板橋区(赤塚・大門・四葉・徳丸コース)
踏破記
今日は前回の「成増・赤塚コース」に引き続き、赤塚地区の残りの坂と大門・四葉・徳丸地区の坂を巡りたいと思います。前回のゴール地点である国際興業バスの赤塚小学校バス停からスタートします。
今日の最初の坂と次の坂は赤塚中央通りにあるのですが、赤塚小学校バス停からは一本道では行けません。地図と標識の番地を確認しながら住宅地の中の路地を進むのですが、なかなか赤塚中央通りに辿り着けません。この辺りは南北方向の路地は多いものの、東西の路地は袋小路になっているものが多く、行きつ戻りつの繰り返しになります。後から思うと、赤塚小学校バス停から都道446号長後赤塚線をそのまま進んで松月院前交差点で赤塚中央通りを逆に戻った方が時間的には短かったようです。なにはともあれ、ようやっと最初の坂に辿り着きました。城北信用金庫の前付近から坂が下っています。
坂下付近で緑道が赤塚中央通りと交差しています。ここにはかって前谷津川が流れていて、橋本橋が架かっていました。前谷津川は赤塚新町二丁目付近を水源とし、高島平を通って新河岸川に合流している河川です。現在、水路は暗渠となって緑道・親水公園となっています。
- 15.番匠免の坂
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番匠免の坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名は、この辺りの旧地名だった小字の「番匠免」に由来します。大寺である大堂を建てたり維持に従事する大工を「番匠」といいましたが、この地域に番匠が多く住んでいて、租税が免除されたことから「番匠免」の地名が付きました。町会の掲示板に「番匠免町会」の名前が見れます。
「番匠免の坂」の坂下から赤塚中央通りの松月院交差点まで大きく彎曲した坂が上がっています。
- 16.大堂の坂
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大堂の坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂の西側に松月院大堂があることに因んでいます。建武・延元の頃(14世紀)、七堂伽藍を供えた大寺院であったことから、村人は大堂と称していました。
前にも何回かお邪魔したことはあったのですが、ついでなので松月院に立寄ってみます。案内板によりますと、大堂は「大堂の坂」の坂上付近の左手にあるんですね。私はてっきり松月院の境内にあるものとばかり思っていました。どうりで探しても見つからなかった訳だ。
松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗
延徳四年(1492年)、千葉自胤は当寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し、自ら中興開基となりました。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑が建てられています。天正十九年(1591年)、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進し、朱印状を発給しました。以降、江戸時代を通じて、歴代将軍が発給した朱印状が、「徳川将軍朱印状」(板橋区指定有形文化財)として現存します。原則では将軍の代替りごとに返還するため、貴重な例です。天保十二年(1841年)、長崎の町年寄で西洋砲術家でもあった高島秋帆が、幕命により、徳丸原で洋式砲術の調練を行いました。秋帆が当寺を本陣にした由緒から、遺品が伝わるほか、大正十一年(1922年)に東京陸軍兵器長を務めた押上森蔵を発起人として建てられた「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」(板橋区登録有形文化財)も境内に残ります。また、赤塚六丁目四十番七号に所在する近世建築「大堂」(板橋区登録有形文化財)に伝わった国重要美術品「大堂 銅鐘」(板橋区登録有形文化財、板橋区郷土資料館寄託)や「大堂阿弥陀如来坐像」「大堂閻魔王坐像」(板橋区登録有形文化財)など、中世以来の由緒をもつ大堂に関わる貴重な文化財も現存しています。なお、大堂は大正十四年に都旧跡(当時は府)にも指定されています。
松月院の山門は参道が道路で途切れた先にあります。昔は繋がっていたのかな?
案内板にも書かれていた「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」は境内の奥に建っています。台座の上には砲身、コンクリート製の柵は砲弾というのも珍しいですね。台座にはめ込まれているプレートには何やら書かれていますが、難しくて読み取りは諦めました。
高島秋帆先生紀功碑
この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門第100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小石川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。紀功碑は安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を碑心に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高六メートル。
ヒイラギはモクセイ科の常緑小高木です。年を追うごとに尖った葉の形が丸くなることから、人間の成長の過程に例えられます。松月院のヒイラギは、山門の内側境内に繁っていて、区内では古木です。幹の上部の葉が丸くなっており、下部の若い葉は尖っていて、ヒイラギの特徴を良く表しています。
松月院のヒイラギ
樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高約十メートル。目通り、約二百七十センチメートル。根回り、約三百十センチメートル。樹齢、約百年(推定)。ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺にさし、鬼の侵入を防ぐという習俗は最近までみられる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長の過程を象徴するとの説話も残る。松月院のヒイラギは、上部の樹冠の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持つている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
松月院通りは直ぐ先で新大宮バイパスと交差します。新四葉交差点を渡って左折し、新大宮バイパスに沿って側道を北方向に進みます。
側道に面して葡萄農園があります。板橋区で唯一葡萄狩りのできる「板橋さんぶどう園」は、かつて板橋区のチベットと呼ばれた秘境大門で半世紀以上に亘り葡萄園を経営しています。昨年(2022年)は人為的ミスにより葡萄の品質低下が発生し、そのために葡萄を全て切り落とし、葡萄狩り・直売・JAでの販売を中止したそうです。今年は無事育ってくれればいいですね。でも、葡萄農園は他にもあったような。。。
大門みはらし台公園の前の交差点の先にある安部自動車の前付近から、新大宮バイパスに合流する手前まで側道が下り坂になっています。
- 17.馬坂
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馬坂は長さが約140mほどのやや急な坂です。この坂は、馬や牛が通れない「しったり坂」の代わりに新しく開削されましたが、馬車や牛車が通ったために道はでこぼこになって歩きにくく、地元の人はしったり坂を利用したといわれています。今はこの坂と重複して新大宮バイパスが出来たために、かっての馬坂の姿はありません。
安部自動車の手前で右折し、直ぐ先で左折した先から坂が下っています。坂下で道路と交差し、その先はポッカリとフェンスが口を開けています。
ここが坂下かと思いきや、フェンスの先は崖になっていて、丸太の階段がジグザグに曲がりながら下りています。
- 18.しったり坂
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しったり坂は長さが約85mほどの急斜面に造られた急な階段です。昔、大門の農家の人たちが徳丸田んぼ(高島平)へ通うために諏訪神社の西裏手の崖から下りる坂がありました。坂名の由来は明らかではありませんが、
- 非常に急な坂だったので、農耕の道具や収穫物を運ぶのが大変で、枯枝を落として後押しをする姿から「尻垂れ坂」と呼ばれた。
- 坂の中程から「清水が湧き垂れる」ことから、「清水垂れ」が転訛した。
- 湿気がひどいので「湿ったり」が音転した。
などの説があります。
この崖は武蔵野崖線の自然がそのまま残っている貴重な場所なので、人の手から厳重に保護されています。
首都高5号池袋線の高架に沿って赤塚公園の北側の遊歩道を進みます。この辺りは武蔵野崖線がむき出しになっていて、木々に覆われた崖の斜面を自然なままに見ることができます。
板橋区の花は「ニリンソウ」だそうです。ニリンソウをモチーフにした絵がプレートに描かれて歩道にはめ込んであります。この辺りは特にニリンソウの自生地として大切に保護されています。
赤塚公園のニリンソウ群落は都内最大の自生地です
春、落葉樹林の林床を飾るスプリングエフェメラル
春の短い期間だけ地上に姿を現す一群の植物たちに、はかない命のものたちという意味で、 こんな呼び名がつけられています。早春の雑木林の林床は、葉を落とした木々の梢を透かして差し込んだ太陽の光で暖まります。木々の葉が開くまでの短い期間、ニリンソウは芽を出し、白い花を咲かせ、実を結びます。やがて、葉が開いて林の中が暗くなると、地上部は枯れて、次の春まで長い眠りにつきます。かつて雑木林は、農地の肥料や家庭の燃料にするために落ち葉を掻き取り、大きくなった木は切り倒して新しい芽を吹かせるなどの手入れが行われました。このような人の関与が明るい林を維持し、小さな植物たちをはじめとする多様ないきものたちの生育の場を提供していたのです。人の生活様式が変わって雑木林は放置され、ササや常緑樹が増えはじめると、光が不足してニリンソウは生きられなくなります。春のよろこびを歌うニリンソウの群落は、人と自然の好ましい関係を教えてくれる宝物なのです。
高島大門交差点から崖線の高台に向かって大きく弧を描きながら坂が上がっています。
- 19.山の坂
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山の坂は長さが約180mほどのやや急な坂です。昔、台地上の諏訪神社の東側に「山の家」といわれた田中家の邸宅があり、この家の裏から徳丸田圃(高島平)に降りる急坂がありました。このことから「山の坂」といわれるようになりました。現在では、かっての急坂と新しく出来た坂は重なっています。
山の坂の途中の二股路にある老人ホーム「ブルーポピー」前から左手の道路に入り、大門東の森緑地の角で二股路を右手に進みます。緑に囲まれて環境が良いのか、この辺りには老人ホームとかリハビリ施設が多いですね。
最初は少し右手にカーブし、その後は真っ直ぐに新大宮バイパスに向かって長い坂が上がっています。
- 20.観音寺坂
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観音寺坂は長さが約310mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂上の手前にある観音堂に因んでいます。
標札も何もありませんが、これが観音堂?
高島大門交差点の次の交差点から弧を描いて坂が上がっています。
- 21.種井坂
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種井坂は長さが約360mほどの緩やかな坂です。別名を「沖口坂(たないざか)」といいます。坂下近くに、種もみを浸すのに使ったといわれる「たない:種井」というせいぜい2坪ほどの広さの池があり、これに因んで坂名が付けられました。また、この辺りの地名が旧小字沖口だったことから「沖口坂」とも呼ばれています。種井池はどこにあるのかと探し回ったのですが、どこにもそれらしきものは見つかりません。崖下に水たまりのような窪地があったのですが、これが種井池?
坂上近くの民家の塀の前に植え込みがあり、そこに動物の形に刈り込んだ植木が並んでいます。英国式庭園などで見かけるのですが、トピアリーというのだそうです。トピアリーとは、ラテン語の「opus topiarium」を語源とし、「植物を人工的・立体的に形づくる造形物」のことです。広い意味では、日本の菊人形もトピアリーの一種になるのだそうです。顔の部分の葉の色が変色しているのも意図的なのかな?
種井坂の坂下付近に河島建材の生コン製造所があり、その手前から左手にクランク状の坂がまるやま幼稚園の前まで上がっています。
- 22.駒坂
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駒坂は長さが約260mほどのカクカクと左右に曲がりながら上る緩やかな坂です。この辺りのかっての地名である旧小字馬場から台地の下に下りる坂だったことから「馬:駒」坂の坂名が付けられました。農家の人たちが徳丸田んぼ(高島平)へ行く際に使った主要な農道でした。
赤塚公園交差点から緩やかに弧を描きながら徳丸台地に向かって坂が上がっています。
- 23.番場ノ坂
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番場ノ坂は長さが約340mほどの緩やかな坂です。坂名は、この辺りの地名が「番場」と呼ばれたことに因んでいます。かって、坂下に湧き水があり、坂上に代官から水番を命ぜられた番小屋があったといわれ、それに加えて郷蔵もあって蔵番が置かれたことからこの地名になったといわれています。坂はセザール第五赤塚公園というマンションの手前で左手に折れ、やや急な坂となって上っています。
次の坂は坂学会の坂リストには掲載されていないのですが、Googleマップには線が引かれています。最初は間違いかと思ったのですが、ネットで検索するとちゃんと見つかります。そこではこの坂は「板橋区−29」と表示されていますが、坂学会の坂リストの「板橋区−29」は「城山の坂」として掲載されています。どうやら重複して採番した結果、片方が坂リストから脱落してしまったようです。
それはさておき、番場ノ坂と大坂の間に、住宅地の中から赤塚公園徳丸ケ丘緑地地区に向かって短い坂が下っています。
- 24.下井戸ノ坂
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下井戸ノ坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。別名を「寺ノ後ろノ坂・仕手戸の坂・後ろノ坂」といいます。坂名は、かつて坂下に大井戸があり、灌漑用水や洗い物などに使われていたことに因んでいます。坂下には赤塚公園の徳丸ヶ丘緑地地区があり、高島平との間は深い崖になっていました。下井戸ノ坂はこの崖を“く”の字に曲がりながら下っていましたが、現在はこの部分は消滅しています。
ワークマン板橋高島平店の向かいから急坂が上がっています。
- 25.大坂
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大坂は長さが約200mほどのかなり急な坂です。徳丸地区では最大の急な長坂であることから、この坂名が付けられました。この坂は、徳丸槙の道通りの坂下区間になるのですが、道路脇の歩道には、茸のような形に刈り込まれたラカンマキという種類の槙の木が立ち並んでいます。手入れは大変だと思いますが、一般道の街路樹にしては映えしています。
徳丸七丁目交差点の先に、徳丸北野神社があります。
北野神社ご由緒
当社所蔵の「武蔵国豊嶋郡徳丸郷天神宮記」によれば「當社は天満天神なり。往昔、此の処ろに古木の霊梅あり。一條院正暦年中(990年〜994年)に里人等大勢の者が疫癘(えきれい:悪性の流行病)の為に暴死した。此の時里人の或る者が梅下に寄って疫癘の癒えんことを祈斜し謹拝して去った。將に其の効しを得るなり。斯く祈ることにより奇妙な効果が得られたことは即ち是の誠の美精に徹する所ろ、鬼神の物に感ずる所以にして奇怪と云うに非ず。およそ、梅は聖廟天神の珍愛するところなり。これを以て念いを山州葛野郡に通わし、當里に祠を設けて天満宮と号す。人皇第六十六代一條院長徳元年乙未(995年)正月十一日御幣帛を捧げ、大前に田夫の業を以て俳優となし、神威を安んじ奉る。今の田阿曽美の祭り是れなり」とある。江戸時代には天神社又は天満宮の社号であったが、明治六年から北野神社と改称された。
「田阿曽美の祭り」とは、「田遊び」のことです。
北野神社と無形民俗文化財「田遊び」
北野神社に伝わる縁起「武蔵国豊嶋郡徳丸郷天神宮紀」によると、長徳元年(995年)、京都北野天満宮から分霊し、徳丸の地に勧請されて当社が造立されました。祭神の菅原道真は、平安時代の学者で右大臣に任じられ重用された人物です。のちに藤原時平の策謀によって九州の太宰府に流され、その地で亡くなりました。没後は天神とあがめられ、学問、能筆の守り神として庶民から信仰を集めています。当社で行われる無形民俗文化財「田遊び」は、毎年二月十一日(旧暦正月十一日)の夜、その年の五穀豊穣や子孫繁栄を祈願して行なわれる予祝の祭事です。当社を造立したときにその奉祝行事として「田阿曽美之祭」を行ったのが始まりとされています。創始の長徳年間から一千年にわたって休むことなく行われてきたとされ、土地の神を招き、稲作の一年間の行事を所作と唄で表わす古い形を残した祭りです。唄や所作、言葉は口伝えで継承されており、全国的に見ても希有なことから国の重要無形民俗文化財に指定されています。また、毎年五月には獅子舞が行なわれ、悪疫の退散と子どもの無事生長が祈願されます。
北野神社の先から超急な坂が下っています。
- 26.天神坂
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天神坂は長さが約60mほどの無茶苦茶急な坂です。別名を「宮坂」といいます。この道は北野神社への参道で、昔は赤土の崖に開かれた急坂でした。参拝客は上り下りに大変な難儀をしたといわれています。
天神坂の坂下から路地を抜けて徳丸通りに出ます。徳石公園の南端付近から松月院通りまで長い坂が上がっています。
- 27.鷹番ノ坂
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鷹番ノ坂は長さが約350mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は明らかではありませんが、徳丸ヶ原はかつて徳川将軍代々の鷹狩りの場所であったことから、鷹番の番所に因んで坂名が付けられたのではないかと考えられます。2ケ所の交差点を過ぎるまでは徳丸通りを進みます。
坂上の手前の二股路を右に進み、直ぐ先で松月院通りに出ます。
今日のゴール地点をどこにしようかと思ったのですが、この辺りには近くに鉄道の駅がなく、最寄りの駅までバスを利用するしかありません。どこで中断するかは気分次第です。ちょっと時間は早いのですが、たまたま鷹番ノ坂を上がりきったところの松月院通りにバス停が見つかったので、ここで今日の坂巡りを中断しようと思います。バスの系統は赤02で、朝利用した便と同じでした。
ということで、板橋区で二番目の「赤塚・大門・四葉・徳丸コース」を歩き終えました。次は徳丸・四葉地区の残りの坂と、西台地区の坂を巡ります。
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