板橋区(成増・赤塚コース)


踏破記


杉並区の次はどの区にしようかと考えたのですが、23区で残っているのは板橋区(67)と世田谷区(66)です。どちらも坂の数は殆ど同じですが、坂学会の坂リストでは世田谷区の坂に解説が未作成のものが若干あり、調べるのに時間がかかりそうなので先に板橋区の坂を巡ることにしました。板橋区も杉並区と同じくネット上に坂マップが掲載されていないので自分で作るしかありません。でも、板橋区の坂は区全体にばらけている上に、鉄道空白地帯に集まっています。なので、バス路線をうまく使ってなるべく無駄な動きをしないようにルートを決める必要があります。言うは易し、行なうは難しで、地図と首っぴきになってやっとこさ坂マップを自作したのですが、結構大変な作業となりました。お散歩に持参している地図に坂名を伏した付箋を杉並区以上にペタペタ貼っていったら、地図帳が付箋だらけになってどこに坂があるのかさえ分からなくなる始末。坂を見付けて歩く度に付箋を剥がしていく達成感はあるのですが、どの付箋を剥がしたらいいのか見つけるのも大変です。ま、出来の悪い巡回セールスマンですが、何とか頑張ってみましょう。

板橋区は東京23区の北西部に位置し、23区の中では杉並区に次いで9番目の面積を有しています。昭和七年(1932年)10月1日に東京府北豊島郡板橋町・上板橋村・志村・赤塚村・練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村の9町村が東京市に編入され、東京市板橋区が成立しました。昭和二十二年(1947年)5月3日には東京都の特別区になりましたが、区役所との交通が不便との要望を受けて僅か3ケ月後の8月に一部を分区して練馬区が誕生しました。これにより、東京都は23区となりました。区名は、石神井川に架かる「板橋」が由来とされています。区内は住宅地や商業地の他、北部には工場が多く立地しています。板橋区は、北には荒川・北西には白子川が流れ、荒川に近い北部では新河岸川が西から東に流れています。一方、南部には石神井川が西から東に流れています。地形的には、武蔵野台地の北端と東京低地の境目に位置し、概ね北部は低地で南部は台地となっています。南東から北西に長い形をしていて、武蔵野台地と荒川低地の境をなす崖線が小豆沢・志村・中台・西台・赤塚にかけて区の中央部をほぼ東西に貫いています。付近は高低差に富み、坂道が多く作られています。前野町・中台・西台地区は若木通りを尾根筋とする形状になっていて、すりばち状の谷戸(やと)地形が見られます。かつては各所で地下水が湧き出ていました。薬師の泉(小豆沢三丁目)、出井の泉跡(泉町)などにその名残りが見られます。また、見次公園(前野町四丁目)の池は自然の湧水によって形成されたものです。

今回は板橋区の坂道を、西から東に、北から南に巡ります。先ずは板橋区の西端にある成増駅からスタートします。



地下鉄成増駅は川越街道の地下を通っています。川越街道には3つの坂があり、最初に巡る坂は成増二丁目交差点から成増小学校入口交差点までの下り坂になっています。



1.帳元の坂

帳元の坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂上の赤塚新町の辺りを帳元ということに由来しています。「帳元」の地名の由来は、江戸時代から今日に至るまで城北一帯の工業やモノなどの取り締まりをしていた帳元の邸宅(友山氏宅)があったことに因んでいます。歩道橋からの眺めです。



次に巡る坂は帳元の坂の坂下の成増小学校入口交差点から地下鉄成増駅前の成増交差点までの上り坂になっています。つまり、川越街道は成増小学校入口交差点を底にして擂鉢状になっているのです。



2.小次兵衛久保坂

小次兵衛久保坂(こじべえくぼざか)は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂名は、かって坂下辺りが小次兵衛窪と呼ばれていたことに因んでいます。小次兵衛は人の名前で、「橋を造ってくれた盗人小次兵衛」という昔話に語られています。街道を荒らした盗人でしたが、改心して窪と呼ばれる小川に立派な橋を架けて旅人の難儀を救ったといわれています。坂下は帳元の坂に続いています。歩道橋からの眺めです。



地下鉄成増駅の北西から東崎橋交差点付近まで、川越街道が下り坂になっています。


左の写真で右側に分岐している道路は旧川越街道の道筋です。


3.成増坂

成増坂は長さが約440mほどの緩やかな坂です。旧川越街道を直線化した新道として開かれ、坂名は地名の「成増」から付けられました。歩道橋からの眺めです。



東崎橋交差点は東京都と埼玉県の境に位置しています。



成増坂の坂上付近から分離し、川越街道と並行して白子川方向に向かって狭い坂が下っています。この道筋は旧川越街道です。



4.新田坂

新田坂は長さが約300mほどで、八坂神社の前付近が急な坂、八坂神社から白子川に架かる白子橋までは緩やかな坂です。別名を「白子坂」といいます。街道を歩くシリーズでも旧川越街道の道筋を辿りましたね。昔はこの辺りは成増村の「向新田」と呼ばれ、坂名はこれに由来しています。この坂はかつて急勾配の曲がった道で旅人が難渋したために路傍に石地蔵を建立して供養しました。現在その地蔵は八坂神社前の高台の小さな広場に移され、「新田坂の石造物群」として保存されています。

新田坂の石造物群

この案内板の前の坂道は、江戸時代の川越街道です。板橋宿の平尾(板橋三丁目)で中山道と分かれた川越街道は、上板橋や下練馬の宿を経て川越城下へ通じていました。街道はこの付近で白子川の作る谷へ下りるために急坂となり、新田坂と呼ばれていました。ここに保存されている石造物四基は、新田坂周辺から集められたものです。道祖神は、区内唯一のもので、文久三年(1862年)に建立されました。もともとは、八坂神社の入口付近にありました。常夜燈は、文政十三年(1830年)に建立されたもので、成増二丁目34番の角に立っていたようです。「大山」と刻まれていることから道標も兼ねていたのでしょう。川越街道と分かれて南へ向かう道は、土支田方面へ通じていました。稲荷の石祠と丸彫りの地蔵は造立年代は不明ですが、どちらも大切に保存されています。昭和五十九年度、四基の石造物は区の有形文化財に登録されました。



右側の石塔が道祖神、左側の石塔が大山参りの常夜灯、真ん中が稲荷の祠です。


石造物群の隣に屋根付きの祠が建っていて、その中に子育延命地蔵尊が祀られています。丸彫りの地蔵については次の言い伝えが残されています。

白子坂の首かけ地蔵

いつのころか、このお地蔵さん、だいじな首をどこかへ持っていかれてしまいました。これを知った人たちは、「お地蔵さんの首や〜い。」とさがしました。白子坂にむかしからある「油屋」という家の人たちは、このお地蔵さんをだいじにして、毎日おがんでいました。あるばんのこと、この家のおばあさんの夢の中に、お地蔵さんがあらわれて「わたしは、この街道の地蔵ですが、首がかかれてからずいぶんたちます。あなたの手で首をつけてください。わたしの首は、草むらにすてられています。」といいました。夜があけて、草むらをさがしますと、お地蔵さんの首がありました。よろこんだ油屋さんの人たちは、お地蔵さんの首を、もとどおりになおしたそうです。お子様の健やかな成長をお祈りし、暫く子供を授かれなかったご夫婦、病にかかった子供の全快祝い等、お参りされる方に寄り添う霊験あらたかな「子育て地蔵尊」とも言われております。




広場には「新田坂道祖神等石造物記念碑」と書かれた石柱も建っていて、その横に「双体道祖神」の小さな石像も保存されています。石像は、男像の右手が女像の肩にかけられ、左手は女像の手を握っています。双体道祖神は、縁結び・夫婦和合・子宝授けの神さまとしての本来の道祖神信仰が変形し、性の神的な要素を多分に含んで信仰されてきたようです。この双体道祖神は板橋区唯一のもので、文政十三年(1830年)に建立されました。



川越街道に面して八坂神社が鎮座しています。

新田宿と八坂神社

板橋宿の平尾(板橋三丁目)で中山道と分かれた江戸時代の川越街道は、上板橋宿、下練馬宿を経て、白子宿へ向かいます。八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近は、白子川へ下りるための大きく曲がった急坂(新田坂という)になっていました。新田坂から白子川の間は、新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達していました。昭和初期には、小間物屋や魚屋、造り酒屋などが軒を連ねていました。八坂神社は、京都の八坂神社を勧請したといわれ、「天王さま」とも呼ばれています。御祭神は、素盞嗚命と稲田比売命です。元々は現在地よりやや南側にありましたが、昭和八年(1933年)の川越街道新道(国道254号線)工事の際に移されました。




八坂神社の前付近からは緩やかな坂が白子川に架かる白子橋に向かって下っています。



白子橋の親柱には、童謡の「くつが鳴る」の歌詞が書かれたプレートが貼られています。作詞した清水かつらは女性のよう名前ですが、男性の詩人です。生まれは東京の深川ですが、関東大震災で継母の実家に近い埼玉県白子村・新倉村(現・和光市)に移り、ここで生涯を送りました。「くつが鳴る」は、幼児がみんなで手をつなぎながら道を歩き、靴音を鳴らす情景を小鳥やウサギになるという擬態化(擬人化の逆)表現を含めて描いています。

くつが鳴る

一、お手々つないで野道を行けば
  みんなかわいい小鳥になつて
  歌をうたへば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴が鳴る

二、花をつんではお頭にさせば
  みんなかわいい兎になつて
  はねて踊れば靴がなる
  晴れたみ空に靴がなる




東武東上線の成増駅の駅前広場脇から成丘通りが北に向かっています。直ぐ先で向きを北東に変えますが、そこから坂が上がっています。

5.百々女木坂

百々女木坂(ずずめきざか)は長さが約170mほどの緩やかな坂です。



坂下には、かって百々女木川が流れていました。現在は暗渠になっていますが、その上部が一部で緑道になっているようです。ちなみに、「百々女木」とは、川の流れる音、あるいは沢山の雀などの鳴き声を意味し、それが坂名になったといわれています。「百々女木川」は「百々向川」とも書かれ、光が丘公園付近から始まり、成増駅付近を通って旧白子川に合流し、最終的には荒川に注いでいました。



上赤塚公園の前を坂が下っています。



6.小井戸坂

小井戸坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。この坂が小井戸の谷頭になることからこの坂名が付けられたと考えられます。昔は急坂だったそうですが、今は埋められて傾斜がなだらかになっています。



小井戸坂の坂下から北西に2ブロック進んだところで、先ほど百々女木坂で通った成丘通りと交差します。その交差点からクランク状に坂が上がっています。

7.太郎坂

太郎坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は不明です。交差点の直ぐ先のサンコーデバイスの前で直角に向きを変えています。



曲がった先は真っ直ぐな坂となり、途中でやや急坂になっています。坂上の先は徳丸久保といわれる窪地で、坂上からの道筋は窪地の縁に沿って大きく迂回し、青蓮寺の方に向かっています。



太郎坂から次の坂に向かいます。この辺りには農家も点在していて、果樹農園も見かけます。フェンス越しに見えるのは葡萄棚でしょうか?私もいろんな東京産ワインを呑みましたが、板橋区のワインは未だお目に掛かったことはないですねぇ。



方向を間違えたようで、次の坂がなかなか見つかりません。地図アプリで何度も場所を確認してようやく目的の坂に辿り着きました。板橋区の最北西端に位置し、直ぐ先は埼玉県の和光市です。坂は、波多野印刷所のところから特別養護老人ホーム音羽台レジデンスの手前まで下っています。



8.石坂

石坂は長さが約130mほどの緩やかな坂です。この坂は、菅原神社(成増五丁目−3)の鎮座する台地から俗称「ドヤマ」の台地下まで下る坂で、成増四丁目と五丁目を分けています。坂名の由来は、成増村になる前の地名が石成村の小字成増であったことに因んでいるのかもしれません。坂下付近で「こいど川緑道」と交差しています。



小井戸川緑道は直ぐ北を流れる旧白子川分流の水路に繋がっています。水路といっても、今は水の流れはなく、一部は暗渠となって上部が遊歩道になっています。



石坂の坂下から1ブロック先の音羽台レジデンスの南側に急な坂が上がっています。



9.権現坂

権現坂は長さが約140mほどの急な坂です。坂の途中で逆”く”の字形に曲がっています。この坂は旧白子川分流の田島橋から成増の台地に上る坂で、古道の松木道が通っていました。坂の途中に「木椎熊野大権現」が祀られていたことから権現坂と呼ばれました。今はこの神社はありません。



権現坂の坂上から成増幼稚園の前を通った先に、青蓮寺の山門前から三園通りに出る坂があります。

10.おなかや坂

おなかや坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。坂名は、青蓮寺の東側に屋号を「おなかや」と称する田中氏の家があったことに由来しています。坂学会のGoogleマップでは、青蓮寺の山門から南に下るようにルートが引かれていますが、実際は北東に下りて三園通りに出る短い坂が「おなかや坂」のようです。



山門の前に青蓮寺の案内板が立っています。

青蓮寺

瑠璃光山青蓮寺(しょうれんじ)と号する真言宗智山派の寺院で、ご本尊は薬師如来坐像(平安時代作)です。開山・開基は不詳ですが、昭和三十四年(1959年)の本堂改築に際し、「当寺建立円宗代」・「元禄六年十月」などと墨書された棟木が発見され、少なくとも、元禄六年(1693年)までは遡ることが分かりました。また、当寺は当初徳丸ヶ原の弁天塚(現高島平四丁目33番辺り)付近にあり、水害によりこの地へ移転したとの伝承も伝わりますが、棟木年号からすると、その移転時期は元禄六年以前のことと考えられます。当寺は豊島八十八ヶ所の第七十七番札所であり、大正十三年(1924年)に、関東大震災により廃寺となった浅草松葉町の清光院を合寺したことから、江戸御府内八十八ヶ所の第十九番札所にもなっています。また、境内には現成増三丁目三十三番の通称愛宕山から移設された勝軍地蔵や、庚申塔(区登録文化財)などが存在します。なお、先代の藤ア光淳十四世住職は、昭和十年代から五十八年まで、成増周辺を継続的に写真に収めました(平成十七年区に寄贈)。これは、時代の移り変わりや特徴がよくうかがわれる資料であり、平成二十一年度に板橋区登録文化財となりました。




三園通りを横断して住宅地の中を東に進みますと、赤塚氷川神社の巨木に覆われた長い参道に出ます。赤塚氷川神社は、長禄元年(1457年)に赤塚城城主千葉自胤が武蔵国一宮の氷川神社を勧請したといわれ、上赤塚村の鎮守でした。



赤塚氷川神社には富士塚があります。

赤塚氷川神社富士塚

富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。なお、他地域の富士塚では毎年七月一日前後の富士山の山開きに合わせて祭礼が行われている所があります。また、富士塚への登山行為自体が富士山登拝と同様の御利益があるといわれています。当富士塚を造成したのは、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉行芙厚)が開いた「丸吉講」です。当地(旧上赤塚村)へとその丸吉講が伝播した時期については、丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御三幅の「御身抜」に、「天保六年、蓉行芙厚?、七拾七年、書之」という墨書銘が確認されていることから、天保六年(1835年)頃と考えられます。なお、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」に奉納された、明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「上赤塚仙元 富士山」と表記されていることから、それ以前の造成と考えられます。また、塚上に慶応四年(1868年)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を務めた富澤藤七が造立した「登山三十三度大願成就」の碑があり、造成時期はさらにさかのぼる可能性も考えられます。平成二十三年度に区の登録記念物(史跡)となりました。




そこに山があるなら登ってみよう!登山道には石の足止めはありますが、傾斜がかなり急な上に、曲がりくねって歩き難いですね。雨の後なら滑落してしまいそうです。でも、何とか頂上に立ち、祠に参拝することができました。これで富士塚には何回登山したかな?



赤塚氷川神社の参道を横断して赤塚溜池公園に向かいます。公園の北端に板橋区の郷土資料館があります。

板橋区立郷土資料館

考古遺物・古文書・民俗資料など郷土の歴史資料の展示や、四季折々の年中行事を再現しています。敷地内には古民家もあり、自然に恵まれた環境のもと、地域の歴史・祖先の生活から新たな発見と懐かしさを感じることのできる、心安らぐスポットです。

Itabashi Historical Meseum

Historical materials of the area are being exhibited such as antiquities, old documents and folk materials, and annual events held in four seasons are being reproduced. With an old private house in the premise, it is a relaxing spot where the citizens can enjoy new discoveries from the regional history and the lives of ancestors and feel nostalgic in the environment with rich nature.




郷土資料館の入口左手に大名の屋敷門のような格式高い長屋門が保存れてています。

新藤楼玄関

江戸時代中山道第一の宿場として栄えていた板橋宿は、明治十六年の鉄道開通、同十七年の火災により次第にさびれていった。そのため、宿場の旅籠業者は再起策の一つとして明治十九年に建てられた北豊島郡役所(板橋三丁目)周辺に移り、旅館業というよりは、実態を遊郭に変え営業を開始した。この建造物は、板橋遊廓中最大の規模を誇った新藤楼の玄関で、寺社建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。区内では残り少なくなった明治期の建造物として貴重であるばかりでなく、板橋宿の旅籠の変貌を伝える資料でもある。現在地へは昭和四十九年に移築したが、長い間の風雪により痛みがひどくなったため平成四年に保存修復工事を行った。




赤塚溜池公園は、都立赤塚公園に隣接した区立の公園です。中央には、かつて農業用水として使用されていた溜池があることからこの公園名が付きました。園内には区立美術館や郷土資料館、周辺には都立赤塚公園や赤塚諏訪神社、東京大仏などの見どころが多くあり、周辺施設も含めて憩いの場となっています。



日がな一日、釣りを楽しむ太公望もいらっしゃいますね。



赤塚溜池公園は梅の名所としても知られています。

赤塚溜池公園の梅

早春の頃、園内の紅梅・白梅など約200本の梅が、一斉に花をつけた姿は、一見の価値があります。板橋十景のひとつ「赤塚溜池公園周辺」として、区内の人気梅見スポットとなっています。毎年3月上旬に「赤塚梅まつり」が開催され、多くの人で賑わいます。

Plum trees in the Akatsuka Tameike Park

It is worth viewing the scene of about 200 Japanese plum trees in the park being in bloom, red or white or others, at one time early in the spring. This park is a popular Japanese plum-blossom viewing spot in the city as one of Itabashi 10 Scenic Spots, i.e. "the surrounding area of Akatsuka Tameike Park". The "Akatsuka Japanese Plum Festival" is held early in March of every year and is crowded with many people.




赤塚溜池公園と道路を挟んだ反対側に階段が上っています。

11.赤パッケ坂

赤パッケ坂は長さが約25mほどのやや急な階段です。昔は赤土がむき出しの崖の坂でした。坂名の由来は、崖は「ハケ」と同義語で、赤土のハケがなまって「赤パッケ」になりました。正確には、「はけ(またはハッケ、バケ、バッケ、ハゲ等)」は、丘陵や山地の片岸、即ち崖地形を指す地形名です。



階段を上がりますと、目の前に造成中の土地と思われる高台があります。昔の赤パッケ坂もこんな感じだったのでしょう。



赤塚溜池公園の南側に隣接して都立赤塚公園の広大な敷地が広がっています。1500年代から1600年代にかけて築城された赤塚城の跡地に造られた公園です。山城ですので、公園の中に山があるようなものです。

赤塚城址(都立赤塚公園内)

戦国時代、この辺りを支配していた千葉氏の居城跡です。中世の典型的な平山城で、周辺には空壕などの遺構がわずかに残る、23区でも珍しい戦国時代の城跡として区民の憩いの場となっています。

Akatsuka Castle Ruins (in the Akatsuka Park)

This site used to be the ruins of the castle for Chiba clan ruling over this area in the Sengoku period, "the period of warring states". It is a typical flatland-mountain castle in the medieval times, which is currently the place of relaxation for Itabashi citizens as the castle ruins in the Sengoku period that is unique in the 23 wards of Tokyo with slight remains such as dry moats in the surrounding area.

武蔵千葉氏と赤塚城跡

下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456年)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城しました。寛正四年(1468年)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(1590年)まで勢力をふるいました。城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確は(な?)ことはまだ明らかとなっていません。




写真は板橋区の散歩道で訪れた際に撮ったものです。


赤塚公園城址地区の西側に、高台の斜面に沿って長い坂が上がっています。

12.出口坂

出口坂は長さが約320mほどの緩やかな坂です。坂名は、この坂の上辺りが赤塚城の大手口に当たることに因んでいます。



赤塚植物園は、武蔵野の面影を色濃く残す赤塚の丘陵地を活用し、自然や植物がより身近なものとして親しむことができるような施設として昭和五十六年(1981年)10月に開園しました。赤塚植物園は本園・万葉・薬用園及び農業園の3つのエリアで構成されています。本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草も可憐な花を咲かせます。万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられています。農業園は、主にこどもたちが農作業の体験を行う畑や、来園者に野菜の花や果樹などを観て楽しむことのできるポタジェや果樹園などがある野菜植物園です。



赤塚植物園の直ぐ近くに乗蓮寺があります。乗蓮寺は東京大仏(俗に赤塚大仏とも呼ばれます)があることで知られています。東京大仏は境内にある阿弥陀如来像です。坐像で青銅製の鋳造大仏としては、奈良・東京都日の出町・鎌倉に次いで日本で4番目の大きさとなっています。高さは基壇が地上2メートル・蓮台2.3メートル・座高8.2メートルで、合計12.5メートルにもなります。お寺自体が崖の上にありますので、見た目以上に高さを感じます。東京大仏は、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め、昭和五十二年(1977年)に建立されました。東京大仏は乗蓮寺の別称にもなっていて、毎年初詣には周辺住民や高島平団地居住者が多く参拝し、板橋区内でも随一の賑わいを見せます。



乗蓮寺の西脇辺りから民家の間を縫って擂鉢状の狭い坂が下っています。

13.藪の坂

藪の坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名は、笹の繁みが深い地域の狭い坂であることから「藪の坂」と呼ばれるようになりました。ちなみに、この坂の西側の地名は小字を「石成」といいました。石成村の名主だった田中家の17代目の田中左京成益が開墾した土地が当主の名前をとって「成益」と呼ばれ、それが転じて現在の「成増」になったとする説があります。



藪の坂の坂上(擂鉢状の底から上がったところ)を道なりに進み、2番目のT字路を左折した1ブロック先の突き当たりの右手から擂鉢状の坂が下っています。坂の底には、かって川が流れていました。

14.つるし坂

つるし坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。現在は土盛りされて緩やかな坂になっていますが、昔はかなりの急坂でした。この坂道は大堂の下の前谷津川に架かる亀橋に続いていたので「鶴嘴坂(つるしざか)」と呼んで鶴と亀との縁起を担いで名付けられました。



今日は、この後であとふたつの坂を巡って地下鉄赤塚駅でゴールする予定でしたが、写真を撮り過ぎてiPhoneのバッテリーが残量僅かとなり、このままでは持たないと思い、急遽最寄りの赤塚小学校バス停をゴールとすることにしました。



ということで、板橋区で最初の「成増・赤塚コース」は未完のまま歩き終えました。板橋区の坂には案内板や案内柱が殆ど設置されていないので、本当にこの坂が正しいのかと判断に迷うケースがありました。また、地図にも載っていない住宅地の中のマイナーな坂も多く、何度も迷路に入り込んでしまいました。23区の坂の中でもかなり難度の高い区になりそうです。次は赤塚地区の残りの坂と、大門・四葉・徳丸地区の坂を巡ります。





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