板橋区(中台・志村・小豆沢コース)


踏破記


今日は前回の「徳丸・四葉・西台コース」に引き続き、中台・志村・小豆沢地区の坂を巡りたいと思います。前回のゴール地点である都営地下鉄三田線の志村三丁目駅からスタートします。



志村三丁目駅から環八を戻り、環八高速下交差点を経て若木三丁目交差点までやってきました。昨日と合わせて往復の時間は余計にかかりましたが、昨日お散歩を早めに切り上げたことで藤井聡太先生激勝の名人戦をゆっくり観ることができました。あれで藤井聡太先生が渡辺明名人に負けていたら今日の坂巡りは憂鬱な気分になっていたことでしょう。若木三丁目交差点から若木通り坂上交差点まで、若木通りが上り坂になっています。



45.松山の坂

松山の坂は長さが約230mほどの緩やかな坂です。別名を「天狗坂」といいます。台地上に松林が広がっていたことから「松山の坂」と呼ばれ、それが坂名になりました。また、坂下に天狗杉が聳えていたことで「天狗坂」とも呼ばれていました。



松山の坂の坂上からNTT板橋社宅の敷地を回り込んで中台ならのき公園の上に来ます。ここが台地上にあるということが見て取れます。



日大豊山女子中学校・高等学校と緑小学校の間の小路を進みますと、入り組んだ路地の先に坂が下っています。

46.南坂

南坂は長さが約140mほどの急な坂です。坂名の由来は不明ですが、昔は東の台地に位置した志村の方から中台に上がるにはこの坂を通るしかありませんでした。この坂は練馬の冨士街道に通じていて、大山詣りや冨士登山参拝の際にも利用されました。



南坂の右側は急峻な崖になっていて、崖崩れを防ぐための工事がされています。この辺りの起伏が如何に激しいかが分かります。

立入禁止

この斜面は、山が崩れないように鉄筋とワイヤーで補強しています。




人間には危険な崖であっても、野鳥には天国のようなところです。

野鳥案内板

中台南坂緑地では、ヒヨドリ、キジバト、シジュウカラ、ムクドリ、メジロなどたくさんの野鳥を見ることができます。この広場からそっと野鳥たちを観察してみましょう。




南坂の坂下から北前野小学校の前を通り、首都高5号池袋線の高架下交差点に出ます。交差点の左手に回り込むように石垣に沿って坂が上がっています。



47.城山の坂

城山の坂は長さが約180mほどの、僅かに左右に曲がりながら上る急な坂です。坂名は、高台一帯が志村城址になっていて、「城山」と呼ばれていたことに由来します。昔は樹木に覆われ、昼なお薄暗く上り下りに苦労する急坂でした。坂上には、志村小学校や熊野神社があります。



熊野神社の境内に「板橋区史蹟 志村城跡」の石碑が建っています。

志村城跡と熊野神社

志村城は、志村氏によって築かれたとされる中世城館です。康正二年(1456年)に千葉自胤が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、拠点となりました。本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ、「守るに易く攻めるに難し」といわれる堅城でしたが、大永四年(1524年)に北条氏綱に攻められて落城しました。熊野神社の位置する場所は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳と云われる築山の上に建てられています。当社は長久三年(1042年)、この地の豪族である志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神に定めました。大永四年に千葉氏が滅亡した後は、志村七か村の総鎮守となり、江戸時代には志村の鎮守として近郷住民の崇敬を集めました。現在の社殿は昭和三十二年(1957年)に改築されたものです。社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができます。




城山の坂から城山通りに出ます。信号の少し先に、民家の間を下るカラフルな塗装を施した坂があります。

48.馬の鞍の坂

馬の鞍の坂は長さが約85mほどのやや急な坂です。坂名は、日露戦争の時に軍馬にするために近在の村々から徴収した馬を一時繋いでいたことに由来しています。



熊野神社に戻ります。熊野神社の北側は急峻な崖になっていて、崖下には志村城山公園があります。その崖に沿って下る坂があります。



49.志村城址坂

志村城址坂は長さが約110mほどのかなり急な坂です。坂名は、志村城址の北側斜面を下る坂ということに因んでいます。志村城は、15世紀に千葉自胤が赤塚城に入場した際に、一族の信胤が拠点とした城です。城址には熊野神社や志村小学校などがあり、かつての空濠跡も残っています。



志村城址坂の坂下を右折して志村城址公園に沿って回り込み、信号で右折して御成塚通りを道なりに進みます。志村二丁目交差点で城山通りに入り、スーパーの三徳志村店の角を左折します。延命寺地藏堂の前から急坂が下っています。

50.平次坂

平次坂は長さが約70mほどの急な坂です。別名を「へび坂」といいます。坂名は、時代は不明ながら平次という人が拓いた道と伝えられていることに因んでいます。急勾配に加えて崖から清水が赤土の道いっぱいに流れだしていたので滑りやすく、雨降りの時などは特にひどくて草や木に掴まらないと登れなかったと伝えられています。農家の人たちが坂下の田畑に通う際は、清水坂を回らずにこの近道を利用したそうです。



平次坂の坂下から直ぐ先の右手に坂が上がっています。



51.清水坂

清水坂は長さが約180mほどの、大きく弧を描いて曲がるやや急な坂です。別名を「隠岐坂・隠岐殿坂・地蔵坂・志村坂・壱岐坂」といいます。この道筋は旧中山道に当たります。坂名は、坂下の大善寺に清水薬師如来があり、清水が湧きだしていたことに因んでいます。板橋区の坂には珍しく、坂下と坂上に坂名を記した立派な石碑が建っています。


左が坂下の石碑、右が坂上の石碑です。


坂下には案内板も立っています。

清水坂

日本橋を起点とする旧中山道の最初の難所といわれた急坂です。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともに呼び名を変えました。この坂は、大きく左右に曲がっているため、中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所であったと言われています。清水坂を下った先には、板橋宿と蕨宿の中間として合の宿が設けられ、そこにあった志村の名主屋敷や立場茶屋などは、旅人の休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時の控えの場所として利用されました。この辺りは、昭和三十年代頃までは旧街道の面影をのこしていましたが、地下鉄三田線の開通など、都市化の波によって、その姿を変えました。




清水坂の坂上から旧中山道を進み、志村坂上交差点で国道17号線(中山道)に入ります。



52.志村坂

志村坂は、志村坂上交差点から環八と交差する志村三丁目交差点までの、長さが約540mほどの緩やかな坂です。尚、高島通りの起点となっている国道17号線の「志村坂下交差点」は何故か志村坂には含まれていません。ネットで理由を探しましたが見つかりませんでした。



志村坂の東側に面して「薬師の泉庭園」の塀が続いています。中山道の喧噪とはかけ離れた緑豊かで静かな和風庭園です。かつてこの地にあった大善寺は、15世紀末に聖徳太子作と伝わる薬師如来を本尊として開基されました。のちに、八代将軍徳川吉宗が周辺で鷹狩をした際に大善寺に立ち寄り、境内に湧く清水を褒め、寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したとされています。大善寺は、その後、庭園に隣接する総泉寺と合併し、この地は総泉寺亀山荘庭園として築造されましたが、戦争を経て荒廃しました。この「薬師の泉庭園」は、平成元年に復元されたもので、江戸文化の香りの残る庭園内には泉が湧き、豊かな木々が季節を伝えています。



案内板には当時の風景が描かれていて、池は半端ない大きさに見えます。この挿絵は、江戸時代後期に発刊された「江戸名所図会」に「清水薬師清水坂」として掲載されました。

薬師の泉

十五世紀末、この地に、農民新見善左衛門は聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊として大善寺を開基した。後、八代将軍徳川吉宗遊猟の途中立寄り、清泉に因んで「清水薬師」と称すべしという。志村三泉の一つとも言われる豊かな湧泉は、中仙道を往来する旅人や江戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場所として賑わった。大善寺は昭和初め総泉寺と併合し、総泉寺亀山荘庭園が築造されたが、戦中戦後荒廃した。この度、板橋区は、「江戸名所図会」にまで登場する水と緑の名所を現代に再生すべく、学術的検討をふまえて江戸の風情を復元整備した。




志村坂上交差点から小豆沢通りに入ります。歩道の真ん中に古い石碑が建っていますが、道標でしょうか?目をこらして読み取ろうと試みましたが無駄でした。



小豆沢公園前交差点から小豆沢体育館の北東面に沿って坂が下っています。

53.魚藍坂

魚藍坂は長さが約250mほどの緩やかな坂です。別名を「井戸谷津の坂」といいます。昔、小豆沢の台地下の荒川で漁業をしていた村人が農業に転じた際、勝手に漁を行わないようにと、それまで使用していた多くの「びく」(魚藍)を坂上に埋めて塚(八百漁藍塚)を築きました。坂名は、この脇を通ることに因んで名付けられました。



魚藍坂の坂下の信号手前で右折して小路を進みます。右手の小高い丘は小豆沢公園になっています。



小豆沢公園の崖下に小さな祠が祀られています。

御手洗池(御手洗不動旧跡)

御手洗池は、江戸中期に江戸周辺で爆発的に流行した富士・大山詣の道者たちが、旅立ちにあたって心身を浄め、水垢離をした禊場で、かたわらには石造の不動尊がおまつりされていました。ところが、明治以降鉄道などの交通機関が発達して手軽に富士・大山詣ができるようになると、この禊場は利用されなくなっていき、やがて荒廃していきました。昭和三十七年、不動尊は龍福寺の山門脇に建立された不動堂へ奉遷されました。近年地元の方が雑草を刈るなどの整地を行い、御手洗池を復元しました。その際、池のかたわらには新たにお堂を建立し、金銅の不動尊と聖観音をおまつりしました。この御手洗池は龍福寺の秘仏薬師如来が出現したという伝説がある池です。また、古くはここの水が眼病に霊験があると信じられ、眼を病んだ人々が訪れていたといいます。




復元された御手洗池です。



龍福寺のある高台に向かって坂が上がっています。



54.寺坂

寺坂は長さが約90mほどの急な坂です。元気一杯の子供も流石にペダルは漕げないようです。坂名は、台地上にある龍福寺に因んでいるものと思われます。坂下からほど近い荒川の岸辺には、江戸時代から舟運で栄えた小豆沢河岸(別名大根河岸)や対岸の浮間とを結ぶ浮間の渡し場がありました。



寺坂の坂下から少し進んだところに、東京メガシティ(雪印乳業工場跡地)に沿って上がる坂があります。北区の坂を巡った際も訪れましたね。この坂は北区と板橋区の境界に位置しているため、両方の区に重複してリストされています。

55.ふか坂

ふか坂は長さが約170mほどのやや急な坂で、別名を「馬坂・深坂」といいます。坂名の由来は、かつては鬱蒼とした樹木に覆われて、谷深い中を蛇行する坂だったことに因みます。坂下近くの曲がり角付近に案内柱が立っていたそうですが、マンション工事で撤去されたのか今は見当たりません。

ふか坂

赤羽三丁目と板橋区小豆沢四丁目の境を南西に登る坂です。坂名は、うっそうとした樹木におおわれて、谷深いなかを蛇行している坂であったことによります。坂を下って北へ行くと荒川にでます。そこは、かつて袋村河岸があり、地元では大根河岸とも呼んでいました。この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれていました。




次に巡る坂はふか坂からかなり離れています。ここから一番近い駅は赤羽駅になりますが、距離があるので赤羽北三丁目バス停で今日の歩きを終えようと思います。



ということで、板橋区で四番目の「中台・志村・小豆沢コース」を歩き終えました。板橋区の残りの坂は北部・中部・南部にバラけています。次は北東部・中部地区の坂を巡ります。





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