板橋区(中南部コース)
踏破記
今日は前回の「北東部・中部コース」に引き続き、板橋区最後の中南部地区の坂を巡りたいと思います。前回のゴール地点である東武東上線の上板橋駅からスタートします。
上板橋駅南口から商店街を通って旧川越街道に出ます。上板橋郵便局の手前から川越街道との分岐点の手前まで、殆ど傾斜を感じさせない緩やかな坂が上がっています。
- 64.ガッカラ坂
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ガッカラ坂は長さが約320mほどの緩やかな坂です。別名は「地蔵通り」といいます。荷車が「ガラガラ」と音をたてて通っていたことから、「ガラガラ」が「ガッカラ」に転訛したとか、長い坂なので通る人が「ガッカリ」したといい、これが「ガッカラ」に転訛したともいわれています。別名は、坂の中程に子育地蔵堂があることに因んでいます。
その地藏堂は、駅前通りの交差点の手前にあります。
子育て地蔵の由来
当地に安置されている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人びとに広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと栗原堰の一本橋(現在の桜川一丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享五年(1688年)や安永六年(1777年)といった造立された年号や、上板橋村栗原を中心とした奉納者の名前が刻まれています。明治初年に、これらの地蔵は、川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移されたといわれています。大正三年(1914年)、川越街道と東上鉄道(現在の東上線)の上板橋駅を結ぶ道(現在の上板南口銀座)が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったといわれています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。その当時、宝田豆腐店主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正十二年頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和十年頃になると、半二郎氏の子息である宝田源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。講員も三百名をかぞえたといわれています。都市化がすすんだ現在も、子育て地蔵は、人びとの素朴な願いを引き受ける仏様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、四月から九月にかけての七のつく日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。
コモディイイダの横を通って川越街道に出ます。道路の中央に欅の巨木が5本聳えています。
五本けやき
大正十二年(1923年)九月の関東大震災で、甚大な被害を受けた東京の市街地は、復興とともに近郊の農村部へも急速に拡大していきました。その際、道路網の整備も計画されました。江戸時代に、中山道の平尾追分(現板橋一丁目)で分岐され、江戸と川越を結ぶ往還として整備された川越街道は、蛇行して道幅も狭く、荷車などの往来でできた轍も通行の支障となっていました。川越街道は、震災復興計画の中で、東京から周辺部へ放射状に延びる幹線放射道路の一つとして再整備が計画され、その拡幅と直線化のため用地取得が必要となりました。この地には、醤油醸造業を営み旧上板橋村村長・東京府会議員も務めた飯島弥十郎家の屋敷林がありましたが、道路用地となったことで伐探される予定でした。しかし、同氏の強い要望により、道路中央部にその一部を残すことで新川越街道(現国道254号)が完成しました。新川越街道の中でも特徴的な景観となったケヤキの木立は、「五本けやき」と呼ばれ親しまれてきました。立ち枯れにより、三本になってしまった時期もありましたが、地元有志らによって二本が移植され、元の姿を取り戻しました。昭和四十五年(1970年)には、五本けやき保存会が結成され、その保護活動が行われています。
石神井川に面した城北中央公園に向かいます。公園の中央を貫く茂呂山通りに面して御嶽神社があります。康正二年(1456年)に太田道灌が千代田村に江戸城を築くにあたり、当地に住んでいた住人を各地に移転させました。その中に宝田姓を名乗る一族がいて、上板橋村栗原に移り住みました。この時彼らが祭っていた稲荷神社を石神井川を見下ろす小高い丘の上(現、城北中央公園)に遷座させました。この稲荷社は宝田家の神社であったため、栗原七軒屋の人々が武州(一説には甲州)から勧請して祀ったのが御嶽神社の始まりであるといわれています。
御嶽神社
創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現・上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山昆古命(かなやまひこのみこと)・金山昆賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。栗原の地は、康正二年(1456年)、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七年(1854年)銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている。
栗原橋で石神井川を渡ります。
そのまま進みますと、茂呂山公園の手前から公園の西側に沿って坂が上がっています。
- 65.ばんち坂
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ばんち坂は長さが約160mほどのやや急な坂です。
坂の東側一帯の山は現在は茂呂山公園になっています。山の持ち主であった山上氏の先祖は江戸城の警護衆で、番町(現・千代田区)に住んでいたため、この山は「ばんち山」と呼ばれていました。坂名はこの山の名前に由来します。
ばんち坂から住宅地の路地を抜けて環七を歩道橋で渡ります。大谷口通り(旧大谷道)を東に進みますと、上板橋二中前交差点の次の四つ角から心身障害児総合医療療育センターの塀に沿ってコーシャハイム向原5号棟付近まで坂が下っています。
- 66.すて場坂
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すて場坂は長さが約270mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、昔坂下辺りに牛や馬の捨て場があったことに因んでいます。
向原団地前交差点の次の信号から坂が上がっています。
- 67.地蔵坂
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地蔵坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、坂の途中に地蔵堂があったことに因んでいます。この地蔵は「しろかき地蔵」と呼ばれ、現在は坂上の西光寺に移されています。
しろかき地蔵の名の由来は、昔大谷口の百姓が翌日の田植えのために苗代かきをしていましたが作業が終らないうちに日が暮れてしまい途方にくれていたところ、この地蔵が代わって苗代かきをしたことに因んでこのように呼ばれるようになったといいます。この辺りには、かつて「えんが堀」や湧水を利用した水田が広がっていましたので、農作業の中でこのような信仰ができたのでしょう。
高台の路地を巡って小竹向原駅の東側に出ます。ここの地下には有楽町線と副都心線が通っています。さらに要町通りも通っていますが、一部では盛り土のトンネルを通っています。直ぐ先に向原小学校があり、敷地の南側にそって坂が下っています。
- 68.だらだら坂
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だらだら坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、曲がりくねった坂道がだらだらと長く続くことに因んでいます。
坂下付近は殆ど直線なんですけどね。
今日のゴール地点である小竹向原駅に着きました。
ということで、板橋区で最後の「中南部コース」を歩き終えました。板橋区の坂は赤塚・徳丸・西台地区に多く集まっています。武蔵野崖線を直に見れたのは良かったです。次は23区最後の世田谷区の坂を巡ります。実際は、葛飾区・江戸川区・中央区を除いた20区なんですけど。
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