杉並区(西荻窪・久我山・成田西コース)
踏破記
今日は前回の上井草・下井草・善福寺地区に引き続き、西荻窪・久我山・成田西地区の坂を巡ります。前回のゴール地点である西荻窪駅からスタートします。
西荻窪駅北口から北銀座通りを進み、桃井三小西交差点の次の交差点を右折します。西荻わかば公園の前から何ということもない坂が下っています。
- 20.豆腐屋坂
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豆腐屋坂は長さが約50mほどの殆ど傾斜のない緩やかな坂です。坂名は、付近に豆腐屋があったわけではないのですが、古くからこの坂名で呼ばれていました。
豆腐屋坂から東に進んで西荻北一丁目東交差点を左折して八丁通りに入ります。そのまま北に進みますと善福寺川に架かる神明橋に出ます。
神明橋を渡ったところから坂が上っています。
- 21.薬罐坂
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薬罐坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。昔、雨の夜毎に坂の中ほどに薬罐が転がっていたという不思議なことがあり、それに因んでこの坂名が付けられたといわれています。坂上の交差点付近に案内板が立っていたとのことですが、どこを探しても見つかりませんでした。坂学会のHPからの転載です。
薬罐坂
この坂道は薬罐坂と言われていて、「豊多摩郡誌」(大正五年刊)には、「大字上荻窪本村に俗称薬罐坂と呼べる傾斜路あり。昔雨の夜毎に坂の中程に薬罐の転がり居れる奇怪事ありてこの名を得たるよし。雨の深夜など、今も時として薬罐出ずるなど云うものあり。」と書かれています。今でも地元には次のような言伝えが残されています。雨のある夜、八丁通りで一杯飲んで家に帰る途中、ほとんど人家のない下り坂を歩いていると、真赤に焼けた大きな薬罐が道路のまん中に転っていた。一杯ひっかけて良い機嫌なので、じゃまなその薬罐を足でけとばすと、真赤な薬罐はころころと下り坂を転がり落ちていった。この話が広まり、その後も何人もの人が焼けて真赤になった薬罐を見たということから、誰言うともなしに薬罐坂の呼び名がついたと言うことです。今とはちがい、交通の開けていなかった区画整理前の薬罐坂は両側に樹木の繁った薄暗い道幅も狭い急坂で、大八車などを引いて通るには大変な坂道でした。そのさびしい坂には狐狸のたぐいがすんでいて、いたずらをしたということがこのような伝説を生みだしたのかも知れません。通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。薬罐坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
神明橋北詰から善福寺川に沿って置田橋まで進み、左折して上荻本町通りに入りますと、直ぐ先に荻窪の蕎麦の名店「本むら庵」荻窪本店があります。本むら庵の前付近から左右に曲がりながら坂が上がっています。坂は途中で二股になっていて、左側の坂を上がった辺りが坂上になるようです。
- 22.兼吉さん坂
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兼吉さん坂は長さが約160mほどの緩やかな坂です。昔、鳶職の小張兼吉さんの前を通る坂だったことに因んで坂名が付けられました。
置田橋のひとつ先の本村橋の西詰から左手に坂が上がっています。
- 23.稲荷坂
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稲荷坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。昔、坂付近にあった穴稲荷に因んで坂名が付けられました。
稲荷坂の坂上から南に向かいますと、広大な神明天祖神社に突き当たります。神明天祖神社は、戦国時代に伊賀国(現在の三重県)の農民が此の地に移住し、伊勢大明神を祀ったのが起こりであると伝えられています。
神明天祖神社
当社は旧上荻窪村字原に鎮座し、祭神は天照大御神です。荻窪村が中世に村をつくっていたことは文書や板碑によって知られ、正保年間(1644年〜1647年)に上・下荻窪村に分かれたといわれています。当社の創建は詳ではありませんが、天正十二年(1584年)の検地の際には、すでに小祠があったと伝えられており、それ以前と思われます。その後、この地域は徳川御三家の一つである紀州徳川家の領地となり、家臣の水刀谷氏が社殿を興したといわれています。江戸時代の当社は神明社と呼ばれ、付近一帯が神明と呼ばれるのは、この社名に由来するものです。また、かつて字伊勢前といわれたのも、当社の祭神が伊勢神宮と同一であることによるものです。当社の東側一帯は、昔周囲に桜の木を植えた馬場があり、桜の馬場と呼ばれ、昭和初年まで名残りの桜の木があったといわれています。明治維新後、当社は荻窪八幡神社の境外攝社となり、明治十五年には社殿を修築しています。ついで近年に至り、社殿・神楽殿・手水舎などの改修築、社号標・燈篭・鳥居の奉納、参道の整備がおこなわれ、今日の境内の景観をうるに至りました。祭日は十月十五日です。
次の坂は稲荷坂から南西にかなり離れたところにあります。神明天祖神社から八丁通りを南に進み、神明通りを越えて住宅地の路地を進みます。五日市街道・井ノ頭通りを渡って更に住宅地の路地に迷い込みます。地図と今いる場所の番地の標識を見比べても自分がどこにいるのかサッパリ分かりません。迷いに迷って目的の坂を見つけるまで随分と時間がかかりました。見つけた途端に以前歩いた記憶が蘇ってきたんですけど。
- 24.笠森坂
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笠森坂は長さが約50mほどの短い緩やかな坂です。坂名は、坂上にある小作家の屋敷神の笠森稲荷に由来しています。屋敷神ですので、入口はなく、家人以外は参拝できません。
坂からはフェンスの内側に社らしきものが見えます。
案内柱はありませんが、民家の外塀に標識が付けられています。久我山では通り名を記したこのような標識があちこちで見られます。標識は地元防災避難路と通り名の表示を兼ねています。別の通りにも標識がありました。簡単な説明も添えられていますね。ちなみに、開閉鉄塔とは、複数の送電線を切り替えて接続する機能を鉄塔に持たせたものです。
かさもり坂 Kasamori−saka
笠森稲荷の前の坂
開閉塔通り Kaiheito−dori
東京電力の開閉鉄塔のある道
笠森坂の坂下の二股路の間に庚申塔が建っています。
享保七年銘 道標付庚申塔
この庚申塔は、道標付庚申塔として、区内で最も古く、享保七年(1722年)に造立されたものです。庚申信仰は「長生きするためには、庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始ったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して、庶民の間にひろまりました。江戸時代には、ここに見られるような青面金剛を本尊として邪鬼を踏まえ、不見・不聞・不言の三猿、二鶏等が彫られるようになり、石塔を造立し、悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。この庚申塔は、道標として側面に、「これよりみぎいのかしら三ち」・「これよりひだりふちう三ち」と刻まれ、かっては、井の頭弁財天信仰者の道しるべとなっていたように思われます。また、この庚申塔は、当初からこの分岐点に造立され、願主名も列記されており、近世における久我山の歴史や交通路を知るうえで、一つの重要な資料といえます。以上のことから、この庚申塔は、杉並区有形文化財として登録されました。今後とも、このような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。
久我山駅にやってきました。「山の付く街はいい街」といいますが、東京で山がつく地名には、高級なショップが並ぶ代官山、城南五山の池田山・島津山・花房山・御殿山・八ツ山、住宅地の浜田山・西郷山・大岡山などが挙げられます。久我山もローカルではありますが、山の手の住宅地として知られています。
そんな住宅地の久我山の唯一の表玄関である井の頭線久我山駅北口から北に向かう短い坂に沿って商店街が続いています。
- 25.御女郎坂
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御女郎坂(おじょろうざか)は長さが約60mほどの短い緩やかな坂です。別名は「おじょろ坂」といいます。坂名の由来は不明です。久我山は戦前は田畑の広がる田園地帯でしたが、戦後になって徐々に駅を中心として新興住宅地が広がり、農家が急速に減少したために昔からの伝承が失われて御女郎坂の言い伝えも消え去ってしまったのでしょう。ちなみに、御女郎坂の坂下で交差する通りは、「馬車みち」と呼ばれる府中街道の旧道になります。
久我山駅は神田川に面しています。神田川に沿って宮下橋まで進みます。
宮下橋の北詰から久我山稲荷神社の西側に沿って坂が上がっています。
- 26.元坊坂
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元坊坂は長さが約90mほどのやや急な坂です。坂名の由来は、昔、坂の付近に光明寺というお寺があり、もと坊(住職が住む寺院の建物)があったことに因んでいます。その後、光明寺は火災で移転し、幕末には廃寺となりました。
杉並区の散歩道でもお邪魔したのですが、折角なので久我山稲荷神社に再訪します。久我山稲荷神社の創立年代は明らかではありませんが、古来より久我山村の鎮守として祀られていました。「新編武蔵風土記稿」によりますと、別当寺は新義真言宗久盛山弥勒院光明寺(明治時代に廃寺・中野宝仙寺の末寺)でした。本殿前に鎮座する石狐は明治二十八年(1895年)に奉献されました。例年7月24日の夏祭りには、杉並区では唯一の湯立て神事「湯の花神楽」が奉納されます。また、金玉均が同地出身の「小笠原の砂糖王」こと飯田作右衛門の親を想う心に打たれて書いた手跡を刻んだ「人心同」の石碑が建立されています。約120キログラムの力石も安置され、病気平癒祈願に基づいたものとされています。元禄十六年(1703年)建立の庚申塔は養蚕の円満なることを祈願したものと伝えられています。
久我山稲荷神社
久我山稲荷神社は、「新編武蔵風土記稿」の多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社として掲載され、「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十級あり、村の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されています。創建の由来については詳かではありませんが、古来からの久我山村の鎮守で、祭神は保食命です。明治四十年(1907年)四月に字北原にあった天祖神社(祭神大日【メ】貴命)が合祀され、昭和十六年(1941年)二月に村社となりました。境内末社には八雲神社・天満天神社があります。例祭日は十月一日ですが、本社では、七月二十四日に夏祭りが行われ、「湯の花神楽」が奉納されます。湯の花神楽は、大釜に熱湯を沸かし、小笹を浸して打ち振りながら行われます。杉並区内では極めて珍しい行事で、その昔、この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し、祈願したところ、疫病が止んだという故事によるものです。境内には明治三十二年(1899年)に氏子が奉納した、金玉均(日本に亡命した朝鮮の李王朝末の政治家)の筆跡を刻んだ「人心同」の碑があります。金玉均は、久我山に生まれて幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門から、「遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不孝をわびる石碑を建ててくれ」と頼まれ、その心根に強く打たれてこの筆跡を残しました。なお、境内には元禄十六年(1703年)造立の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられています。また、昭和五十七年(1982年)に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。
以前お邪魔した際には、境内の囲いの中に大きな釜が据えられていましたが、今日は気が付きませんでした。見逃したのかな?この大釜で湯を沸かし、小笹を浸して「湯の花神楽」が奉納されていたのですね。
湯の花神楽について
この久我山稲荷神社には古くから七月二十四日に八雲大神をお祀りし、湯の花神楽を奉納して健康を祈願する夏祭が行われて参りました。これは昔此の里に疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。困り果てた人々は氏神様に集まり御神楽を奉納し御祭を致しました所、疫病を防ぐ事が出来ました。喜んだ人々は毎年このお祭を行って参りましたが、明治二十年代に一度中止した事がございます。この年再び疫病が蔓延し、驚いた人々はその後絶やす事なく此の夏祭を行って参りました。此の時行われます湯の花とは、湯立行事と申しまして、大釜に熱湯を仕立て小笹をもってその湯の滴を全身に浴し、誠心誠意を神明に誓うものでございます。古くは盟神探湯と申しまして、熱湯を探り正邪を神前に証した事から起ったもので御座います。尚当社では御神楽の最後に神前にお供えした御餅を撒き、此のお祭の行事を終ります。
左の写真は杉並区の散歩道でお邪魔した際に撮ったものです。
境内の一画に大きな石碑が建っています。案内板には、「人心同」の碑と書いてあります。「人心同」とは、体は遠く離れていても心は同じという意味です。即興の文とは思えないですね。
「人心同」碑
この石碑には、日本に亡命した朝鮮李王朝末期の政治家である金玉均が小笠原で友好を結んだ久我山出身の飯田作右衛門に頼まれて揮毫した漢文が刻まれています。久我山と金玉均との繋がりから生まれた石碑には次のように書かれています。
同心人
余至小笠原島与飯田作右衛門君結識君天性至
孝間里称之君嘗言我生幼而多病成童以来従事商
務無一所出現寄寓于此島然有老父年踰七旬家住東
京之武藏国遠不能晨昏侍陪只切堂雪之私言念鞠
育劬労之恩昊天罔極思欲竪一碑於老父所居之地銘
載吾不孝之罪以戒示子孫君其為我記之余實感其言遂即
席書此以贈
戊子七月上(さんずいに幹:カン:【上澣】とは、月の初めの10日間の意味で、上旬のこと)金玉均
明治廿一年書
明治三十三年飯田作右衛門建設
【和訳】
私(金玉均)は小笠原に来て、隣近所から君子と評される飯田作右衛門君と知り合いになった。彼は幼い頃には病がちで、また若くして家を出て商売を行ったため、親孝行もできず、今は小笠原島に身を寄せている。年老いた父親は、遠い武蔵国に住んでいて、そばにもいられず、ただ気持ちを表すのみである。報いたくても報いきれないほど大きな親の恩のため、老父の住む所に自分の不孝を記した石碑を立てて、子孫への戒めにしたいから碑文を書いてくれと頼まれた。私はその心根に強く打たれ、その場でこの文を書いて贈る。
境内には力石の碑もあります。力石は多くの神社に奉納されていますが、今まで見たのは全て地面の上に並べられていました。こんな立派な石の台座に乗せられている力石は初めて見ました。表面には、「三十二貫目 ?太郎」と書かれています。
力石(ちからいし)
明治、大正時代、村の若者がこれを担ぎ上げ、力を競って楽しんだものです。石の表には、その重さと担ぎ上げた人の名が刻んであります。古来病人ある時、これを持ち上げれば全快するとした「石占い」に由来するとと云われています。この石の重さは、百二十キログラム有ります。
宮下橋の南詰から元坊坂と逆方向に、人見街道に向かって坂が上がっています。
- 27.大熊坂
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大熊坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、かって坂上の東側に大熊家の屋敷神の「大熊稲荷社」があったことに因んでいるといわれています。
人見街道を東に進み、環八から五日市街道に入ります。善福寺川に架かる尾崎橋の手前の成田西児童館前交差点から鎌倉街道に入ります。杉並第二小学校と宝昌寺の間に坂が下っています。
- 28.三年坂
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三年坂は長さが約95mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は不明です。坂上付近にあるバス停の表示は「三年坂」となっています。現在、杉並第二小学校は建て替え中ですが、以前は小学校敷地の南西角に案内板が立っていたそうです。
三年坂
この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが、名称の由来ははっきりしていません。三年坂と呼ばれている坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり、坂名の由来について様々に言われているようです。東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は旧東京市内も六か所ほどあるようです。いずれも地域の境界にあり、昔は急坂で寺院や墓地がそばにあったり、または寺院から見えるところにある坂ばかりです。この坂で転んだものは三年きり生きられないとか、三年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂もほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。明治時代のころの地図でみますと、崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉、二小の崖に挟まれた昼でも暗い気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。そこで、人々は坂の往き来に用心が必要だと言うことから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。通称地名には昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
尾崎橋は善福寺川公園のほぼ中央に位置しています。善福寺川の両岸には緑道が整備され、緑に覆われた恰好の散歩道になっています。
尾崎橋を渡った直ぐ先の文武館道場前で左折しますと、路地の先が二股に分かれています。二股路の分岐点には、念仏講中が建立した地蔵菩薩と宝暦十年の銘が刻まれた馬頭観音が祀られています。
二股路の左側の道は「馬場みち」と呼ばれた古道です。
民間信仰石塔
ここに建立されている石塔は、向って右から元禄十一年(1698年)十一月二十日銘の地蔵塔、宝暦十年(1760年)十月吉日銘の馬頭観音塔、宝暦三年(1753年)十月吉日銘の地蔵塔です。これらの石塔には、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」等と記され、ここ武州多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世での往生安楽を願い、講を組織し、建立したものであることがわかります。地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村の安全を守護する菩薩とされ、村の境や路傍又は辻に多く建立されました。馬頭観音は、頭に頂く宝馬が四方の四魔を馳駆することを表わしていますが、そのために馬の守護神と考えられ、路傍や馬捨場などにも建立されました。石塔の南側の道路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の道路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。これら石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和十五年頃までは、毎月この場に集い、念仏供養を行っていましたが、現在では毎年十月十五日に供養会を盛大に行っています。
石塔の右側にも坂が上がっています。
- 29.白幡の坂
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白幡の坂は長さが約25mほどの緩やかな坂です。旧五日市街道の坂で、坂名の由来は旧字名の成宗村白幡に因んでいます。
若葉ですっかり緑濃くなった善福寺川緑道を進んで和田堀公園に向かいます。和田堀公園に隣接して武蔵野園があります。食堂を併設した釣り堀です。コイやフナ、金魚など5つの釣堀があり、自分のレベルに合わせて選べます。餌と貸し竿代込みで1時間700円と料金もお手頃です。釣った魚は有料で持ち帰ることが出来ます。
松ノ木運動場の東側を坂が上がっています。
- 30.山王坂
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山王坂は長さが約50mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、かってこの台地に山王社の小祠があったことに因んでいます。
今日のゴール地点の永福町駅に着きました。
ということで、杉並区で二番目の「西荻窪・久我山・成田西コース」を歩き終えました。次は、杉並区で最後の「堀之内・和泉・和田・高円寺コース」を歩きます。
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