字通り「谷」の地です。「氷室説」については次のような説明があります。
江戸時代に川魚の「若鮎・落ち鮎」は多摩川の代表魚として江戸人の賞賛を受け、将軍にも献上されていました。鮎を雪でまぶし、姿と鮮度を保つために初夏に使う雪を谷あいのムロの中に大量に入れて保存する技法・技術があり、その名が雪谷の地名になったといわれています。
雪ヶ谷一帯は自然の起伏に富んだ複雑な地形をしているため、谷あいに横穴を掘り氷室を作るのに適していたのかもしれません。一番の利点は、雪ヶ谷村の北部に旧中原街道が通っていたことです。多摩川で捕れた鮎を中原街道を利用して江戸まで運んだものと考えれば、雪ヶ谷の氷室説にも頷けます。
雪ケ谷八幡神社 社誌
当社の創建は永禄年中と誌され、北条左京太夫氏康の臣太田新六郎管内巡視の際当所に於いて法華曼荼羅の古碑を発掘し、その奇瑞により八幡大菩薩を創祀すと伝う。爾来元亀・天正戦乱の世を経て慶長・元和の頃、円長寺・長慶寺の創建により別當として二寺臨年に奉仕するところとなる。旧中原街道沿道髄一の由緒深き神社として諸人の崇敬のもとに、文久三年二月社殿再建の業を起し、明治三年十一月拝殿造営、ついで明治二十三年再び工を起こし、明治二十八年十一月二十五日本殿幣殿落成・遷宮を行う。明治維新後神佛分離により明治五年村社に列せられる。昭和二十年五月戦災に依り社殿焼失、昭和三十四年八月現社殿の造営なる。かくて、氏子崇敬者の赤心のもと、社域の整備復興を見、雪ヶ谷の里の鎮護の神として、茲に四百有余年の御神徳をもって現在の盛儀をみるに至る。
境内には、不世出の大横綱大鵬関が奉納した出世石があります。大鵬関は第四十八代横綱で、本名は納谷幸喜といいます。終戦直後の復興から高度経済成長期の大相撲の黄金時代を支えた昭和の大横綱です。同時代に横綱となった柏戸関と競い合い「柏鵬時代」と呼ばれる黄金時代を築き、優勝32回(6連覇を2回)・45連勝などを記録し、当時の子供たちの好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語でも知られています。大鵬が未だ納谷と呼ばれていた序二段の頃、雪ヶ谷八幡神社の境内で氏子の子供達に相撲の稽古をつけていました。後に大横綱になり、「これは雪ヶ谷八幡神社の御加護の賜物である」と感謝し、神社に「出世石」と記した書を奉納しました。それを氏子衆が石に刻み、この出世石が完成しました。岩には、大鵬関の手形も付いていて、今でも大横綱の姿を偲ぶことができます。
横綱大鵬 出世石
異例の出世をとげ、文字通り「心」・「技」・「体」の三位一体を兼ね備えた「不世出の大横綱」と称えられた大鵬関。境内にて子供達に稽古をつけ、毎年の節分祭に参列していた。立身出世は雪ヶ谷八幡神社のお蔭と奉納された大鵬関直筆を石に刻み、自身の手形も刻まれている。
雪ケ谷八幡神社の南参道前から坂が上がっています。
- 53.宮前坂
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宮前坂は長さが約70mほどのやや急な坂です。雪ケ谷八幡神社の前の坂であることに因んで坂名が付けられました。坂下と坂上に案内柱が立っています。
宮前坂
八幡神社の前の坂であるため、宮前坂と呼ぶようになったという。坂下には、呑川にかかる宮前橋がある。
洗足池駅の手前に水路があります。この水路は、洗足池を水源とする「洗足流れ」です。
洗足流れは洗足用水・池上用水とも呼ばれる全長1.5kmほどの短い水路で、洗足池を水源として東雪谷と上池台の境界に沿って流下し、仲池上で呑川に合流しています。かつては農業用水として利用されていましたが、現在は周囲が閑静な住宅街となり、水路跡は遊歩道として整備されています。水路沿いには桜の木が植えられ、花見の時期は多くの人出で賑わいます。
洗足池は湧水池です。付近一帯には大小の湧水が多くあり、かっては用水路を通して池に湧水が流れ込んでいました。洗足池の主要水源となる湧水は4ケ所あったとされ、現在は清水窪弁財天(東京の名湧水57選のひとつ)の涌水が残っています。今でも水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れ込んでいます。この地域の古い地名は「千束」でしたが、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となりました。池名もその故事に因んでいるものと思われます。洗足池の周囲は洗足池公園になっていて、園内には勝海舟夫妻の墓や「西郷南州留魂詩碑」などがあります。勝海舟は洗足池が好きで、ここに「洗足軒」という別邸を建て、今も洗足軒の跡が残されています。
洗足池公園
北千束の清水窪湧水などを主水源とする都内屈指の広さを誇る淡水池を有する公園である。歌川広重の「名所江戸百景千束の池袈裟懸松」にも描かれた水辺の景観の面影を今も残し、サクラ・紅葉など四季折々の豊かな自然を満喫することができる。また、平成三十年度には東京都名勝に指定され、勝海舟夫妻墓所など歴史を伝える史跡のほか、ボートを楽しむ多くの人でにぎわっている。
Senzokuike Park
The freshwater lake situated in Senzokuike Park is one of the largest of its kind in Tokyo; it is also the main water supply for Shimizu Kubo spring water in Kita Senzoku. Its beautiful waterside scenery can be seen in the well-known Ukiyo-e print by Hiroshige Utagawa, remnants of which still remain today. It is an ideal spot to enjoy the rich nature of all four seasons, including cherry blossoms and autumn leaves. Designated as an official Place of Scenic Beauty for Tokyo, the park is often bustling with people, enjoying everything from its historical landmarks to the pleasure boats which operate in the lake.
洗足池の前から中原街道が上り坂になっています。
- 54.洗足坂
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洗足坂は、中原街道(旧鎌倉街道)の洗足池交差点から洗足坂上交差点までの長さが約340mほどの緩やかな坂です。別名を「千束坂」といいます。坂名は洗足池に因んでいます。坂上の洗足坂上交差点脇に金属製の案内板が立っています。
案内板の状態は非常に良く、挿絵も解説文もはっきりと見てとれます。落書き魔の餌食にならないよう心から願っています。
洗足坂
この道(中原街道)は、江戸から平塚の中原に通ずる街道で、江戸期には、東海道の脇往還としてさかんに利用された。明治期以後も産業の発達に伴い、東京への物資の輸送路として大きな役割を果たした。しかし、このあたりは坂が多く、重い荷車は難儀をした。昔の洗足坂は道幅も狭く、現在の坂より短い急な坂であった。大正十二年になると道路が改修されて、ゆるやかな坂となり、その後さらに拡幅されて現在の道路となった。坂の下には、その改修記念碑がある。
洗足坂上交差点を左折し、北に向かって赤松小学校前交差点まで進みます。交差点から西方向に坂が下っています。
- 55.稲荷坂
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稲荷坂は長さが約100mほどの”く”の字に曲がる緩やかな坂です。坂名は、かって坂の付近に稲荷社があったことに因んでいます。坂下に案内柱が立っています。
稲荷坂
この坂道は古くからあり、道幅は九尺(2.72メートル)ぐらいであったが、耕地整理によって四間(7.27メートル)に拡幅され、現在の道になった。坂の付近に、稲荷社があったのが坂名の由来である。
今日のゴール地点の大岡山駅に着きました。
ということで、大田区で最後の「東雪谷・上池台・中馬込・南千束・北千束コース」を歩き終えました。大田区には丘陵が多く、歩き堪えのある急坂も多くあって面白かったです。次は杉並区の坂を巡りたいと思います。
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