杉並区(堀之内・和泉・和田・高円寺コース)


踏破記


今日は前回の西荻窪・久我山・成田西地区に引き続き、杉並区最後の堀之内・和泉・和田・高円寺地区の坂を巡ります。前回のゴール地点である永福町駅からスタートします。



永福町駅の改札口はホームの上の2階にあります。改札口の横の壁に昭和三十五年頃の駅前の風景を撮した写真が貼られています。木造バラックのような駅舎ですね。

永福町駅と文化人

永福町駅は昭和八年、帝都電鉄の渋谷−井の頭駅間の開通(翌九年に吉祥寺駅まで延伸)と同時に開設されました。当時のことを洋画家の中川一政は、随筆「永福寺雑記」で「私の家から二町程裏手、廃道になった櫟林の中の所沢街道を出た所に駅が出来、永福町と云う名が付いた。」「新しい電車が出来て東京へ出るに汗をかゝないでも済むようになった。それ迄は京王電車の下高井戸へ十町余も歩いて行ったのである。」と記しています。そして、当時永福寺(町?)にはアトリエが6つもあり、そのなかの1つは国木田独歩の次男、榎本武揚の孫にあたる佐土哲二のアトリエで、他の4つも帝展関係の彫刻家のアトリエだったと記しています。佐土は美術学校(芸大)の彫刻科を主席で卒業した彫刻家で、中川邸によく出入りしていたとも記しています。その後も、永福町には中川の義弟で、演出家の千田是也、画家の池部鈞とその息子で俳優の池部良、仏文学者・詩人で慶応義塾長の佐藤朔、作家・詩人の中井英夫、俳優の森光子など数々の文化人が住まいを構えました。




マントを着用した女性の彫像も建っています。雰囲気がガンジー像に似ているような。。。

彫刻家 佐藤忠良
−永福町にアトリエを構えて−

佐藤忠良(1912年〜2011年)は、1981年日本人としては初めて、パリのロダン美術館に招かれ個展を開いた、日本を代表する彫刻家です。西洋から入った近代彫刻の中で、身近な庶民を題材に生命感溢れる人間像を創り上げ、真の日本人を表現した作家と評価されています。1959年、永福町に外光を取り入れた、天井の高いアトリエを構えました。以来、ほぼ終日このアトリエで仕事をすることを喜びとしてきました。「自然が僕の先生」という佐藤は、周辺のスケッチにもよくでかけました。また、永福町の住人として、この町の人々との暮らしを大切に考えた佐藤はお正月には手書きの年賀状を、自転車で自らご近所に配っていました。「一人の人間として普通に暮らし、いろいろ幅広い勉強をして、コツコツ叩き上げる誠実な努力の積み重ねから、最後にしたたり落ちるのが真の個性だ」という信念そのままに生きてきました。その清廉な人柄を敬愛して人々は、この彫刻家を「忠良(ちゅうりょう)さん」と呼んでいます。忠良さんを慕って大勢の人が永福町のアトリエに集います。佐藤忠良の信念から生み出された数々の名作は、全国の美術館初め、街角や丘の上や川べりに凛とした姿で立っています。ここに立つのは「冬の像」、佐藤73歳、彫刻家として最も充実していた時代の作品です。




永福通りの永福町駅と神田川の中間地点に永福稲荷神社があります。永福稲荷神社は、享禄三年(1530年)に永福寺の開山秀天和尚が永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神を勧請したとされています。当初は寺の鎮守として祀られていましたが、寛永十六年(1639年)の検地の際に永福寺村持ちの鎮守になったといわれています。明治維新後に永福寺から分離され、明治十一年(1878年)には社殿を町全体を守るように西向きに建て直されました。

永福稲荷神社

当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)と記載があり、「上屋二間二十一間半、内二小祠ヲ置、拝殿三間二十二間、社前二鳥居ヲ立、村内ノ鎮守ナリ」と紹介されている旧永福寺村の鎮守で、祭神は宇迦之御魂大神です。社伝によれば、享禄三年(1530年)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、京都伏見稲荷大社より宇迦之御魂大神を勧請創建し、寛永十六年(1639年)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれています。明治維新後、永福寺から分離して一社となり、今日に至っています。境内末社として、天王社・白山神社(以上合殿)、白鳥神社(一殿)、及び明治四十年(1907年)十月に同村字水久保にあった北野神社(祭神・菅原道真公)が合祀されています。また境外末社には、御嶽神社(永福一丁目39−17)があり ます。




永福稲荷神社の直ぐ先に永福町の地名の由来となった永福寺の参道入口があります。ちなみに、永福町はかっては「永福寺村」と呼ばれていました。

永福寺

万歳山永福寺は曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられています。寺伝によれば、開創は大永二年(1522年)で、開山は秀天慶実と伝え、永福寺村の村名もこの寺名に由来します。永福寺の名は、永禄二年(1559年)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える時期に近い頃のことであったと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞は、当寺の住職を頼ってこの地に帰農して永福寺の檀家となり、村の開発につとめたといわれます。中興開基は幕府御馬預役の加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としました。当寺は、文禄二年(1593年)・元文三年(1738年)・昭和二十年(1945年)と三度の災害に遭いましたが、天正十六年(1588年)の「検地書出」をはじめ、二十数点の文書が無事保存されており、永福寺村を知る貴重な資料となっています。また、その他の文化財も多くみられ、境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳五年(1715年)銘の地蔵菩薩石像等があります。寺の西門脇には、正保三年(1646年)・天和元年(1681年)銘の庚申塔、元禄四年(1691年)銘の地蔵石像が安置されています。




神田川に架かる永福橋にやってきました。



永福橋を渡りますと、ファミマの角から杉並消防署永福出張所の前を通って永昌寺付近まで坂が上がっています。このファミマで何本のガリガリ君を買ったことか。



31.永泉寺坂

永泉寺坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。坂名は、昔永泉寺が坂付近にあったことに由来しています。尚、永泉寺は後に坂上の永昌寺と合併し、寺は消滅しましたが、「永泉寺緑地公園」に寺名が残っています。

永昌寺

当寺は、天長山と号す曹洞宗の寺院で、本尊は木造釈迦如来坐像です。開創年代は明らかではありませんが、「続御府内備考」及び寺伝によると、寛永元年(1624年)四月、江戸四ッ谷塩町三丁目(現新宿区愛住町)に開創したといわれています。開山は、当寺の本寺である龍昌寺の五世明岩舜洞で、寛永十二年(1635年)七月に亡くなっています。明治四十三年(1910年)、下高井戸二丁目にあった永泉寺を合併し、当地へ移転してきました。合併に際し、永泉寺に伝来する玉石薬師と呼ばれる玉石も合祀しました。この玉石は、玉川上水の永泉寺付近工事の際に土中より発見され、その光沢の中に薬師像が浮き出たといわれています。永泉寺は工事の無事竣工を念じ、この玉石を供養したことから、近隣の信仰を集め、これに因み丸薬も作られたと伝えられます。昭和二十年(1945年)五月、永昌寺は戦災に遭い、この玉石は、本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、今なお、大切に安置されています。また、当寺の門前と境内には、江戸時代に建立された四基の庚申塔と二基の地蔵塔があります。




神田川に戻って下流方向に緑道を進みます。この辺りの神田川はかなり蛇行しています。対岸の奥には都立永福学園の長い建物が見えます。



明風橋から約50メートル程ほど神田川に沿って北東に歩き、四つ角で左折すると民家の中から坂が上がっています。



32.法印坂

法印坂は長さが約80mほどの緩やかな坂です。坂名は、かって坂上付近に法印住職のいた日照寺というお寺があったことに由来します。坂上の住宅地の一角には小さなプレートを掲げたダンススタジオがあります。ダンスといっても、EXILEのような踊りではなくタップダンスの教室です。主宰者&インストラクターは日本タップダンス協会の理事を務める景山恵さんです。タップダンスはアメリカ映画の「Singin’In The Rain」なんかで観たのですけど、日本にも本格的なスタジオがあるんですね。



井の頭線が神田川と交差するすぐ先に蔵下橋が架かっています。そこから左手に井の頭線と並行して坂が上がっています。坂は途中で鍵型に曲がっています。



33.本村坂

本村坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名は、旧字本村にあった梅田家(かって名主を務め、屋号を本村といった)の脇の坂であったことに因んでいます。ちなみに、鍵型の角地に建つマンションは「本村マンション」という名称です。梅田家と関係があるのかどうか分かりませんが。



蔵下橋に戻り、神田川を渡ります。そのまま道なりに進みますと、T字路の先から緩やかな上り坂になり、その先で道路は二股に分かれています。左側の道路を少し進んだ先で右側に大きく曲がり、井ノ頭通りに向かって上がっています。



34.地蔵坂

地蔵坂は長さが約250mほどの緩やかな坂です。



坂名は、坂上にある地蔵堂に因んでいます。



井ノ頭通りに出て神田川の方に戻ります。井ノ頭通りの脇には水道管を埋設した水道局の敷地が真っ直ぐに延びています。井ノ頭通りは、境浄水場(武蔵野市)と和田堀給水所(世田谷区)をほぼ直線で結んでいる送水管の上に造られています。この水道施設は大正時代に整備されたもので、その後送水管は車も通れるよう補強され、道路には井ノ頭通りの愛称が付きましたが、かつては「水道道路」と呼ばれていました。何故ここに井ノ頭通りと別に水道局の敷地があるかというと、推測ですが、この区間は井ノ頭通りが擂鉢状になっていて高低差があり、それを回避するために道路横に水平な敷地を確保したのではないかと思います。



神田川を宮前橋で渡ります。すぐ先に和泉熊野神社があります。

和泉熊野神社

当社は旧和泉村の鎮守で、祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)です。社伝によれば、文永四年(1267年)に紀州(現在の和歌山県)熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安七年(1284年)に社殿を修造し、その後、北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大掛かりな改修を加えたと伝えられています。江戸時代には寛永十六年(1639年)と元禄九年(1696年)の両年に社殿の改修をおこなったことが、棟札によってわかります。「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代の当社について「除地三百坪、村ノ北ノ方ニアリ、上屋二間四方、本社も五尺四方、拝殿二間半二二間、社前二木ノ鳥居ヲ立」と述べています。現在の社殿は文久三年(1863年)の造営で、明治四年に修復が行われています。当社の境内からは、かつて縄文時代の土器・石器、古墳時代の土師器なども出土しており、古い時代から人々がこの地で生活していたことがわかります。また、境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息した時に植えたと伝えられる松の大木もそびえています。




文久三年(1863年)に造営された社殿は大木に囲まれていますが、社殿の左手に聳えるクロマツは、幹回りが3.1メートル・樹高は17メートルほどあり、樹齢は400年と推定されています。クロマツは俗に雄松と呼ばれ、赤松に比べて大形で葉は大きく、樹皮が黒褐色をおびています。近年クロマツは環境の悪化により都内では年々少なくなってきていますが、このクロマツは徳川家光お手植えの御神木とされ、古くから氏子の人々によって手厚い保護を受け、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものとなっています。



和泉熊野神社から1ブロック北側に坂が上がっています。

35.尻割坂

尻割坂(けつはりざか)は長さが約90mほどのやや急な坂です。坂名は、急坂なので力を入れて上り下りすることから、腰の筋が張るという意味の「けつはり」に由来します。



尻割坂の坂上から1ブロック北側の四つ角を右折した先に坂が下っています。



36.番屋坂

番屋坂は長さが約60mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂下に番屋橋があるところから、ある時期に番小屋があり、それに由来しているのではないかと推測されます。



神田川に架かる一本橋西詰の20mほど先から坂が上がっています。



37.いの坂

いの坂は長さが約190mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は不明です。かっては坂上の先にある徳川・島津家とも縁のある格の高い大圓寺にまで続いていた坂であったようですが、現在は平坦な坂になっています。



坂の中ほどに「東京つちや」という会社があります。運転手さんの制服や消防服、ガードマン用の制服などを製造・販売しているとのことです。普通の衣料品店には売ってないですもんね。



空を覆うように巨大な送電鉄塔が林立しています。普段はあまり空を見上げることがないので気が付きませんが、永福町には巨大な送電鉄塔が林立している場所があります。地図を見ますと、近くに東京電力の和田堀変電所があるようです。水力・原子力発電所は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置されます。また臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になります。このため、送電する際はより高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させる方法をとっています。消費地の真ん中に変電所を設けるのは、少しでも電力を無駄にしないためなのです。



井ノ頭通りの永福町駅前から方南通りに向かって約1km続く商店街は「永福北ろーど」と呼ばれます。平成二十六年(2014年)に電柱・電線の地中化と路面のカラー舗装が完了しました。確かに、上空がスッキリ見えていますね。



大圓寺は永福通りの入口近くにあるお寺です。

大圓寺

当寺は泉谷山と号する曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、慶長八年(1603年)に徳川家康が開基となって、江戸赤坂溜池のあたりに大渕寺の名で建立されました。開山は諦巌和尚(武田信玄の弟)と伝わります。しかし、寛永十八年(1641年)正月に発生した江戸の大火で諸堂を類焼し、跡地は御用地として召し上げられ、その代地として伊皿子に寺地を拝領して移転しました。そのころ、大渕寺の寺名を大圓寺に改めています。江戸で死去した薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を延宝元年(1673年)に行って以来、藩邸に隣接する当寺は、島津家の江戸における菩提寺となりました。寺内には薩摩家代々の位牌堂が設けられています。このころ、当寺に塔頭として福寿院(本尊・釈迦如来)、門能院(本尊・阿弥陀如来)の二院が建立され、それぞれ大名の保科、旗本の五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀徒として隆盛を極めました。明治四十一年(1908年)、寺院の発展をはかり、この二院の塔頭を併合して現在地に移転し、今日に至っています。境内には、石像の仁王尊や寛永二年(1625年)に芝浦の海中から出現したといわれる塩見地蔵尊石像、また島津家寄進の宝筐印塔・六地蔵尊があり、墓地には益満休之助他七十五名の名を刻んだ「戊辰薩藩戦死者墓」並びに横山安武・八田知紀等の墓があります。ほかに、当寺近辺から出土した板碑も所蔵されています。




大宮八幡入口交差点の先で方南通りから北東方向に小路が分かれ、その先に坂が下っています。

38.大聖寺坂

大聖寺坂(だいしょうじざか)は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、かって坂の中ほどに大正寺がありましたが、大正寺の本尊が大聖不動明王と称したことに因んでいます。また、八幡太郎義家が奥州で大勝利を得た帰りに通った坂ということに因んで「大勝利坂」となったとの説もあります。昔は追剥が出たと伝えられています。



大正寺があった場所は、現在は大宮小学校になっています。校門の壁は、児童が描いた巨大な壁画で埋め尽くされています。



善福寺川を堀之内橋で渡った先の堀之内二丁目公園から短い坂が上がっています。





39.地蔵坂

地蔵坂は長さが約60mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂上に地蔵堂があり、地蔵尊が祀られていることに因んでいます。



善福寺川に戻って川沿いの遊歩道を進みます。環七と交差する地点に善福寺川取水施設があります。施設が何故この地点に設けられたかといいますと、大雨時にここで取水された増水を環七の地下に掘られた調節池に取り込むためなのです。地下の池というと不思議に思えますが、長大な地下トンネルに一時的に水を貯める施設というと分かりやすいでしょう。誰が考えたか知りませんが、万里の長城に匹敵する大規模工事です。尚、案内板のタイトルは「神田川・環状七号線地下調節池」となっていますが、「善福寺川・環状七号線地下調節池」の案内も含まれています。

神田川・環状七号線地下調節池

神田川・環状七号線地下調節池は、環状七号線の道路下(約40m)に延長4.5km、内径12.5mのトンネルを設置し、水害が頻発している神田川中流域の洪水を貯留するもので、洪水に対する安全性が大きく向上しています。
1)第一期事業
第一期事業は、神田川の洪水を約24万立方メートル取り入れる神田川取水施設とその洪水を貯留する延長2.0kmのトンネルを設置しました。昭和六十三年度から事業着手し、平成九年4月より神田川からの取水を開始し、調節池として供用を開始しています。

2)第二期事業
第二期事業は、善福寺川・妙正寺川の洪水を約30万立方メートル取り入れる善福寺川取水施設・妙正寺川取水施設とその洪水を貯留する約2.5kmのトンネルを設置しました。平成七年度から事業着手し、平成十七年9月より善福寺川、平成十九年5月より妙正寺川からの取水を開始し、調節池として供用を開始しています




善福寺川取水施設の先で環七の大聖堂入口交差点を右折して本郷通りに入ります。左手先にヨーロッパのお城のような建物が見えます。立正佼成会の大聖堂です。

大聖堂

法華経の修行と広宣流布の根本道場として、昭和三十九年3月に落成。本会のご本尊が安置され、重要な儀式や行事が行なわれます。

Great Sacred Hall (Daiseido)

The main worship hall for Rissho Kosei-kai's religious activities was built in March 1964. Here, Eternal Buddha Shakyamuni, the statue of the focus of devotion for members is enshrined.




本郷通りを東に進みます。中野新橋駅の横を流れる神田川に富士見橋が架かっています。善福寺川は富士見橋の手前の和田廣橋付近で神田川に合流して終端となっています。そのまま本郷通りを進み、京王バスの車庫前の寿橋交差点で左折して中野通りに入ります。神田川を渡った右手に本五ふれあい公園があります。NTTの社宅跡地を区が取得し、平成二十八年(2016年)に開園した都市型公園です。神田川に面し、自然の草木が残る園地は、区内では新たに整備される公園としては滅多にない広さです。約1.2ヘクタールの敷地の東半分が人工芝の多目的広場、西半分が芝生と林になっています。隣接する区立二中の敷地と併せて防災公園の役割も担っています。



中野通りは本五ふれあい公園の先から十貫坂上交差点まで上り坂になっています。交差点の名前から、この坂が十貫坂と勘違いしますが、この坂は無名の坂です。ところで、「十貫」とは何か謂れのありそうな名前ですね。言い伝えでは、十貫坂の名前の由来には幾つか説があるようです。
1)中野長者がこの坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったから。
2)中野長者がここに財宝を埋めたから。
3)十貫の重さのものを積んだ荷車が坂を上がれなかったから。

ちなみに、中野長者については次の伝説があります。

今は昔、応永の頃(1394年〜1427年)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。

さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。

金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。

しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。

九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。


十貫坂上交差点には北東方向から鍋屋横丁通りが中野通りに合流しています。鍋屋横町は、横町と呼ぶには広い通りです。道路の両側にはアーケードがあり、路線バスも走っています。今は道路の両側にマンションとかビルが建ち並んでいますので、昔のような参詣道の雰囲気はありません。

鍋屋横丁の由来

ここは古くから北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へと通じる道が青梅街道から分かれているところである。妙法寺が元禄年間に厄除け祖師として名高くなると、沿道は参詣人で大いに賑わい、商家や料亭が軒を連ね、中でもこの角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁盛したため、この通りを鍋屋横丁と呼ぶようになった。鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに、庭の二百数十株の梅林であり、早春は梅香芳しく、参詣客や文人墨客などの間でつとに知られるようになった。鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして、文久二年奉献された東中野氷川神社の鳥居と、平成十四年に妙法寺に移設した明治十一年建立の道しるべにその銘が刻まれている。




十貫坂上交差点を挟んで鍋屋横丁の向かいに、交差点から西へ下っていく一方通行の狭い路地の坂があります。



40.十貫坂

十貫坂は長さが約220mほどの”く”の字に曲がった緩やかな坂です。別名を「陣観坂」といいます。坂名の由来には、昔中野の長者が十貫文の銭を埋めた、付近から十貫文の入った壷がでてきた、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買った、など幾つかの説があります。十貫坂交差点から入った十貫坂の入口の赤い柱に、地元の有志が設置した案内のプレートが貼られています。

これより 十貫坂 →
   平成二十五年一月 鍋横地域の文化財を守る会

十貫坂の由来

付近から十貫文の入った壺がでてきたという説と、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。




十貫坂の坂下に地藏堂があります。「十貫坂」の地名の由来は、昔、中野の長者が十貫文の銭を埋めたとか、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったとか、付近から十貫文の入った壷がでてきたとか、幾つかの説があります。「中野長者」とは、紀伊国に生まれ、後に中野に移り住んで馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓を行い、財を成した鈴木九郎のことです。

民間信仰石塔

ここに建立されている石塔は、元禄五年(1692年)銘・正徳二年(1712年)銘の庚申塔、享保二年(1717年)銘の地蔵塔、建立年代不明の庚申塔一基と、地蔵塔二基の計六基があります。庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見(みざる)、不聞(きかざる)、不言(いわざる)の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多く建立されています。ここの石塔は、この辺りが武州多摩郡和田村字本村、又は砂利田と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれます。現在でもこの信仰の気持は変わらず、参拝に来る人も年々増えているとのことです。私たちも、このような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。




十貫坂の坂下から中野区と杉並区の境界に沿って青梅街道に出ます。

青梅街道

この前の道は青梅街道です。青梅街道は慶長十一年(1606年)、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡の上成木村・北小曽木村(現青梅市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く、最盛期には年間二万俵以上にも達したといわれます。道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎・藤橋等継送りのための宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の四箇村は中野宿の定助郷(江戸時代、宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、一か月十日間の伝馬継立を行っていました。江戸中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。御嶽参詣の道中を記した天保五年(1834年)刊行の「御嶽菅笠」は、「荻久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝えています。維新後、本道の重要性はさらに高まり、明治時代には乗合馬車が走り、大正十年には淀橋〜荻窪間に西武電車が開通しました。西武電車は戦後都電となり、昭和三十九年に廃止されました。なお、杉並の名称は、江戸初期に成宗村・田端村の領主となった旗本岡部氏が、村境の印として、青梅街道沿いに杉の木を植えたことに由来するといわれています。




青梅街道に面して蚕糸の森公園があります。蚕糸の森公園は、明治四十四年(1911年)5月に設置された「農商務省原蚕種製造所」に起源を持ち、大正三年(1914年)に「農林水産省蚕業試験所」、昭和十二年(1937年)に「蚕糸試験場」に改称した旧研究所跡地に設置された区立公園です。昭和五十五年(1980年)に蚕糸試験場が茨城県つくば市へ移転(農業生物資源研究所を経て現在は農業・食品産業技術総合研究機構)したことに伴い、跡地を防災公園として再整備したものです。公園の名称は蚕糸試験場に由来し、煉瓦造りの旧試験場の正門は現在でもそのまま残されています。恥をかかないために申し添えしておきますが、「蚕糸」は「さんし」と読みます。蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった糸の意味で、絹糸・生糸と呼ばれます。



蚕糸の森公園とお茶の大森園の間に、妙法寺旧参道入口燈籠が建っています。基台から宝珠まで総高5.6mの青銅製の一対の大燈籠です。明治二十二年(1889年)に甲武鉄道(現在の中央線)中野駅が開業すると、青梅街道の鍋屋横丁からの道に替わって、中野駅からの道が新たな参道(桜新道)となりました。しかし道筋がわかりにくく参詣人がまごつくため、明治三十六年(1903年)8月にまず木製の常夜燈が立てられ、その後、明治四十三年(1910年)8月に至って、信仰者の中の花柳界の人々が中心となって、青銅の燈籠を造立しました。しかし、桜新道は環状七号線の完成により分断され、往時の面影をすっかり失っています。大燈籠の裏面には、造立の経緯と共に、寄進した人達の名前が刻まれています。



高円寺陸橋下交差点を右折し、環七通りを北に進みます。



高円寺図書館の脇を北西方向に下る坂があります。



41.地蔵坂

地蔵坂は長さが約120mほどの左右に曲がりながら下る緩やかな坂です。坂名の由来は、かって坂の脇に六地蔵が祀られていたことに由来します。現在は六地蔵はこの場所にはなく、近くの高円寺に遷されて祀られています。六地蔵とは関係ありませんが、高円寺図書館の入口の横に「六つ塚跡」の案内板が立っています。

六つ塚跡

図書館前の路を北に60メートルほど行った辺り(名取眼科医院付近)に、かって六基の塚があり、地元の人々はそれを「六つ塚」と呼んでいました。塚はいずれも土まんじゅうのような円墳型をしており、四基は小塚でしたが二基は高さ四メートル、直径が六メートルほどの大塚で、頂には木が生え、裾には小さな窪みがあったと伝えられています。雑木林の中にあったこの塚は、その頃はまだ当図書館の場所にあった杉並第三小学校の児童たちの恰好の遊び場で、腕白どもは学校の行き帰りや休み時間に、よく塚に登って遊んだということです。また、当図書館の一帯が昭和の初め頃まで、「むつづか」の通称で呼ばれていたのも、この塚に由来していたのです。しかし大正末年頃、塚は区画整理事業による桃園川流域低 湿地埋めたてのため、崩されてしまいました。その際、塚からボロボロになった刀などが出土したといわれ、こうした出土品などから、塚は太田道灌と豊島氏との戦の死者を葬った墓ではないか、との説もありますが、真偽のほどは不明です。なお、六つ塚に近く、長く当図書館の地にあった杉並第三小学校(前身は高円寺小学校)は、明治二十六年に開校した古 い歴史を持ち、昭和三十三年に現在の高円寺南一丁目へ移転した学校です。




今日のゴール地点の高円寺駅に着きました。



ということで、杉並区で最後の「堀之内・和泉・和田・高円寺コース」を歩き終えました。上井草地区の怒濤の坂巡り16連チャンが印象に残りましたね。杉並区の散歩道で巡ったところにも多くの坂があり、違う視点で坂を見れて良かったです。次は、難関の板橋区の坂を巡ります。





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