世田谷区(宮坂・代田・松原コース)


踏破記


今日は前回の北東部コースに引き続き、世田谷区の宮坂・代田・松原地域の坂を巡りたいと思います。前回のゴール地点である上町バス停からスタートします。



上町バス停から東急世田谷線に沿って下高井戸方向に向かいます。世田谷線は上町の手前までは東西方向に進みますが、上町の先で北に向きを変えます。豪徳寺方面と書かれた標識を見落とすと、線路沿いからどんどんと離れていきますので注意が必要です。上町の次の駅は宮の坂駅になりますが、駅は世田谷区立の宮坂区民センターの敷地内にあるようなものです。世田谷線の駅には殆どトイレの設備はありませんが、ここ宮の坂駅には区民センターに立派なトイレがあり、区民センターが開いていれば誰でも利用できます。駅のホーム裏に電車が展示されています。車両は世田谷線のものでなく、何故か江ノ電のものです。経緯を見てみましたら、元々は玉電・世田谷線の車両だったんですね。

江ノ電601号略歴

この電車は、大正十四年に製造され、昭和四十四年まで渋谷〜二子玉川・下高井戸間(現東急新玉川線・世田谷線)を走り、その後江ノ島鎌倉観光株式会社(現江ノ島株式会社)に譲渡され主力電車として藤沢〜鎌倉問で活躍したが、江ノ電2000形デビューに伴い平成二年4月、65年にもおよぶ長い現役生活に別れを告げた。

大正十四年
蒲田車両で木製車として製造され、車両番号を玉川電気鉄道45号とした。
昭和十三年
玉川電機鉄道株式会社、東京横浜電鉄株式会社に吸収合併される。
昭和十七年
社名を東京急行電鉄株式会社と変更した際、車両番号をデハ29号に改番した。
昭和二十八年
木製車を鋼製車体化し、車両番号をデハ104号とした。
昭和四十四年
玉川線廃止時に、車両番号をデハ87号に改番した。
昭和四十五年
江ノ島鎌倉観光株式会社に譲渡され、車両番号を601号に改番した。
平成二年
4月27日江ノ電2000形デビューに伴い廃車される。7月6日車体色を東急世田谷線と同様とし、現在地に保存する。




世田谷八幡宮は、後三年の役(永保三年【1083年】〜寛治元年【1087年】)の帰途の寛治五年(1091年)に源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つために滞在することとなりましたが、その際に今回の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀ったのが始まりです。後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文十五年(1546年)に社殿を再興させ、これが実質的な創建の時と考えられています。かつては奉納相撲の勝敗によって翌年の豊作・凶作を占ったり、その年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石があります。渋谷氷川神社・大井鹿嶋神社と共に、江戸郊外三大相撲のひとつとされていました。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われています。

世田谷八幡宮

世田谷八幡宮は寛治五年(1091年)源義家が奥州からの帰途、この世田谷の地に寄り、戦勝を感謝し創建されたと伝えられています。天文十五年(1546年)八月に、世田谷城主・吉良頼貞(のち頼康と改名)が社殿を修築造営した時、備前雲次太刀を一振寄進し、吉良氏領内第一の神社として尊崇されました。天正十八年(1590年)、吉良氏と婚姻関係にあった小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、徳川家康が関東に入国し、翌十九年、家康は世田谷八幡宮の旧領十一石を朱印地としました。明治維新後の明治五年(1872年)、郷社となり、この時、社名を宇佐神社と改めましたが、太平洋戦争後、もとの世田谷八幡宮に復しています。毎年九月の例祭に境内土俵で催される奉納相撲は、世田谷の恒例行事として親しまれて(い)ます。




カラフルな境内の案内板が立っています。

〜御由緒と歴史〜

八幡宮のご創建は、寛治五年(1091年)源義家が奥州の地からの帰途、ここ世田谷の地にて豪雨にあい先に進めず、天気回復を待つため数十日間滞在する事となり、日頃より崇敬する宇佐の八幡大神をお祀りし、世田谷の里人達にご祭神を郷土の守り神として厚く信仰するようにと伝えた事が始まりと云われている。また、その時に部下たちに相撲(力比べ)を行った事が由来となり、江戸時代には「江戸三相撲」として、また現在も秋のお祭りにて奉納相撲が行われている。その後、天文十五年(1546年)当時世田谷城城主であった吉良頼康により社殿を修築造営が行われ、備前雲次の太刀を一振り寄進したと云われている。江戸時代になり徳川将軍である家康より社領十一石を寄進された。現在の境内地はおよそ四千坪となる。明治時代には、一時期社名が郷社宇佐神社となるも、戦後、神社は国家管理より離れたため元来の世田谷八幡宮となった。現在の社殿は、昭和三十九年に改築されたもので、本殿御扉の中には、文化十年(1813年)に造られたといわれる木造の社殿(大場家文書より)が鎮まっている。現在、八幡宮は世田谷の鎮守として多くの氏子崇敬者の人達に厚く信仰されている。

Setagaya-Hachiman Shrine
HISTORY

The foundation of the shrine dates back to the fifth year of Kannji (1091) in the Heian Period, when Minamoto no Yoshile, a powerful samurai lord, stayed in Setagaya for tens of days as heavy rain prevented him from proceeding on his way back from then Ohshu Province, now Tohoku Area. While staying here, Yoshile gave a ceremony for Hachiman Deity of Usa, whom he worshiped, and instructed the villagers to worship the deity as the guardian god for this area and build a shrine for this purpose. Yoshile also did sumo wrestling with his subordinates on this occasion. This is said to be the origin of the Sumo Wrestling matches held in celebration of the Autumnal Festival, which was called one of the major three Sumo Wrestling Events in the Edo Period. Later, Kira Yoriyasu, then Lord of the Setagaya Castle, renovated the shrine structure in the fifteenth year of Tenmon (1546) in the Sengoku Period, when he is said to have donated a sword by Unji of Bizen Area to the shrine. In the Edo Period, leyasu, Tokugawa Shogun, donated land of eleven koku (land units). The precinct of the shrine amounts to 4000 tsubos, or 13200 square meters now. Though the name of the shrine was changed to Gosha Usa Shrine because of the government's policy in the Meiji Period, it returned to the original name "Setagaya Hachiman Shrine after the war, when Shinto shrines were not under the jurisdiction of the government any more. The current shrine structure was renovated in the 39th year of Showa (1964), and inside the sacred door to the Honden (the main building where the deities are enshrined) is the wooden shrine structure which, according to the Oba's documents, was built in the tenth year of Bunka (1813) in the Edo Period. Setagaya Hachiman Shrine is now enthusiastically worshipped by its parishioners and worshipers as a guardian shrine for Setagaya Area.




大鳥居の右奥に観客席を備えた立派な土俵があります。娯楽の少なかった江戸時代には大変な賑わいを呈していたのでしょう。

土俵 奉納相撲(秋季大祭)

江戸時代には江戸三相撲と呼ばれた。

DOHYO, SUMO WRESTLING RING

Sumo wrestling matches are held in celebration of the Autumnal Festival. The event was called one of the major three Sumo Wrestling Events in the Edo Period.




境内社として厳島神社も祀られています。

厳島神社

七福神の弁財天と同神であると考えられていることから弁天さまとも呼ばれている。知恵、財福、子孫繁栄、海上安全等のご利益がある。

ITSUKUSHIMA SHRINE

The goddess is also called Bentensama because she is considered to be the same deity as Benzaiten of the Shichifukujin. The goddess is responsive to prayers for wisdom, wealth, prosperity of offspring, maritime safety and so on.




世田谷八幡宮の横から坂が上がっています。



6.宮の坂

宮の坂は長さが約120mほどの緩やかな坂です。坂名の由来は、世田谷八幡宮の横を通る坂ということに因んでいます。ちなみに、最寄駅の東急世田谷線の「宮の坂駅」の駅名はこの坂名に由来しています。



宮の坂から世田谷線の線路伝いの道路を進み、豪徳寺駅で右折して小田急線の梅ヶ丘駅に向かいます。梅ヶ丘の名物は、「寿司の美登利」と「羽根木公園」ですね。寿司の美登利の食レポもしたいのですが、今日は我慢します。羽根木公園は北沢地域で一番広い公園で、軟式野球場などのスポーツ施設の他、プレーパーク・茶室日月庵・梅林などがあります。梅林は昭和四十二年(1967年)の区議会議員選出記念として55本の梅を植樹したのが始まりで、10回ほどの記念植樹により、現在では約650本・60品種の見事な梅林となりました。2月上旬から3月上旬に行われる世田谷梅まつりは世田谷の春の風物詩となっていて、遠方からも多くの人達が観梅に訪れます。梅の他にも、サクラやイチョウなどが楽しめます。園内には売店もあり、休憩することもできます。

羽根木公園の由来

羽根木公園は、その昔六郎次という鍬や鎌を造る鍛冶屋が住んでいたことから六郎次山と呼ばれていました。また、大正時代末期には敷地の一部が、根津財閥の所有であったことから根津山とも呼ばれるようになり、土地の人達には、今なお「根津山の公園」、或いは「六郎次山」と呼ばれています。名称は、この地が東京都荏原郡世田谷村大字羽根木の飛地であったことから名づけられました。東京都は、昭和三十一年(1956年)羽根木公園として開設しました。その後、昭和四十年(1965年)世田谷区に移管され、総面積は約8ヘクタール(24、000坪)となっています。昭和五十四年(1979年)国際児童年を記念して、全国で初めての冒険遊び場であるプレーパークが開設されました。

羽根木の梅林

羽根木公園は、全体が小高い丘になっており、南斜面地は笹が生い茂っていましたが、昭和四十二年(1967年)世田谷区議会議員に当選した五十五名の方々により五十五本の梅の記念植樹が行われました。その後、昭和四十六年(1971年)東京都百周年記念や昭和四十七年(1972年)世田谷区制四十周年などの記念植樹を経て、現在は紅梅170本、白梅530本の700本を数える都内でも屈指の観梅の名所となりました。毎年二月の梅の見頃には、地元の実行委員会による「梅まつり」が開催され、多くの方々に楽しまれています。




坂学会の坂リストには羽根木公園にある5つの坂が掲載されているのですが、どれも解説が未作成になっていて詳細がわかりません。私は今まで何度も羽根木公園を訪れたのですが、公園内に坂があるとは露とも思っていませんでした。不安を抱えながらも現地に行ってみますと、ナント公園の案内図に坂名が掲載されているのです。案内図は何回も見たのですが、坂名には一回も気が付きませんでした。公園の梅ヶ丘駅口付近には、正面に「大梅坂」、左手に「小梅坂」、そして奥に「中学校坂」があります。また、梅丘図書館の右手には「根津山坂」があります。



道路を挟んだ北側の飛び地には「東松原坂」があります。



これで5つの坂の場所が分かりました。一筆書きでどういう順番で回るのが効率的か考えましたが、トポロジカルに最適なルートが分かりません。ここは泥臭く一番手前の小梅坂から羽根木公園の坂巡りを始めることにします。

7.小梅坂

小梅坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。小梅坂は大きく弧を描くようなスロープ状の迂回路になっていて、ベビーカーでも楽に坂上に上がることが出来ます。



坂上で中学校坂に合流しています。



梅ヶ丘駅口の正面から階段が上がっています。

8.大梅坂

大梅坂は長さが約100mほどで、坂下は階段、それに続いて緩やかな坂が上がっています。梅林のメインルートなので大梅坂という坂名が付いたのでしょう。



階段の上からはごく緩やかな上り坂になり、坂上で中学校坂に合流しています。



観梅のメインルートだけあって、通路の両側には沢山の梅の木が植わっています。2月に訪れたときは梅の花が満開でしたが、今は青葉が生い茂っています。

梅(中国野梅)

梅の原種は、中国の西南部及び長江流域、台湾に自生しています。西南麓一帯に点在し、海抜170メートルから高い所は3、300メートル以上の所に生息しています。樹高10メートルの小喬木ないし灌木、太いものは幹周120センチメートル〜160センチメートルで、多数の梅林を成している所もあります。花期は十二月から三月で、概ね単色の白梅ですが、蕾のうち薄い桃色を呈し、開花すると白色になるものもあります。




梅雨前ですが、梅の実も大分大きくなっています。これで梅酒がどれ位出来るのかな?



大梅坂の坂上から梅丘中学校の手前まで坂が下っています。坂下付近は階段になっています。



9.中学校坂

中学校坂は長さが約200mほどで、坂上は緩やかな下り坂、坂下付近は階段になっています。梅丘中学校に出る坂ということで、中学校坂という坂名が付いたのでしょう。坂の途中で小梅坂が合流しています。坂下の階段は石段になっています。自然な雰囲気がいいですね。



公園の南東側には、子供達が泥遊びや水遊びを思いっきり出来るプレーパークが設けられています。プレーパークは、世田谷区と地域住民が作った子供達が自由に遊ぶことを目的とした空間です。プレーパークには、子供達と一緒に遊んだり、遊具を作ったりしてくれる「プレーワーカー」が常駐しています。プレーワーカーは、遊びの楽しさを教えてくれたり、相談に乗ってくれたり、子供達を見守り寄り添ってくれる存在です。遊具は、他の公園では見られないような手作りのものばかりです。木にロープをくくりつけただけのブランコや、木でできた滑り台(夏にはこれにブルーシートを張ってウォータースライダーに変身します)など、一見危なさそうに見える遊具も子供達自身が自分の体の使い方や力量を知りながら遊ぶことができるので、バランス感覚や運動能力を育てるのに役立ちます。



プレーパークに沿って左右に曲がりながら坂が下っています。



10.根津山坂

根津山坂は長さが約200mほどの緩やかな坂です。坂名は、羽根木公園のある小高い丘がかって「根津山」と呼ばれていたことに由来します。坂下が数段の階段になっています。



羽根木公園の北側には、二面の野球場やダブルコートのテニス場などの運動施設が集まっています。野球場のフェンスに沿って3列の銀杏並木が続いています。等間隔に植えられた銀杏の木は巨樹に育っていて、日差しの強い夏には木漏れ日の中を散策することが出来ます。



公園の北端にある健康・児童口から道路を挟んで「北の広場」が続いています。北の広場の入口の先から公園内に短い坂が下っています。



11.東松原坂

東松原坂は長さが約100mほどの緩やかな坂です。坂名は、東松原駅に向かう坂ということで名付けられたと思われます。坂下が階段になっています。



北の広場の東松原駅口から南西方向に進みます。とある建物のドアガラスに「貝谷バレー団」と書かれています。貝谷八百子は、大正十年(1921年)に福岡県大牟田市で生まれました。生家は鉱山主で、豊かな家庭だったといわれています。昭和八年(1933年)に文化学院に入学するために上京し、翌年からエリアナ・パブロワにバレエを学びました。昭和十三年(1938年)に貝谷バレエ団を立ち上げ、歌舞伎座を借り切ってデビュー公演を行いました。昭和二十一年(1946年)に蘆原英了・小牧正英などと共に東京バレエ団を結成し、同年8月9日に帝国劇場で第1回公演「白鳥の湖」全幕を日本で初めて演じ、貝谷は主役(オデット)を務めました。昭和二十五年(1950年)に東京バレエ団が解散した後もバレエ界で活躍を続け、昭和四十年(1965年)に貝谷芸術学院を設立し、後進の育成や指導に当たりました。平成二年(1990年)に逝去しましたが、没後の平成十九年(2007年)に「バレエ白鳥の湖発祥の地」の記念碑が貝谷バレエ団の敷地内に建立され、同年8月9日に除幕式が行われました。



菅原天神通りが松原大山通りと分岐する地点から二叉の坂が上がっています。先ずは右側の坂から巡ります。



12.半田坂

半田坂(はんだざか)は長さが約110mほどの緩やかな坂です。別名を「えんま坂」といいます。坂名は、かつてこの辺りが半田塚村と呼ばれたことに由来します。半田坂は旧大山道の道筋に当たります。



坂上の左手に「赤松ぼっくり庭園緑地」があります。



「赤松ぼっくり」とはヘンな公園名ですが、園内には2ケ所に囲いがあり、その中に幹が赤い色をした松の木が植わっています。赤い松の木なんて初めてみました。



この庭園は、最高裁判所赤堤公邸跡に造られたとのことです。当時の写真を添えた案内のプレートが石の上に留められています。

世田谷区立 赤松ぼっくり庭園緑地
〜地域の願いによって、みんなでつくった緑地〜

緑地の真ん中でどっしりと構える赤松の木。かつてここにはお屋敷と呼ばれた最高裁判所赤堤公邸がありました。公邸は石積みに囲われており、建物からは趣のある庭園が望めました。公邸はなくなりましたが、この場所を緑地として残して欲しいという地域の願いがありました。たくさん、たくさん話し合って「当時のお庭の風情を残しながら、まちの財産となるような緑地にしたい」とみんなで考えました。「地域みんなの手で大切にしているこの場所を、多くの人に親しんでもらいたい」。赤松ぼっくり庭園緑地には、たくさんの想いが込められています。赤松の木はみんなの緑地を今日も見守っています。




庭園の前から坂が下っています。坂下で半田坂と合流しています。つまり、この坂は先ほどの二叉路の左側の坂になるのです。



13.凧坂

凧坂(たこざか)は長さが約90mほどのやや急な坂です。坂名は、「たこう坂」の当て字で、傾斜のやや急な坂の意味であるといわれています。



今日はこの後、桜上水の坂を巡ることにしていましたが、下高井戸駅の手前で雨粒がポツリ。直ぐに本降りの雨になり、お散歩は中断せざるを得なくなりました。天気予報では夕方頃から雨が降り出すと言っていましたが、未だお昼を過ぎたばかりです。笠を差しては写真も撮れませんので、下高井戸駅を今日のゴールとします。久しぶりに下高井戸市場を覗いてから帰ろうと思います。



ということで、世田谷区で二番目の「宮坂・代田・松原コース」を歩き終えました。次は桜上水・南烏山・給田地区の坂を巡ります。





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