世田谷区(北東部コース)
踏破記
いよいよ23区の坂道巡りも最後の世田谷区になりました。坂学会の坂リストでは世田谷区の坂に解説が未作成のものが若干あり、ネットの情報で補完した上で挑戦することにしました。
世田谷区は東京23区の南西部に位置し、北は杉並区・渋谷区・中野区、東は目黒区、南は大田区、西は三鷹市・調布市・狛江市、そして多摩川を挟んで川崎市と接しています。人口と世帯数は東京23区の中で第1位ですが、面積は大田区に次いで第2位になっていて、人口密度では第14位になります。武蔵野市・川口市・松戸市・市川市と同じ、都心から15km圏に位置しています。つまり、都心ではないのです。世田谷区内には、二子玉川・三軒茶屋・下北沢などの商業地がありますが、面積の9割以上は閑静な住宅地で、特に成城は都内でも屈指の高級住宅街として知られています。行政は、世田谷・北沢・玉川・砧・烏山の五つの地域に分けられています。世田谷区の地形は台地と低地から成っていて、南部には多摩川に沿って北西から南東に連なる急斜面(国分寺崖線)があります。この斜面を境に北東側は台地(洪積層)、南西側は低地(沖積層)となっています。国分寺崖線には樹林や湧水などの豊かな自然環境が残っています。特筆すべきは中小河川の多さです。多摩川は別格として、野川・仙川・谷沢川・谷戸川・目黒川・北沢川・烏山川・蛇崩川・呑川・九品仏川(丑川)・丸子川(旧六郷用水/旧次太夫堀)が区内を流れていて、かつては灌漑用水として利用されていましたが、宅地化が進むにつれて農地が減少したため、大部分は下水道幹線として暗渠化され、多くは地表が緑道となっています。
今回は世田谷区の坂道を、東から西に、北から南に巡ります。ただ、区内に坂がバラけていますので、行きつ・戻りつのルートを辿ることになりますが。先ずは世田谷区の北東端にある馬場坂を目指して小田急線の東北沢駅からスタートします。東北沢駅は昭和二年(1927年)に開業しました。駅名の由来は、開業時に駅の所在地が「荏原郡世田ヶ谷町下北沢」の東の外れに位置していたことから、下北沢の東側という意味で「東北沢」と名付けられました。平成十六年(2004年)から始まった小田急線の地下化・複々線化工事によって、最終的に平成三十年(2018年)から現在の地上駅舎と地下ホームの供用が開始されました。なので、駅舎もホームもエレベーターなどの駅設備もピッカピカです。駅の改札口は東西2ケ所にありますが、今回は西口から駅北側に面した東日本銀行東北沢支店脇の小路に入ります。
小路の入口から3ブロック先がT字路になっていて、右手には北沢公園があり、左手には北沢三丁目公園付近まで茶沢通りに坂が下っています。
- 1.馬場坂
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馬場坂は長さが約150mほどの住宅地の中の緩やかな坂です。現在はあまり勾配はありませんが、昔は農家の人達が野菜などを出荷する際に大変苦労した坂でした。坂名の由来は不明ですが、馬でもきつかった傾斜だったのでしょうか?
馬場坂の坂下から路地を進んで東北沢駅の西側で小田急線(といっても地下を通っていますが)を越え、池の上駅から井の頭線の線路沿いに渋谷方向に進み、駒場通りに入ってNTT駒場研修センターの横で淡島通りに出ます。正面には中高一貫教育の筑波大学附属駒場中学校・高等学校、通称「筑駒」の校舎が見えます。中学校受験偏差値全国一位といわれる都内屈指の進学校です。ですが、筑波大学の前身が駒場農学校であったことから、「ケルネル田圃」と呼ばれる水田で稲作実習が行なわれています。農業高校を除けば、稲作実習を行なっている学校は日本広しといえども他にはないでしょう。
駒場学園高等学校の直ぐ先から淡島交番前交差点付近まで、淡島通りが下り坂になっています。
- 2.富士見坂
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富士見坂は長さが約240mほどの緩やかな坂です。かっては坂上から富士山がよく眺められ、それが坂名になったのでしょう。
坂の途中の東代田交差点から南に真新しい道路が下っています。令和四年(2022年)10月27日に開通した都道420号鮫洲大山線(補助26号線)です。都道420号鮫洲大山線は、品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道で、未整備の区間は残っていますが、おおむね都道317号環状六号線(山手通り)と都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っています。補助第26号線として整備が進められていて、「環状6.5号線」と呼称されることもあります。
淡島通りを進んで、淡島交差点の手前にはかって北沢川が流れていました。現在は暗渠化されて北沢川緑道になっています。北沢川緑道は、赤堤から代田・代沢・池尻までの延長約4.3キロに亘って灌木や雑木類が植えられ、四季折々の花が咲く緑の遊歩道となっています。北沢川の水源は旧上北沢村辺り(松沢病院の構内)で、湧水を集めて赤堤・松原を通り、池尻・池沢・三宿の三村境で烏山川と合流し、目黒川と名を変えています。
淡島交差点から三宿方向に進みます。「三宿」の地名は、かってこの地にあった「北宿・本宿・南宿」の3つの字から成る三宿村に由来しています。左手に多聞小学校があります。「多聞小学校」の校名は、かつてこの地にあった「多聞寺」という寺院に由来しています。多聞寺は、此の地にあった「多聞寺城」(世田谷城の東の砦)の中核になっていたといわれています。多聞寺城はまたの名を「三宿城」といい、文明年間(1469年〜1486年)の頃に吉良氏が築き、三宿村もこの時期に開かれたという説があります。多聞小学校の先で烏山川緑道に入り、三軒茶屋方向に進みます。
烏山川緑道のご案内
烏山川緑道は、昭和四十年代まで烏山用水と呼ばれる清流でしたが、戦後、市街化が進んで川の水が汚れ、豪雨があると溢水被害が生じるようになりました。また下水道幹線に利用するため埋め立てて、上部を緑道に整備しました。その後、舗装が傷むなど老朽化し、ゴミを捨てる人が出る状況になったため、まちづくり協議会の要望を基に沿道の人たちとの話し合いを重ねて、太子堂二丁目・三丁目の区間を地元の小学生の描いた絵と太子堂中学のプールの溢れた水を再利用した「せせらぎと絵陶板のある緑道」として再整備し、平成二年3月に完成させました。現在の烏山川緑道は、船橋七丁目から北沢川と(の)合流する池尻四丁目まで全長約6.9kmが整備され、町会・自治会・市民グループの管理協力を得たみなさまの遊歩道として利用されているほか、震災時には避難路として防災の役割を担っています。
緑道の右手に三宿神社があります。三宿神社の境内は多聞寺の跡地の一部を利用していて、明治十八年(1885年)に多聞寺の伽藍であった毘沙門堂の前に拝殿を増築して三宿神社という社名になりました。
烏山川緑道から茶沢通りに入り、三軒茶屋で玉川通りを横断して三茶の雑多な商店街を南に進みます。住宅地の中に蛇崩川緑道が通っています。蛇崩川緑道は、昔流れていた蛇崩川を暗渠化してできた延長約3キロの遊歩道です。蛇崩川は弦巻五丁目の馬事公苑付近を源として、玉川通りを渡り、下馬一丁目で支流を合わせて中目黒駅付近で目黒川に合流していました。「蛇崩」の名前の由来には、大水で崖が崩れた際にそこから大蛇が出てきたからとか、流路が赤土の地層を崩したように蛇行しているからとか、幾つかの説があります。
世田谷観音通り(旧明薬通り)に入ります。「明薬通り」の通り名は、かつてここに明治薬科大学があったことに由来します。しかし、明治薬科大学は平成十年に移転し、跡地には巨大なマンションが建っています。とっくに移転した明治薬科大学の名前を使い続けるのは如何なものかという意見と、地元に深く浸透した明薬通りという通り名を無くす訳にはいかないだろうという意見の双方を取り入れ、結果的に両方が入った「世田谷観音通り(旧明薬通り)」という道路標識になったようです。随分前に移転した学芸大学や都立大学の名称も駅名に残っていますが、そのうちに改称されるかもですね。通り名と違って、影響は大きいでしょうけど。それはさておき、日本大学前交差点を右折し、そのまま道なりに進みますと、野沢地区会館の手前に坂が上がっています。
- 3.テコテン坂
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テコテン坂は長さが約155mほどの緩やかな坂です。別名を「手鼓天坂 」といいます。坂名の由来は、昔月夜にタヌキが出没してテコテンと踊ったという伝承に因んでいます。ホントかなぁ。
昼間っからおじさんが踊っている。。。
旭小学校の脇を通って次の坂に向かいます。商店街の突き当たりに、玉川通りから分岐した旧大山街道が通っています。
- 4.小坂
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小坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名の由来ははっきりしませんが、昔からこの坂名で呼ばれていたようです。
旧街道らしく、左右に曲がりながら道筋が通っています。
玉川通りを上馬交差点で右折し、環七通りを進み、駒留陸橋で駒留通りを西に向かいます。弦巻一丁目交差点を右折して駒沢公園通りに入り、世田谷中央病院交差点を左折して通称「ボロ市」通りを進みます。世田谷のボロ市は、安土桃山時代に関東地方を支配していた小田原城主北条氏政が開いた楽市に端を発する伝統ある行事です。
東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)
世田谷のボロ市
世田谷のボロ市は、天正六年(1578年)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヵ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけではなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。この市は、明治六年(1873年)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半を占めるようになったからである。ボロ市は400年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。
案内板もボロボロですねぇ。
ボロ市通りの左手に都史跡の世田谷代官屋敷の門が聳えています。今日は休館日のようで、門は閉じています。世田谷代官屋敷は旧大場家の邸宅跡地にできた資料館です。館内の敷地には、世田谷区内に散在していた道標や庚申塔なども集約して展示されています。
門の前に大場家住宅の石碑が置かれています。
重要文化財 大場家住宅
この住宅は、大場家七代六兵衛盛政が元文二年(1737年)と宝暦三年(1753年)の2度にわたる工事によって完成したものであります。大場家は、元文四年(1739年)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したのでその役宅としても使用されていました。江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和五十三年1月21日国の重要文化財に指定されました。
石碑の横には、世田谷代官屋敷の案内板も立っています。
東京都指定史跡
世田谷代官屋敷
江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永十年(1633年)、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治四年(1871年)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231.4u)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。
Historic site
Setagaya Daikan Yashiki
At the beginning of the Edo Period, Oba clan served as magistrates of Setagaya (over 2,300 koku; 1 koku is approximately 180.39 L, based on a unit uniformly used as of 1690), which was a domain of Ii clan of Hikone; they took over this function generation by generation until the Meiji Restoration. The premises are the remains of their residence, including residential buildings used as a magistrate's office.
Oba clan issued important vassals of Kira clan who were lords of Setagaya castle during the Middle Ages, however, when their lord, Kira clan supported Hojo clan of Odawara at the time of military campaigns led by Toyotomi Hideyoshi against Odawara and the clan was brought to ruin, the Oba clan remained in Setagaya Shinjuku (Kamimachi), so that they are reduced to farmers. They are appointed as magistrate for li clan of at the time of granting 15 villages (later 20 villages) of Setagaya area to the clan in 1633. Subsequently, they took over the position of the magistrate and engaged in the government of the villages until the abolition of the feudal domain system from the Edo Period in 1871. The residence was from the Middle Edo Period; the main building which was the center of the magistrate's office is ca. 70 tsubo (ca. 231.4 square metre) large, with a thatched and hipped roof. Main gate with a hipped roof and a storehouse covered by mud daub, and a part of remains of courtroom are still extant in order to represent the images of the residence at the time of the magistrates.
世田谷代官屋敷の向かいには天祖神社があります。上町天祖神社の創建年代は不詳ですが、もと横根の地(伊勢森:現・世田谷区大蔵)にあった稲荷社の祠を、嘉永二年(1849年)に当地へ遷宮して新たに祠を作ったと伝えられています。
次の「オタマ坂」は坂学会の解説が未作成で、正確なところはよく分かりません。ネットで見つけた他の紹介文から推測してみることにします。
- 5.オタマ坂
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オタマ坂の坂名の由来は、坂に面した世田谷一丁目23番地に「岩瀬タマ」という名前の女性が住み、代々タマさんが続いたのでこの坂が「オタマ坂」と呼ばれるようになったとのことです。この地番には天祖神社があり、オタマ坂は旧大山街道の道筋にあったそうなので、このふたつがオタマ坂を特定する手がかりになります。でも、天祖神社は東西南北を道路に囲まれていますので、オタマ坂はどの道路にあったのでしょうか?
@天祖神社の東側
緩やかな坂になってはいるのですが、ボロ市通りと世田谷通りを繋ぐための道路で、旧大山街道の道筋とは思えません。
A天祖神社の西側
ボロ市通りから世田谷一丁目23番地の西端に沿って世田谷通りに抜ける路地です。ネットの情報では、この路地がオタマ坂だろうという意見が多くありました。実はボロ市通りは旧大山街道の道筋に当たり、旧大山街道とは離れますが、路地の先には短い坂が下っています。
B天祖神社の南側
旧大山街道はボロ市通りと重なっていて、代官屋敷を始めとして多くの民家や商店が道路に面して建ち並んでいます。天祖神社はボロ市通りから入った奥まった場所にありますので、道路に面した一軒が「岩瀬タマ」さんのお家だったとしても不思議ではありません。でも、ボロ市通りは平坦で坂はないんですよね。
C天祖神社の北側
天祖神社の北側には、世田谷通りからひとつ内側に東西に路地が通っています。天祖神社と世田谷通りの間には細長い敷地に民家が続いています。世田谷通りの入口は緩やかな坂になっていますが、ここは旧大山街道の道筋ではありません。
ということで、4つの「オタマ坂」候補のどれが本当の「オタマ坂」であるかは特定できませんでした。
世田谷区の北東部の坂はかなり広範囲に分散していますので、今日は多くの坂を巡ることはできませんでした。時間も頃合いなので、今日は世田谷通りにある上町バス停をゴールとすることにします。ちなみに、上町は「かみちょう」ではなく、「かみまち」と読みます。この読み方で地元の住民かよそ者かが分かります。
ということで、世田谷区で最初の「北東部コース」を歩き終えました。次は宮坂・代田・松原地区の坂を巡ります。
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