世田谷区(成城・砧・大蔵・岡本コース)


踏破記


今日は前回の粕谷・船橋・祖師谷・成城コースに引き続き、世田谷区の成城地域の残りの坂と、砧・大蔵・岡本地域の坂を巡りたいと思います。前回のゴール地点である成城学園前駅からスタートします。



昨日歩いた不動坂の坂下から小田急線のガード下を抜けて突き当たりのT字路を左折します。その先で右に折れ、道なりに進みます。左手は成城三丁目9番地ですが、これが長々と続きます。住宅が途切れたところの左手に鋭角に曲がった坂が上がっています。



坂の右手は「成城三丁目崖の林市民緑地」、坂の左手は「なかんだの坂市民緑地」になっていて、坂はこのふたつの崖線の間を切り通しになって上がっています。



33.なかんだの坂

なかんだの坂は長さが約180mほどのかなり急な坂です。坂名は、昔この坂の下に中野田という田んぼがあり、中野田と崖線の上をつなぐ坂ということに因んで「なかんだの坂」と呼ばれるようになりました。坂上に案内板が立っています。「中野田」の「野(の)」が「ん」に転訛したのでしょうか?

なかんだの坂市民緑地 世田谷・みどりのフィールド・ミュージアム

なかんだの坂市民緑地は、所有者の方を含めたボランティアの方々とともに維持管理を進めています。都市ではあまり見られなくなったニリンソウやヤマアイといった、山野草が自生しています。

名の由来

この坂の下には昔「中野田」というたんぼがありました。中野田と崖線の上をつなぐ坂が「なかんだの坂」と呼ばれるようになりました。

市民緑地とは

一般財団法人世田谷トラストまちづくりにより設置・管理され、民間の方の土地を、地域の人が利用できるように公開しながら、みどりの保全を図っていく緑地です。




なかんだの坂の坂下の右手に、雑木林の間を切り通しのように土むき出しの山道が上がっています。



34.どんぐり坂

どんぐり坂は長さが約110mほどのかなり急な階段です。別名を「水道坂」といいます。坂名は、雑木林の中にブナ科のカシ・ナラ・カシワなどのコナラ属樹木が混じっていて、その果実であるドングリが拾えるような山道の坂ということに因んでいるのでしょう。ちなみに、ドングリは大量のデンプンを蓄えているために多くの動物の食料になるだけでなく、生食したり炒めたりして人間の食用にもなっています。別名の「水道坂」は、土の下に水道管が埋まっていることに因んでいます。



どんぐり坂の坂上を進み、突き当たりで右折します。右手には邸宅の風格を感じさせる超高級老人ホームの「成城歐林邸」があります。



成城歐林邸の先で右折しますと、クランク状の坂が下っています。

35.丸坂

丸坂は長さが約130mほどのかなり急な坂です。別名を「クランク坂」といいます。本当かどうか知りませんが、急坂のためにコンクリート舗装の表面に滑り止めのドーナツ形の丸い凹みが付けられていることに因んで「丸坂」という坂名になりました。別名の「クランク坂」は、坂上付近でクランク状に曲がっていることに因んでいます。どちらもまんまの坂名ですね。



坂下区間は急坂ではありますが、一直線に下っています。



丸坂の坂下から東に2ブロック進んだところから、真っ直ぐな坂が上がっています。



36.お茶屋坂

お茶屋坂は長さが約110mほどのかなり急な坂です。坂名は、江戸時代初期にこの一帯を治めていた喜多見重勝の邸宅にあった茶室に因んでいます。坂の右手は国分寺崖線に造られた成城三丁目緑地になっていて、坂上の横には緑地の入口があります。



お茶屋坂の坂上から横に歩くこと3歩で成城三丁目緑地の入口に着きます。ここも緑が濃いですね。入口の左手に緑地の地図板が立っています。



地図上に坂名が書かれています。



37.ヘビ坂

ヘビ坂は長さが約130mほどの国分寺崖線の斜面を斜めに下るやや急な坂です。坂名は不明ですが、緩やかに蛇行している形がヘビに似ているとか、崖線の坂道なので実際にヘビが出るとか、そういったことに因んでいるのでしょう。入口の奥から狭い散策路が下っています。坂の途中にはゲートがあり、夜間は立入りできないようになっています。ゲートがなくても通る気はしませんよね。



ヘビ坂の坂下の先に成城三丁目緑地の案内板が立っています。

成城三丁目緑地 世田谷・みどりのフィールド・ミュージアム

成城三丁目緑地は、多摩川が長い年月をかけて削ってできた「国分寺崖線」にある森です。もともとは国の土地で、宿舎や建物がありました。人々の暮らしをささえた雑木林や、斜面から流れ出る湧き水、竹林などがあります。

管理について

世田谷区、一般財団法人世田谷トラストまちづくり、小学校、ボランティアのみなさんが一緒に「成城三丁目里山づくりコア会議」として活動し、定期的な話し合いや管理作業を行い、みどりの保全をしています。




成城通りと世田谷通りが交差する喜多見六丁目交差点から、成城三丁目緑地と砧中学校の間に、武蔵野崖線を切り通しにした坂が上がっています。



38.病院坂

病院坂は長さが約250mほどのやや急な坂です。坂名には諸説あります。この坂の西側の崖線は江戸時代には幕府の御料地でした。そのまま明治以降は宮内庁の直轄地になり、自然を守るべく林野庁の施設ができました。農水省の土地として近年まで崖線の環境保持を続けてきましたが、現在では成城三丁目緑地となって住民が中心となって手入れをしています。この林野庁の施設以前に、明治末期から昭和の初期まで、この坂の切通しの上に伝染病の隔離施設がありました。当時は結核などの場合は隔離する対応が多かったのです。そんな時代背景から病院があることが住民には印象が強かったようで、そのためにこの坂を病院坂と呼ぶようになったといわれています。



病院坂の坂上から東に進み、成城六間通りに入ります。そのまま坂下に向かいますと、左手に東宝スタジオへの入口があります。入口の脇の建物の壁には巨大なゴジラの絵が描かれています。ナンカ、昔よりも怖い顔になっているような気がします。



石井戸橋で仙川を渡ります。

一級河川 仙川(Sen−Kawa)の由来

従来の仙川の水源であった勝渕神社前の丸池には、釜の形をした湧出口がたくさんあり、千釜と呼ばれました。また、「武蔵国名勝図絵」によると湧泉のことを釜といい、その数が多いことから千釜と呼ばれたともいいます。この千釜がなまって、仙川といわれるようになったといわれています。また、一部には、このあたりに仙人が住んでいたので、仙川という、とする説もあります。

なお、河川環境の向上を図るため、東京都(いこいの水辺整備事業)と世田谷区(水際の散歩道事業)で一体的な整備を実施しています。




石井戸橋の先で道路が左右に分かれ、どちらも上り坂になっています。先ずは左側の坂を巡ります。



39.赤土坂

赤土坂は長さが約170mほどの緩やかな坂です。坂名は、昔は赤土の切通しであったことに由来しています。今は道路の舗装が完備して、昔の面影は全く残っていません。



この坂は祖師谷通りになります。坂上の先にはウルトラマン商店街が続いています。



続いて、赤土坂の坂下から右手の坂を上がります。



40.疊屋坂

疊屋坂は長さが約150mほどの緩やかな坂です。坂名は、昔この坂に畳屋があったことに由来します。かっては、大八車を引いて坂を下りる時には、後ろに大八車を引っ張って支える人がいないと下りることができなかったという位に傾斜のキツい坂でした。坂の途中に、交差する道路があります。南西から北東方向に一直線に下っているのは都道428号高円寺砧浄水場線、通称荒玉水道道路です。道路の地下に荒玉水道の送水管が埋設されている水道道路です。送水管が直線的に敷設されているので、道路も東京では屈指の直線道路になっています。かなりの傾斜なので、水圧も大変なものでしょう。



疊屋坂の坂上から日大商学部の前を通って大蔵団地前交差点まで進み、右折して大蔵運動公園まで南下します。大蔵運動公園の地下には、戦時中に多数の防空壕が掘られていたそうです。埋め戻されたのが昨年ですから、78年もの間防空壕は戦争の記憶を留めていたんですね。

戦争の記憶〜大蔵運動公園の防空壕〜

住民を守った防空壕
空襲の危険性が高まった昭和十九年(1944年)、第二陸軍病院大蔵分院(現在の国立成育医療研究センター)に近かったこの場所に、東京都は防空壕をつくることにしました。防空壕とは、飛行機から落とされる爆弾などから、避難するための横穴のことです。この看板の後ろの斜面の3か所から掘りはじめ、枝分かれや合流しながら、1本の横穴を陸軍病院までつなげました。当時の人は、地下10m程度の位置に高さ約1.8m、幅約1.5mのかまぼこ形の横穴(右図参照)を、総延長約600mも掘り進んでいきました。この防空壕は、大いに活躍し、空襲警報が出るたびに、陸軍病院の患者や看護婦の避難に活用されました。

70年もの時を経て、埋めることになった防空壕
防空壕がつくられてから長い年月が過ぎ、安全性を確保するため、平成二十八年(2016年)から防空壕を埋めるための調査と工事を行うことになりました。防空壕の中に入って調査することができないため、地上から音波やレーザーによって位置や形状を調べ、3本の横穴と枝分かれした通路の行き止まりを確認しました。その後、地上から筒状の小さな孔を開け、その孔からモルタルを流し込む工事を行い、防空壕を埋めました。

令和四年(2022年)に防空壕の埋め戻しは完了しましたが、戦争の記憶を後世に残すと共に将来の平和を願い、この看板を作成しました。



右の写真の草道も防空壕に通じていたのでしょうか?


陸上競技場の西端に沿って、左右に少し曲がりながら坂が下っています。



41.愛宕坂

愛宕坂は長さが約140mほどのやや急な坂です。坂名の由来は不明ですが、かってこの坂の道筋は陸上競技場が出来た昭和四十五年(1970年)以前は祖師ヶ谷大蔵駅東側の山野地区からの南北の道が陸上競技場の真ん中を突っ切って、そのまま崖下の辻に落ちる坂になっていました。しかし、陸上競技場の建設によって昭和三十年代後半に道路が付け替えられ、現在のように陸上競技場の西端に沿った坂になったのです。崖下の小川の脇には、現在大蔵氷川神社の境内にお祀りされている愛宕神社があり、大蔵村石井戸の鎮守だっといわれています。この場所は「愛宕山」と呼ばれていたそうで、愛宕山を下る坂ということで「愛宕坂」の名前が付けられたのではないかというのが私の推測です。道路は付け替えられても坂名はそのまま残されたということですかね。



愛宕坂の坂下の打越辻には地蔵尊と庚申塔が祀ってあります。庚申塔は主要な道路の分岐点に置かれることが多く、ひょっとしたら愛宕坂もこの横を下っていたのかもしれません。祠の奥の壁には、「地蔵尊庚申様新築上屋根工事由来」と記した文が掲げられています。祠の前の道は鎌倉道だったんですね。

地蔵尊庚申様新築上屋根工事由来

打越辻地蔵尊は、建立年代等不明であるが、子育て・火防・盗難除け・病気平癒・身体健全とあらゆる願いを叶えてくれる神として祈願されたといわれております。今や時代も変わり子供は元より老人まで交通安全の神として広く信仰されております。庚申様は古く享保元年(1715年・今から287年前)庚申供養石像が建てられ霊験灼たかな神として大蔵村・鎌田村、村民の構成する地域共同体意識を基に維持信奉されて来たと思われます。石仏の一体は、田の神との言伝えであるが諸体は不明である。又鎌倉道の道しるべは盗難に合い今は無い。今般、中の橋際地蔵尊上屋根新築時の御奉納の一部を使わせて頂き関係諸官庁・石井工務店・い志井造園・浜村板金工芸・安藤建鉄のご好意により、この度上屋根の完成を観る事が出来ました。今日、奉賛会役員・工事関係者・近隣の皆様方を招き、祭主妙法寺住職小林教一師により鎮座祈願式を挙行致しました。




岡本運動公園の南縁に沿って切通しの坂が上がっています。

42.座頭ころがし坂

座頭ころがし坂は長さが約230mほどの左右に曲がりながら上がるやや急な坂です。坂名の「座頭」とは、江戸時代における盲人の階級のひとつで、転じて按摩・鍼灸・琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられました。今日のような社会保障制度が整備されていなかった時代に、幕府は障害者保護政策として職能組合「座」(一種のギルド)を基に身体障害者に対して排他的かつ独占的職種を容認することで障害者の経済的自立を図ろうとしました。「座頭ころがし坂」の坂名は、この坂が現在は一帯の改修によって勾配は緩くなっていますが、かっては岡本運動公園のある台地から下った急坂だったので、目の見えない人(座頭)が歩けないほどの勾配と荒れた激しい路面に難渋していたことが由来となっています。坂下は仙川に架かる清水橋で、そこから地蔵尊と庚申塔が祀られた祠の角の愛宕坂の坂下まで緩やかな坂が上がっています。



坂は祠の角で右方向に曲がり、そのまま岡本運動公園の南縁の切り通しに沿って左にカーブしながら上がっています。



坂上の先には、東名高速を跨ぐグランド橋があります。



グランド橋を渡り、道なりに進みます。グランエクレール岡本という集合住宅の角から北西に急坂が下っています。



私はこの坂が「岡本三丁目の坂」に違いないと思って次の坂に向かおうとしたのですが、待てよ?この坂には何の標識もありません。坂学会の解説には、坂上に国土交通省が設置した「関東の富士見100景」という石碑が建っていると書かれています。何かおかしいなと思ってよくよく地図を確かめてみましたら、「岡本三丁目の坂」はもっと東寄りにあることが分かりました。今度は慎重に地図を確認しながら東方向に進みます。

43.岡本三丁目の坂

岡本三丁目の坂は長さが約95m(もちょっと長そう)ほどの非常に急な坂です。別名を「富士見坂」といいます。坂名は、岡本三丁目にある坂ということに因みます。車で坂を下ろうとすると、まるで落下するかのような感覚になります。その分坂の上からの眺めは絶景で、晴れた日には富士山が眺望できます。



坂上には、「関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり」の石碑が建っています。間違いなく、この坂が岡本三丁目の坂です。あまりの急坂なので、歩行者用に階段も付属しています。雪が積もったら、転んで雪だるまになって転げ落ちますからね。



坂下のフェンスの中に世田谷百景の石碑が建っています。

せたがや百景 70 岡本三丁目の坂道

国分寺崖線には多摩川沿いに下る坂道が何本も通っています。この坂道はなかでも勾配が強く、急な坂をたどるとき国分寺崖線の斜面を実感します。坂上からは丹沢の山々も眺望できます。




岡本三丁目の坂の坂下をそのまま進みますと仙川に架かる西谷戸橋に出ます。仙川は下流に向かってひとつ先の水神橋で並行して流れる丸子川と別れ、砧南中の先の鎌田橋で野川に合流します。水神橋から北西に向かって道路が延びています。2年半ほど前ですが、この道は「六郷用水上流コース」で歩いたことがあります。少し先に永安寺があります。永安寺は、「せたがや百景 68 大蔵の永安寺」に選ばれています。山門を入ると樹齢数百年といわれる大イチョウの木が聳えています。永安寺は室町時代には鎌倉の大蔵谷にありましたが、地形も地名も似た此の地に再建されたと伝えられています。本堂右側には江戸幕府のころ書物奉行を務めていた石井一族の墓があります。六代目石井兼重は、世田谷地域での図書館の始まりとなった「玉川文庫」を創建したことで知られています。



永安寺の向かいに、「きしべの路」の案内柱が立っています。この標識はこの辺りの旧河川跡でよく目にします。

鎮守の森と農村風景

暦仁元年(1238年)に建立された大蔵氷川神社の奉納されている1枚の板絵には、六郷用水で洗濯をする女性や、正月の参拝人など、当時の農村生活の様子が生き生きと描かれています。また、この周辺の土地を守る神が奉られた森では柊の老木やその周りに絨毯のように舞い落ちる落ち葉が今でも当時をしのばせています。




永安寺の西側の塀に沿って坂が上がっています。



44.新坂

新坂は長さが約140mほどの緩やかな坂です。坂名の由来ははっきりしませんが、何時の時代か新しく拓かれた坂ということで名付けられたのでしょう。坂上には今となっては懐かしい簡易的な火の見櫓が建っています。国分寺崖線の崖上に位置していますので、火事の現場を見つけるには絶好の場所だったのでしょう。



水神橋に戻り、丸子川の緑道に沿って進みます。



ここにも「きしべの路」の案内柱が立っていますが、案内文は剥がれて読めませんでした。



堂ヶ谷戸橋の先に坂が上がっています。



45.堂ヶ谷戸坂

堂ヶ谷戸坂は長さが約110mほどのかなり急な坂です。坂名の由来ははっきりしませんが、かって「堂ヶ谷」と呼ばれた国分寺崖線の谷があって、その崖地の入り込んだところを意味する「谷戸(やと):丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形」の坂ということに因んで名付けられたのではないかといわれています。



堂ヶ谷戸坂の坂上で次の坂をどこにするか迷います。計画では、次に砧公園にある八季の坂に行く予定でしたが、丸子川沿いの坂を先に巡った方が効率的なようにも思えます。暫く考えた末に、とりあえず一番近い八幡女坂に行くことにしました。八幡女坂は民家園のある岡本公園の脇を通っています。岡本公園は以前も訪れたことがありましたね。



民家園に立寄ってみます。



岡本公園の中に復元された昔の民家はせたがや百景にも選ばれています。

せたがや百景 72 岡本民家園とその一部

復元されたかやぶきの民家は、18世紀末に建てられた旧長崎家の母屋を増改築したものといわれています。国分寺崖線の雑木林によく溶け込んでいます。民家園では、四季折々の年中行事が再現され、広く区民に開放されています。




民家園と同じ敷地に岡本隧道の跡が残っています。

世田谷の誇る歴史遺産 岡本隧道

この案内板から右50m先、 民家園の左奥に石垣囲いの蒲鉾型の扉があり、「岡本隧道」という字が刻まれています。隧道とはトンネルのことで、扉の中は、高さ2m、幅2.5mのトンネルになっていて、そこには直径80cmもある送水管が通っていて、その長さは120mにも及びます。大正10年(1921年)、当時の豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区)では、多摩川の水を町に引き込もうと、大規模な水道工事を始めました。粘下浄水場で取水・浄化した水は駒沢給水所・三軒茶屋を経て渋谷に至り、地下の送水管は南西から北東へ直線的に世田谷を跨いでいます。水は、駒沢給水所までは揚水ポンプの力で高く持ち上げられ、給水所から渋谷までは自然の重力で送水されました。砧下浄水場を出てすぐに、この岡本の台地を横断しますが、揚水ポンプの負荷を少なくする工夫として送水管専用のトンネルが利用されました。これらは、大正12年(1923年)に竣工した近代水道の建造物であり、今でも珍しい施設で、極めて貴重な歴史遺産です。




岡本公園の東隣に静嘉堂文庫があります。

せたがや百景 73 岡本静嘉堂文庫

旧三菱財閥の故岩崎弥之助・小弥太氏によって収集された膨大な文化財の収集館です。和漢20万冊の古典籍を保存し、永く後世に伝えることを使命として活動している専門図書館です。美しい庭は、自由に散策できます。




八幡橋の先に、民家園と静嘉堂文庫の間を緩い階段風の坂が上がっています。坂は途中で左に折れて岡本八幡神社に階段で上っています。坂学会ではこの八幡神社に上がる階段部分のみを八幡女坂としていますが、八幡神社正面の男坂と対比するのであれば、八幡橋から先の階段風の坂も含めた方が妥当なように感じます。



46.八幡女坂

八幡女坂は長さが約60mほどのクランク状に曲がる階段です。別名を「おんな坂」といいます。坂名の由来は、八幡神社の正面石段を男坂として、こちらの傾斜の緩い坂を女坂と呼んだと推測されます。


右側の写真の古い石段はかっての八幡女坂の一部だったのでしょうか?


帰りは八幡男坂を下ります。急角度で下りていて踊り場もなく、これぞ男坂といった感じです。



男坂の階段下から鳥居を潜った先の民家の前に石碑が建っています。



石碑の指し示す右方向に進んだ先で、先ほど通った八幡橋の先の階段風の坂に合流します。やはり、そこから八幡女坂が始まっているとする方がよさそうです。



この先、近くに駅もないことだし、今日は民家園の前にあるバス停でお散歩を終了したいと思います。



ということで、世田谷区で五番目の「成城・砧・大蔵・岡本コース」を歩き終えました。次回は岡本地域の残りの坂と、瀬田・上野毛・深沢地域の坂を巡ります。





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