杉並区(上井草・下井草・善福寺コース)


踏破記


大田区の次はどの区にしようかと考えたのですが、23区で残っている板橋区(67)・世田谷区(66)・杉並区(49)の中から、区内をくまなく歩いた割には後回しになっていた杉並区を選びました。その理由として、今まではネットに掲載されていた坂マップを利用して安直に坂を巡っていたのですが、残る3区の坂マップは未完成となっていて自分で作るしかないのです。なので、なるべく坂の数の少ない杉並区になった次第。地図とくびっぴきになってやっとこさ坂マップを自作したのですが、これが大変な作業となりました。お散歩に持参している地図に坂名を伏した付箋をペタペタ貼っていったら、地図帳が付箋だらけになってどこに坂があるのかさえ分からなくなる始末。でも、坂を見付けて歩く度に付箋を剥がしていくこの達成感!これもこれでいい方法かも。

杉並区は東京23区の西部に位置し、城西地区と呼ばれます。23区の中では8番目の面積を有し、自然が豊富で閑静な住宅地域として発展してきました。中央線沿線(高円寺・阿佐ケ谷・荻窪・西荻窪駅周辺)を中心として商店街が発達していて、地元住民だけでなく区外からの来街者を想定した個性的な中小店舗群も集まっています。特に、高円寺には古着屋やライブハウスなどが集まっていて、休日には多くの若者で賑わいます。北は練馬区、東は中野区、東南で渋谷区、南は世田谷区と隣接し、西側には武蔵野市と三鷹市が位置します。地形的には武蔵野台地のほぼ中央に位置し、全般的になだらかな高台地域となっていますが、東部地域がやや低く、西に向かうに従って次第に高くなっています。区の中央部に善福寺川、南側に神田川、北側に妙正寺川の3つの川が西から東へ流れ、この流域は周囲よりやや低くなっています。杉並区の坂を巡るには、この地形と川の流れがポイントになります。

今回は杉並区の坂道を、北部の上井草・下井草・善福寺地区、中部の西荻窪・久我山・成田西地区、南部の堀之内・和泉地区と中東部の高円寺・和田地区の3つの地域に分けて巡ります。先ずは杉並区の北西端にある下井草駅からスタートします。



下井草駅の脇を通る旧早稲田通りを南下し、妙正寺川に向かいます。銀杏稲荷公園前交差点から、妙正寺川に架かる松下橋の手前まで坂が下っています。



1.稲荷坂

稲荷坂は長さが約110mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂上にあった稲荷神社に因んでいます。稲荷神社は、現在は坂上の東側の民家の路地の突き当たりに小さな祠だけ残っています。祠の脇に立っている案内板は令和四年に作成された最新のものです。

銀杏稲荷神社

当社は旧下井草村の鎮守で、社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。井草村井口家二代の井口外記によって元和二年(1616年)に創建されたとされ、棟札に「抑当社勧請者元和二歳比、先祖外記造営(下略)」とあります。井口家は相州(現・神奈川県)の三浦氏の末裔といわれ、天正年間(1573年〜1592年)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。村の鎮守として祀られた当社は、かつては境内も二百坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺が別当として管理していましたが、現在は井口家を中心として地元の人々に信仰されています。現在も残されている、文政十二年(1829年)二月に下井草村氏子中が奉納した「正一位銀杏稲荷大明神」の大幟は、当時から稲荷信仰が盛んだったことをうかがわせる貴重な資料です。毎年二月初午の例祭日には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を戴き、御神酒や赤飯及び種々の御供物をして、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。




妙正寺川の遊歩道を通って妙正寺公園に向かいます。未だ4月始めですが、遊歩道の真紅の花が鮮やかに咲き誇っています。サツキでしょうか、ツツジでしょうか、いつ見ても判別がつきません。



妙正寺公園の北側に隣接した区立妙正寺体育館前から中瀬天租神社の脇を坂が上がっています。



2.神戸坂

神戸坂(ごうどざか)は長さが約60m(もっと長そう)ほどの緩やかな坂です。この地域は府中明神の四の宮の神領だったことから神戸と呼ばれ、坂名も地名に因んで名付けられました。中瀬天祖神社の境内に立っている案内版に「神戸坂」の記載があります。

中瀬天祖神社

当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡下井草村の条に「十羅刹堂」とあり、「妙正寺ヨリ三町程北ノ方小名神戸ニアリ 妙正寺御朱印地ノ内ナリ 即此ノ寺ノ持」と記されています。十羅刹とは、もと人を食う悪鬼でしたが、後に法華経を守る守護神となった十人の羅刹女といわれています。このことから、日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀ったものと思われます。明治以前は十羅刹様、神明様などと称していましたが、維新後の神仏分離令(明治元年)によって天祖神社と改称されました。祭神は大日(メ)貴神(天照大神の別の尊称)・市杵嶋姫命(天照大神の姫神)・保食神(穀物や食物の神)の三神です。また、このほかに市杵嶋神社・稲荷神社合殿の境内社が一社あります。「神社明細帳」の由緒には「当社は井草八幡宮の境外神社で井草川の西岸
神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり。」とあります。この神体を霊石とする伝説があり、昭和二十年頃までは例祭日には 社前で餅をつき”下ベロ餅”という丸餅を参拝者に配りました。この餅を食べると子宝が授かるといわれ遠方からも多数の参拝者があり「神戸の鎮守様」として昔から親しまれてきました。天祖・稲荷それぞれに講中があり、百余名の氏子が熱心に維持管理に当っています。



早稲田通りに入り、清水三丁目交差点で環八通りを横断します。環八通りは清水三丁目交差点から井荻トンネルに入り、地下区間となります。



上井草一丁目交差点の1ブロック先の交差点で右折した先に、東西に細長く延びた敷地の木立に包まれた緑豊かな四宮森公園があります。



四宮森公園の手前から坂が下っています。ここから怒涛の16坂巡りがスタートします。平成二十三年(2011年)に上井草地区の碁盤目のような通りの坂名が公募によって命名され、16の坂で構成される「上井草碁盤坂」の坂名を記載した地図が発行されました。この坂は東から数えて最初の坂になります。

3.四宮坂

四宮坂(しのみやざか)は長さが約80mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂の途中にある四宮森公園に因んで名付けられました。



四宮坂の坂下から直ぐ西に井草川遊歩道が道路を横断しています。井草川遊歩道は、かって杉並区の北部を流れていた井草川を暗渠にし、約3kmにわたって地上部を緑道として整備したものです。かっての井草川は道路と交差した後で西武新宿線の線路下を流れていました。今でもその名残として、線路が橋梁になっていて、「第5妙正寺川橋梁」という名前が見られます(井草川は妙正寺川に合流していたので、橋梁名も妙正寺川にしたのかもしれません)。



四宮坂下から1ブロック西側から坂が上がっています。



4.こども坂

こども坂は長さが約180mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂下付近にある区立の四宮森児童館に因んで名付けられました。児童館は四宮森公園の北側に隣接しています。



四宮森児童館の手前には井草川遊歩道が東西に延びています。遊歩道は児童館の先で向きを変え、先ほど通った道路と交差しています。猫ちゃんもお散歩中です。私が気になるのかな?



こども坂の坂上は四宮集会所前交差点となります。でも、どこに集会所があるのか分かりませんでした。交差点から1ブロック西に進んだところに四宮公園前交差点があります。四宮公園は四宮森公園とは別の公園で、交差点角に面しています。



四宮公園前交差点から北向きに擂鉢状の坂が下っています。

5.北向き坂

北向き坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂名は、北向きの坂だからという安直な理由ではなく、この場所から北斗七星が美しく見えるということに因んでいます。ちなみに、どの季節にも関わらず星を楽しむ際は正確な「北」の方角を教えてくれる北極星を見つけるのがポイントです。北極星が見つかれば、様々な星座を見つけることが容易になります。その北極星は北斗七星を基準にすれば簡単に見つかります。北斗七星のひしゃくの先にあるふたつの星の間隔をひしゃくの先端から5倍に延ばしたところに北極星が位置しています。つまり、この場所は天体観測に適しているということです。



北向き坂の反対側の坂上から1ブロック西に進んだところから南に向かって坂が下がっています。坂下には上井草向山公園があり、北向き坂の擂鉢の底と同じに高さに相当します。



6.すみれ坂

すみれ坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂道に野菫(スミレ)が咲いていることに因んでいます。私は見かけませんでしたが。。。


以前は植栽の中に坂名を記した標識が立っていたそうですが、見つかりませんでした。


上井草向山公園の南側を回り込んだところから、すみれ坂と並行して坂が上がっています。

7.広坂

広坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名は、道幅が5mの広い坂道ということに因んでいます。あまりにセンスがない名前ですね。



広坂の中程から1ブロック西に進んだところから南に向かって坂が下っています。

8.お見合い坂

お見合い坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。坂名は、お互いに向こうから来る人が遠望できることに因んでいます。真っ直ぐな坂ですからね。



お見合い坂の坂下から1ブロック西に進んだ上井草二丁目交差点から北に向かって坂が上がっています。

9.秀五郎坂

秀五郎坂(ヒデゴロウザカ)は長さが約130mほどの緩やかな坂です。坂名は、昭和十年にこの周辺の道路整備を行なった旧井荻村の村長の内田秀五郎氏に因んでいます。



秀五郎坂の坂上から1ブロック西に進んだところから南に向かって坂が下っています。

10.長坂

長坂は長さが約270mほどの緩やかな坂です。坂名は、この周辺で一番長い坂ということで名付けられました。



長坂の坂下から1ブロック西に進んだところから北に向かって井草中学校の東脇まで坂が上がっています。



11.ころころ坂

ころころ坂は長さが約270mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂下の近くに「どんぐり山公園」があることに因んでいます。「ドングリころころ」といいますからね。井草中前交差点に角に千川上水を偲ぶモニュメントが造られています。

千川上水忌要

元禄九年千川村太兵衛、徳兵衛等によって開削された千川上水は二百七十一年の久しきに亘って江戸市民の貴重な生命の源泉であったが、近代都市文化の発達は遂にこの由緒ある水流の存在を許きなくなった。かくて昭和四十二年千川上水は井草地区内からその風情にみちた姿を消した。ありし日その清流に影を宿した数々の草と木のいのち悲しく転た無情の感を禁じ得ない。よってこの流れの畔から、櫻、むらさきしきぶ、さいかちの樹木を請うて此処井草中学校の校地に移植し、一塊の千川の土と一掬(いっきく:水などを両手ですくうこと)の千川水をそそいではるかなる懐古のよすがとなす。

   千川の水消ゆるとも姥きくら
      かげを伝えてよろず代に咲け
         丁末春日 第四代校長記

創立五十周年を記念し、改修す。




井草中学校の北側に沿った歩道に生け垣が続いています。

かみいぐさ雑木みちプロジェクト
雑木の株立ちによるまちなみづくり

この歩道に植えられている樹木は、それぞれ一つの根元から複数本の幹が立ち上がっています。この特徴的な樹形を、株立ち(かぶだち)といいます。上井草一帯が近郊農村だったころ、この地域では藍・独活(ウド)・小麦・野菜などの農産物とともに、薪の生産が行われていました。どんぐり山公園、四宮森公園、瀬戸原公園などに現存するクヌギ・コナラを中心とする雑木林はそのなごりです。木の畑だった雑木林は8年〜15年周期で伐採されました。残った根株から生じる複数本のひこばえ(樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと)が成長すると、株立ちの樹形となります。樹木の再生力を利用するこの管理方法は萌芽更新(ほうがこうしん)と呼ばれ、日本各地の里山の暮らしにおいても行われてきました。株立ちは一株がすなわち小さな林です。道沿いの各家庭が雑木の株立ちを植えることで、まちなみにみどり豊かな奥行きと連続性が生まれ、まちが一つの庭のようになることを期待しています。




井草中学校の西側の生け垣に沿って坂が下っています。生け垣の間には何本かの桜の木が植えられています。桜の花は少し残っていますが、季節は青葉の候に移ろいつつあります。



12.桜坂

桜坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。坂名は、井草中学校の西斜面に山桜の木が数本植えられていることに因んでいます。



桜坂の坂下から1ブロック西に進んだところから、東京都水道局上井草給水所の東脇に沿って北に向かって坂が上がっています。

13.茅坂

茅坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。坂名は、昔は茅場だったことで茅坂と呼ばれましたが、現在は茅場の痕跡は残っていません。



茅坂の坂上から1ブロック西に進んだ上井草給水所前交差点から、給水所の西脇に沿って三谷小学校の西側まで擂鉢状に坂が下っています。



14.道灌坂

道灌坂は長さが約270mほどの緩やかな坂です。交差点先で道灌坂と交差する井草川遊歩道付近を底にして坂は下りから上りに転じています。坂名は、現在は暗渠になっている井草川に架かっていた道灌橋に由来します。井草川遊歩道を東に少し進んだ左手に道灌公園があり、公園の脇に道灌橋跡の石柱が建っています。



三谷小学校の南西角から1ブロック西に進んだところから、北に向かって坂が上がっています。

15.馬場坂

馬場坂は長さが約270mほどの緩やかな坂です。馬場坂の中ほどで交差する井草川遊歩道付近を底にして坂は下りから上りに転じています。坂名は、坂の左手にある都立農芸高等学校の馬術部の馬場に由来します。



早稲田通りの杉並工業高校南交差点から北に向かって擂鉢状に坂が下っています。

16.たぬき坂

たぬき坂は長さが約400mほどの緩やかな坂です。たぬき坂の中ほどの都立杉並工科高等学校付近で坂は下りから上りに転じています。坂名は、「田抜け」が転じて「たぬき」になり、坂名になったといわれています。杉並区でも緑の多いこの地域では、たぬきを見かけることもあったそうです。



たぬき坂の坂上から1ブロック西に進んだところから、南に向かって短い坂が下がっています。坂の中ほどからは上りに転じています。



17.西坂

西坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。坂名は、西の山にかかる坂に因んで名付けられました。坂の右手に西山家の屋敷があります。邸内には巨木が生い茂り、杉並区で一番深い森になっています。



屋敷内には穀櫃という納屋が建っています。今までは邸内には入れませんでしたが、今日はたまたま植栽の手入れ中で穀櫃を間近に見ることができました。ちなみに、穀櫃とは「農家の穀類を保存する板倉」という意味です。

西山家穀櫃

この穀櫃は、飢饉等の民間貯穀設備として、天保年間・旧上井草村字谷頭の西山助右衛門が作ったものです。内部は桁行が三等分に仕切られ、天井の半分が上げ蓋式で施錠ができ、土台上部には取り出し口があります。当時は、拠出穀物を貯える村共用櫃と個人用とがありました。この西山家所有の穀櫃は、製作年等の墨書銘があり、ほぼ完全な形を整えた区内唯一のもので、江戸時代の農村杉並の生活の様子を知る資料として貴重なものです。




西坂の坂上から西に少し進んだ左手に坂が下っています。坂下は早稲田通りに突き当たっています。



18.縄文坂

縄文坂は長さが約260mほどの緩やかな坂です。別名を「どき坂」といいます。坂名は、この付近で井草式土器が出土したことに因んでいます。別名の「どき坂」は、井草遺跡から土器が出土したことに因んでいると思われます。杉並工業高校の校庭のフェンスの前に井草遺跡の標識が立っています。

井草遺跡

井草遺跡は、上井草四丁目を中心に広がり、井草川(現在は暗渠)流域の台地上に位置している、旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡です。昭和十五年(1940年)、初めての発掘調査が行われました。この時、後に地名を冠し「井草式土器」と命名された縄文土器群や石鏃・石斧が発見されました。この土器群は関東ローム層(赤土)と上層(黒土)との境目付近で発見され、当時は最古の土器として注目されました。井草式土器は、口縁部が外に反った丸底の深鉢土器です。撚った紐を巻き付けた棒状の道具を使い、転がし押し付けた「撚糸文」を、土器の縁から全面に付けるのが大きな特徴です。このような特徴を持つ井草式土器は、縄文時代早期前半(約九千年前)を代表する土器型式として広く知られるようになりました。土器型式命名の契機となった遺跡を考古学では「標式遺跡」と呼びますが、井草遺跡は、考古学史に残る区内で唯一の標式遺跡です。




早稲田通りを西に進むと直ぐに井草八幡前交差点に出ます。青梅街道に面して井草八幡宮の大鳥居が建っていて、その脇に井草八幡宮の由緒を記した案内板が立っています。建物の配置が一目で分かりますね。

井草八幡宮 由緒

当宮の鎮座地は武蔵野台地の真っ只中にあり、当社の境内及び周辺の地域からは、石器時代の住居跡が数多く発見され、種種の土器や石器が発見されています。中でも縄文中期の釣手型土器(当社所蔵・重要文化財)は、儀式に用いられたもので、当社が古代の聖地の上に位置し、古くから崇めれて来たことが分かります。文治五年(1189年)源頼朝が奥州藤原氏征討の途次、当社に祈請しましたが、この年は干天続きで水が涸れていました。伝説では、頼朝自ら弓で地面に穴を穿ち、七度目にしてようやく水が湧き出しました。水の出があまりに遅かったことから、この湧水は「遅の井」と名付けられました。江戸時代までこの地は遅野井とも呼ばれ、当社は遅野井八幡宮と呼称されていました。

源頼朝の来参により、春日社をお祀りしていた当社は八幡宮としての形態を整えていきます。文明九年(1477年)には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。江戸時代に至って三代将軍家光は朱印地(六石)を寄進し、以後江戸末期の万延元年(1860年)に及んでいます。地頭の今川氏も深く当社を尊崇し、氏堯が寛文四年(1664年)に改築した本殿は、現存する杉並区最古の木造建造物であり、拝殿奥の覆殿に納められています。明治の制では、村社と定められ、昭和三年郷社に、昭和四十一年には別表神社に列せられ今日に至っています。十月の例祭日には、三年に一度神幸祭、五年に一度古式流鏑馬神事が行われます。




以前訪れた際には鍵がかかっていて入れなかった富士塚を見ることができました。

富士塚

こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する代参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創始され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」(”を”に○を講)という講が戦前まで続いていました。富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすように造られ、現在も都内に約五十ヶ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。




四小前交差点を左折し、善福寺川を越えて地蔵坂交差点まで南下します。



地蔵坂交差点から善福寺川に向かって坂が下っています。



19.地蔵坂

地蔵坂は長さが約180mほどの緩やかな坂です。別名を「御立場坂・寺分坂」といいます。坂名は、かつて坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩などが祀られていたことに因んでいます。坂の中ほどの荻窪中学校の前に案内板が立っています。

地蔵坂

この坂道は、別名「御立場坂」・「寺分坂」とも呼ばれていますが、一般的には地蔵坂と呼ばれています。名称の由来としては、かつて坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩や庚申塔、馬頭観音などが祀られていたことにあるようです。いつ頃から地蔵坂とよばれていたかは不明ですが、舟形を呈した享保十七年(1732年)銘の地蔵菩薩があることから、江戸時代中期以降と考えられます。また、地蔵菩薩は北を向いていたところから、「北向地蔵」とも呼ばれていたそうです。他には、貞享二年(1685年)銘、宝永二年(1705年)銘、正徳六年(1716年)銘の庚申塔、文政七年(1824年)銘の馬頭観音などがありました。この馬頭観音には、「東江戸・西ふちう」と彫られており道標の役目をしていました。近代になってからは東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の三郡の境に立てられていたため、「三郡境の馬頭様」と呼ばれていました。現在これらは、観泉寺(今川二丁目十六番一号)に安置されています。また、地蔵坂交差点に近い台地の先端部付近は地蔵坂遺跡と呼ばれ、昭和五十六年〜五十七年に実施した発掘調査では、旧石器時代(約一万八千年〜二万七千年前)のナイフ形石器やスクレーパー(掻器)など多数の石器類と礫群(バーベーキューの跡)、縄文時代早期(約九千年前)の土器や石器が多数出土しており、住居跡や炉穴(屋外炉)も検出されています。特に、荻窪中学校の校庭から発掘された縄文時代早期前半の井草期の住居跡は、区内で初めて発見されたもので、考古学的にも大変貴重な資料です。




今日のゴール地点の西荻窪駅に着きました。



ということで、杉並区で最初の「上井草・下井草・善福寺コース」を歩き終えました。井草地区には新しい坂が密集していますが、残念ながら坂名の由来を記した案内柱は殆ど見かけませんでした。大田区のように坂下・坂上に設置してとは申しませんが、せめて1個でもあればと思います。





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