板橋区(北東部・中部コース)


踏破記


今日は前回の「中台・志村・小豆沢コース」に引き続き、板橋区の北東部・中部地区の坂を巡りたいと思います。前回のゴール地点である赤羽北三丁目バス停からスタートします。



赤羽北三丁目交差点から小豆沢通りを志村坂上交差点まで進み、城山通りに入ります。直ぐ先で左折し、路地を進むと公園の角に出ます。これが見次公園かと思ったのですが、実際は志村第三公園でした。本当は城山通りに入らず、志村一里塚交差点から一里塚通りに入れば そのまま見次公園に行けたんですけどね。見次公園には23区内には数少なくなった湧水による池があり、ボートによる遊覧や釣りができます。また、池ではカルガモやオオバンやマガモ等の水鳥を見ることもできます。案内板が立っているそうですが、見落としました。

見次公園とその周辺

この公園は、昭和二十八年(1953年)四月に開園しました。「見次」の名前は、隣接する志村延命寺の由緒に関連しています。「新編武蔵風土記」や同寺の縁起によると、延命寺は中世の志村城に在城していた篠田五郎の家臣見次権兵衛を開基とし、見次の氏をとって山号を「見次山」としたといいます。また、大永四年(1524年)、小田原北条氏の志村城攻めにより、息子を失った見次権兵衛が、菩提を弔うために屋敷を寺院としたともいわれています。この公園の池は、台地の縁から湧き出る水をためたもので、水に恵まれたこの周辺には原始・古代の遺跡も多く分布しています。池ではボート遊びや釣りなどを楽しむことができます。




見次公園裏交差点から見次公園の西側に沿って坂が下っています。

56.見次坂

見次坂は長さが約130mほどのやや急な坂です。案内板の解説とは異なりますが、「見次」の語源は、この辺りが古代から拓けた所で、貢(年貢)の集積地であったことに因んでいるとの説もあります。



見次公園前交差点から首都高5号池袋線に沿って二つ目の信号で左折すると、長徳寺の前に坂が上がっています。



長徳寺の創建年代は不明ですが、建久年間(1190年〜1199年)に行慈阿闍梨によって中興されたことから、少なくとも鎌倉時代初期には既に存在していたものと推測されます。かつての本尊は運慶作とされる大日如来像であり、「子育大日尊」として知られていましたが、昭和二十年(1945年)4月13日の空襲で焼失しました。現在の本尊は、昭和三十八年(1963年)に造立された不動明王です。本尊と同じ年に本堂などの堂宇も再建され、昭和五十五年(1980年)には現在の山門も再建されました。

長徳寺

宗派は真言宗豊山派で、挙一山遍照院長徳寺と号し、御本尊は不動明王です。鎌倉時代初期に中興開山されたと伝えられていますが、いくどか火災にあっているので、江戸時代初期以前のことはよくわかりません。江戸時代後期に書かれた新編武蔵風土記稿には、寛保三年(1743年)に鋳造された鐘があったことが記されています。また、かつては大日如来像が御本尊で、子育大日尊として信仰を集めていました。しかし、これらは昭和二十年四月十三日の空襲によって、本堂とともに焼失してしまいました。当寺には、区内で一、二を競う古い仏像があります。平安時代末につくられたもので、平泉の中尊寺に由来すると伝えられる阿弥陀如来の木像です。戦後の再建時に受け入れられました。この仏像は平成四年度に板橋区の有形文化財に指定されています。また、境内には、さまざまな石仏や力石が数多く残されています。




57.長徳寺の坂

長徳寺の坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。別名を「お大日坂(おだいにちざか)」といいます。坂名は、長徳寺の前を通る坂であることに因んでいます。別名は、練馬道(富士見街道)から分れて出井川の谷に下り、長徳寺の南側を通っていた前野の地の古道「お大日道」に因んでいます。



首都高5号池袋線に沿って進み、国道17号(中山道)に合流した後、大和町交差点で環七と交差します。



交差点の2ブロック東に、環七によって分断されていますが、旧中山道が南北に通っています。



旧中山道に入った2ブロック先から縁切榎前交差点まで、商店街の間を緩やかに坂が下っています。

58.岩の坂

岩の坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。別名を「いやの坂・縁切坂・蓬莱坂」といいます。坂名は、昔は坂の両側から覆いかぶさる樹木によって昼なお薄暗く、不気味な坂であったことから「いやな坂」が訛って「いわの坂」と呼ばれるようになりました。今は坂の反対側に移されていますが、かつては坂の左側に「縁切榎」と呼ばれる榎の大木が聳えていたことから別名「縁切坂」とも呼ばれています。



交差点の角の奥に縁切榎を祀った小さな祠があり、案内板が立っています。その前には、この坂が旧中山道の「岩之坂」であることを示す標識が立っています。

縁切榎(板橋区登録文化財)

江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861年)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。




祠の脇には、木の欠片を埋め込んだコンクリートの板碑が建っています。旗本近藤登之助石見守の抱え屋敷にあった初代榎の一部だそうです。悪縁を切りたい人は男女問わず多いようで、願掛けの絵馬も販売機で売られています。願いが願いだけに、絵馬にはプライバシー保護シール付いているのだとか。「縁切り」の語源については、次の説もあります。江戸時代、金指近藤家二代目で旗本の鉄砲頭だった近藤貞用(近藤登之助:旗本退屈男のモデルともいわれています)の抱屋敷にあった榎(えのき)と槻(つき)が中山道から垣根越しに見え、榎が「えんの木」とも読まれることから「縁が尽きる」、転じて「縁切り」に結びつき、祟り場として忌み嫌われるようになったということです。なお、現存する縁切榎は三代目とのことです。



縁切坂から板橋本町交差点に出て中山道を横断し、そのまま真っ直ぐに進みますと石神井川に架かる中根橋に出ます。



そこから中板橋駅前通りの商店街を進みますと、東武東上線の中板橋駅の踏切に出ます。おんや?こんなところに晩杯屋のお店が。。。今日は祝日ですが、開店の13時までは未だ時間がありますね。残念!



踏切を渡った先の最初の信号を左折しますと、その先に長い坂が下っています。というか、殆ど傾斜はなく、坂という感じはしないんですけど。

59.海老山の坂

海老山の坂は長さが約340mほどの、殆ど傾斜のないごく緩やかな坂です。この海老山の坂はかつての川越街道の道筋に当たり、上板橋宿がありました。飢饉に備えた稗(ヒエ)蔵があって、「ヒエ」が訛って「エビ」と呼ばれるようになり、この辺りの山は海老山と呼ばれました。坂名はこの海老山に因んでいます。ちなみに稗蔵は江戸時代に多く作られた木造の蔵のことです。稗は日本で最も古い雑穀で、縄文時代から食べられています。イネ科の植物で低温に強いほか、塩や酸性土壌にも強く、痩せた土地でもよく育ちます。虫もつきにくいので長期保存も可能です。米・粟・麦・豆と共に、日本の「五穀」のひとつになっています。稗は白米と同等程度のカロリーがあり、ミネラルや食物繊維が豊富です。ですが、冷めると独特の臭いが出て、もそもそとした食感になるので美味しくはありません。飢餓に備えて蓄える分にはいいかもしれませんね。



坂の中ほどに、豊敬稲荷神社が鎮座しています。昭和の初め頃、近くに住む福本芳太郎氏が神示を得て私財を投じ、現在地に土地を求めて豊敬稲荷神社を建立しました。地元の人々は芳太郎氏の心意気に打たれ、境内地の造成に勤労奉仕して報いました。境内には、上板橋宿の案内板が立っています。

旧上板橋宿概要図

川越街道は、江戸時代に川越道中・川越往還とも称し、川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後へも通じていました。この弥生町の旧道沿いは、宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の三宿に分かれ、文政六年(1823年)の「上板橋村地誌改書上帳」には、宿内は「六丁四拾間」(約730m)道巾は「三間」(約5.5m)と記載されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、昭和の初めごろまで遺っていたようです。名主の河原与右衛門家は明治期には転居してしまいましたが、明治期に副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。上板橋村は、町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立を担っていました。




とある居酒屋さん風の建物の前に距離標が立っています。それによりますと、ここは日本橋から二里二十五町三十三間のところになるそうです。メートル換算では、10、641.81mとなります。



道なりに進んで、石神井川に架かる下頭橋に出ます。橋の脇に小さな六蔵祠があります。「六蔵」とは、 江戸時代に街道で馬による貨客の運送を職業とする馬方の通称です。この道筋は旧川越街道に当たっていたので、そのような仕事に従事する人も多かったのでしょう。



「下頭橋」とは何やらいわれがありそうですが、その由来を解説した案内板が境内に立っています。

下頭橋

弥生町には江戸時代の川越往還が通っています。そのうち、大山町の境から当地までの街道沿いは上板橋宿となっていました。石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年(1798年)に近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられています。境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたものです。橋の名の由来については諸説があります。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽吹き大木に成長したという「逆榎」がこの地にあったという説。二つ目は、川越往還を利用する川越藩主が江戸に出府の際に、江戸屋敷の家臣がここまで来て出迎え頭を下げたからという説。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからという説の三つが伝わっています。ここにある六蔵祠は六蔵の遺徳を讃えて建てられたのです。下頭橋と六蔵祠は昭和六十一年度に区記念物(史跡)に登録されました。




下頭橋を渡り、南ときわ通りを進んで南常盤台一丁目交差点で環七を横断します。1ブロック先の左手に坂が上がっています。

60.暗闇坂

暗闇坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。昔は覆い被さる樹木で昼なお暗かったことから、暗闇坂と呼ばれました。



暗闇坂の坂下から環七を板橋中央陸橋交差点まで戻ります。



交差点の向かいには長命寺があります。

長命寺

「新編武蔵風土記稿」に「開山、長栄、寛文十年(1670年)十一月二十四日寂す」とあり、伝存する過去帳も承応元年(1652年)から書き始められていることから、当寺は江戸時代の前期にはすでに創建されていたと考えられます。江戸時代には、天祖神社(南常盤台二丁目)や氷川神社(東新町二丁目)をはじめ付近の神社の別当(管理者)でもありました。明治時代には、豊島八十八霊場の二十一番札所にもなり、またいたばし七福神の一つ福禄寿も祀られています。当寺周辺は、室町時代「お東」にあったといわれる板橋城跡の伝承地の一つでもあります。




長命寺と交差点を挟んだ向かいに坂が下っています。

61.長命寺坂

長命寺坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名は、旧川越街道が下頭橋を渡って東山町にある長命寺に向う坂であることに因んでいます。環七と川越街道が出来る前は、この坂は長命寺に繋がっていたのでしょう。



板橋中央陸橋交差点まで戻って環七を南西に進みます。上の根橋北交差点で西方向の小路に入り、最初の信号で右折しますと、スーパーのコモディイイダ東新町店の先から坂が上がっています。

62.堂坂

堂坂は長さが約90mほどの緩やかな坂です。別名を「地蔵坂」といいます。坂名は、坂の途中に旧家で大庄庵と称した小野沢氏の邸宅があり、ここに地蔵堂があったことに因んで「堂坂」、あるいは「地蔵坂」と呼ばれました。



堂坂から路地を抜けて川越街道に出ます。北西方向に進んで東新町一丁目交差点で右折して若木通りに入ります。そのまま北上しますと、東武東上線の踏切を渡って常盤台四丁目交差点で富士見街道と交差します。富士街道は何度も通りましたが、富士見街道は初めて見ました。



スーパーのベルクスの先から”S”字状に曲がりながら、中台交番前(稲荷神社前)交差点まで擂鉢状の坂があります。

63.閻魔坂

閻魔坂は長さが約240mほどの緩やかな坂です。坂名は、擂鉢状の底に当たるところに閻魔橋が架かっていて、その脇に閻魔堂があったことに由来します。ベルクルの先から坂が下っています。



交差点を底にして、今度は右にカーブしながら中台交番前交差点まで坂が上がっています。



中台交番の向かいに稲荷神社があります。

稲荷神社

神社の創立年代は不詳です。当社の境内地は、稲荷大神が降臨した場所と伝えられ、「稲荷渡(とうかわたり)」と呼ばれていました。江戸時代は、中台村の鎮守で、延命寺(中台三丁目)がその別当(管理者)にあたっていました。神社に伝わる「四季農耕図絵馬」は、明治十八年(1885年)氏子の中台東組によって奉納されたもので、一年間の農作業の様子が「田の荒起し」から「代かき」「苗とり」・・・・稲の収穫後の「まつり」まで順次描かれています。江戸時代から明治時代にかけての付近の農家の暮らしぶりが分かる貴重な資料として、昭和五十九年度、区の有形文化財に指定されました。




本殿の脇にはムクの巨木が聳えています。

稲荷神社のムク

樹種、むく(ニレ科)。樹高約25メートル。目通り、約460センチメートル。根回り、約580センチメートル。 樹齢、不明。このムクは「稲荷越の大木」と呼びならわされて、中山道と川越街道を結ぶ間道の目標ともなり地域の人々に親しまれてきた。また航空路の目標として、白十字のしるしを頭上高くかかげていた時期もあった。現在の樹姿は上部の枝が切られ、自然樹形はそこなわれているが、直立する主幹は堂々としている。ムクの木は、最近都市近郊ではあまり見られなくなった樹種で、関東以南の暖地のやや湿り気の多い地に自生する。このような樹種の巨木が残つていることは珍しい。平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。




閻魔坂を戻って、ベルクスでお買い物をして上板橋駅から帰ろうと思います。今日は坂と坂の間隔が空いていたので、多くの坂は巡れませんでした。



ということで、板橋区で五番目の「北東部・中部コース」を歩き終えました。次は板橋区最後の中南部地区の坂を巡ります。





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