世田谷区(等々力・尾山台・上野毛コース)
踏破記
今日は前回の岡本・瀬田・上野毛・深沢コースに引き続き、世田谷区の等々力・尾山台地域の坂と、上野毛地域の残りの坂を巡りたいと思います。今回が「東京23区の坂道を歩く」の最終回となります。前回のゴール地点である深沢不動前バス停からスタートします。
駒沢公園通りと駒沢通りの交差点の北西側の角に深沢不動堂(正確には、深沢不動教会といいます)があります。明治時代に当時の深沢村で成田山信仰の機運が高まり、村内にも成田山の本尊を模した不動明王を祀ったお堂を建てようという動きが出ました。明治三十一年(1898年)に地元の秋山紋兵衛が発起人になり、村内の多くの人が協力して隣接する医王寺の境内仏堂として深沢不動堂が建立されました。戦後、昭和二十七年(1952年)に深沢不動教会として医王寺から独立しましたが、今でも医王寺とは関係が深いそうです。
門前の石の台座の上に狛犬が鎮座していて、その右手に小さな地蔵堂が建っています。狛犬と地蔵堂の間には地蔵座像と庚申塔があります。この地蔵座像は昔から「だんご地蔵」と呼ばれてきた丸彫の石像です。造立は宝暦十三年(1763年)で、土台が道標になっています。右面には「江戸みち」、正面には「さがみ海道」、左面には「せたかや道」と彫られています。この地蔵がだんご地蔵と呼ばれたのには逸話があります。昔、子供達はこの境内でよく遊んでいましたが、当時の深沢村は貧しくてお地蔵さまには何のお供え物もありませんでした。そこで子供達は草を石で叩いてお団子に似せた丸い塊を造り、お地蔵さまに供え、折に触れて願い事を託してお祈りをしていたといいます。そういう子供達の習慣から「だんご地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられています。
駒沢公園通りを等々力方向に南下し、等々力三丁目交差点で目黒通りに合流します。目黒通りが交差点の先から満願寺の手前まで坂になって下っています。
- 59.満願寺坂
-
満願寺坂は長さが約210mほどの緩やかな坂です。坂名は、坂下にある「満願寺」に由来しています。坂の中ほどに「玉川神社」があります。玉川神社は、文亀年間(1501年〜1504年)に、世田谷城城主吉良頼康が熊野大社の分霊を勧請して創建しました。当初の名称は「熊野神社」でしたが、明治四十一年(1908年)に、近くの「天祖神社」・「諏訪神社」・「御嶽社」を合祀し、「玉川神社」に改称されました。
玉川神社は、せたがや百景の「97 等々力の玉川神社とその周辺」にも選ばれています。
玉川神社
祭神 伊弉諾尊、伊弉再尊、天照皇大神
例祭 九月二十八日
文亀年間(1501年〜1504年)に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、別当は、満願寺で等々力村の鎮守であった。明治五年に村社に定められ、同四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御嶽神社を合祀した。境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。
境内には、世田谷区の名木百選にも選ばれている下半身が超メタボな楠木が聳えています。どうやってこんなに肥満になったのでしょうか?
万願寺は平安時代末期の創建とされ、文明二年(1470年)に吉良氏の祈願寺として世田谷城の出城だった深沢の兎々呂城(とどろき:現在の都立園芸高校)に再興され、天文年間に現在地に移転されました。日本三体地蔵といわれた満願寺の一言地蔵尊は講堂に安置され、一言祈願すると願いが叶うといわれています。せたがや百景「96 等々力の満願寺」にも選ばれています。「寺内」って誰のこと?
致航山 満願寺(新義真言宗智山派)
文明二年(1470年)吉良氏によって開基され、開山は定栄和尚、本尊は大日如来である。江戸時代には、御朱印寺領十三石が与えられていた。山門の額は細井広沢、本堂の額は広沢の子九皐(きゅうこう)の筆である。細井広沢は、元禄年中その学識をもって柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川(ぎょくせん)と号した。当代の代表的名筆家として知られている。寺内の墓は国の史跡に指定されている。
江戸時代に万能の天才といわれた細井廣澤の墓所は本堂の北西にあるそうです。門前に史跡の石柱が建っています。
山門の扁額「致航山」は細井廣澤の書で、本堂の扁額「満願寺」は細井廣澤の子である細井九皋の書です。
境内に満願寺の縁起を記した案内板が掲げられています。
満願寺 縁起
致航山感應院満願寺は真言宗智山派の名刹で、本尊は金剛界大日如来、開創は平安末と伝えられる。室町時代に吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城に祈願寺として現在地に移され中興された。山号を醫王山から致航山に改め、このときに本尊は薬師如来から大日如来となった。徳川幕府より寺領十三石を得、総本山に代わって仏教、密教を教え伝える灌頂道場でもあり常法(談)林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式を持つ寺である。現在の山容は昭和四十五年に落成した昭和を代表する名建築。設計は現代数寄屋建築の第一人者吉田五十八氏。昭和六十二年に境内西側に講堂が完成。また客殿の北側には総檜造りの大塔が聳え静謐(せいひつ)な宗教空間を醸し出している。大塔の本尊は胎蔵界大日如来が虚空に浮かぶ中台八葉院に安置されている。講堂の本尊は八頭の獅子座に座る一字金輪如来。講堂の一隅には一言祈れば願いが叶うという日本三体地蔵の一言地蔵が祀られ多くの参詣者が訪れる。境内北側には薬師如来を祀る瑠璃光院薬師堂があり東隣には玉川神社(旧熊野権現)があり明治までは満願寺が別當を勤める。ご本堂北側には東京都史跡、江戸時代の万能の天才、細井廣澤の墓がある。山門の額「致航山」は廣澤の書。本堂の「満願寺」は廣澤の長男、九皋の書。当山には廣澤の遺品が数多く伝わる。なお兎々呂城を「ととろき」と読むところから等々力という地名の由来という一説あり。平成二十五年(2013年)から平成の大改修を行い、本堂、客殿の大屋根をチタンに葺き替えと大塔檜皮の葺き替え創建当初の美しい姿を甦らせた。日本全国に名前の轟く等々力不動尊は満願寺が管理し、同じくご本堂の瓦の葺き替え、舞台の改修、山門の解体修理なども終わり、大般若経六百巻の造顕し、来る今和五年(2023年)に迎える弘法大使(師?)ご生誕1250年記念大聖業として境内整備を行っている。
満願寺から尾山台に向かいます。尾山台駅の駅前通り「ハッピーロード尾山台」は、平成元年(1989年)の商店街道路改造工事完成を機に「尾山台商栄会」が付けた愛称です。東急大井町線尾山台駅の南側から環八通りまで約400m続き、コンビニや名の知れたチェーン店が点在する中、昔ながらの理容室や時計店・惣菜店・精肉店など、古くから住む人たちには馴染み深い店も建ち並び、親しみやすい商店街になっています。
尾山台交差点で環八通りを横断して住宅地の路地を進みます。3ブロック先で右折しますと、その先に急な坂が下っています。23区の坂の中でも有数の急勾配の坂です。
- 60.向田坂
-
向田坂(むこんでざか)は長さが約50mほどの非常に急な坂です。坂名の由来は、かっては坂下の田んぼに向かう坂道であったことに因んでいます。向田坂に向かい合っている階段坂を「向田坂」とする説もあるようです。
向田坂の坂下の道路を挟んで、階段が向かい合っています。
- 61.地頭坂
-
地頭坂は長さが約35mほどの急な階段です。坂名は、ここが「地頭山」と呼ばれていることに由来します。地頭坂を「向田坂」とする説もあるようです。
階段の上から眺めますと、向田坂と地頭坂を合わせて擂鉢状になっているのが見て取れます。
向田坂の坂上に戻って、住宅地の中を東に進みます。この辺りにはいたるところに坂があります。「尾」は屋根に通じ、「山」と「台」は高台を意味しています。坂だらけなのはもっともです。環八通りの尾山台一丁目交差点から南に1ブロック進んだところから、丸子川に向かって長い坂が下っています。
- 62.寮の坂
-
寮の坂は長さが約330mほどの下り坂です。最初は緩やかな勾配をしていますが、途中の宇佐神社の辺りのクランク状の曲がり角付近でやや急な坂になっています。宇佐神社は、永承六年(1051年)に源頼義が前九年の役に出征する際に此の地で勝利を誓い、成就したことで、凱旋の途中に立ち寄って八幡社を建てたのが起源となっています。
寮の坂は別名を「堂の坂」といいます。坂名の由来は、江戸時代に坂の東側に傳乗寺の本堂や学寮があったことに因んでいます。傳乗寺の創建年代は不明ですが、16世紀末頃といわれています。山門の奥に聳える木造の五重塔は平成十七年(2005年)に新しく建立されました。
坂上の二叉路の角に、道標を兼ねた坂名の石柱が建っています。その隣の植え込みの中には、坂名の由来を記した案内板が置かれています。
寮の坂由来
松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(1316年)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人は、寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主太平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたともいい伝えられている。さらに時代は下り江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。
寮の坂の坂下にある丸子川に架かる八幡橋から上流に向かって進みます。目黒通りを越えた先で、丸子川と矢沢川が交差しています。かっては、丸子川の前身である六郷用水は谷沢川の上を伏せ越しで交差していましたが、現在の丸子川はここで谷沢川に合流して一旦途絶えます。この合流点よりも下流の丸子川には、谷沢川から人工的に汲み上げた水を流しているそうです。順を追って説明します。
@上流から流れてきた丸子川の水は野毛一丁目5番地で地下トンネルに流れ込みます。
A上流から流れてきた谷沢川の水は橋の下を通り、トンネルから出てきた丸子川の水と合流して下流に向かって流れ出します。
Bそうすると橋から下流の丸子川には水が流れないことになりますが、橋の袂にあるポンプで定期的に谷沢川の水をくみ上げ、それを丸子川の下流に流しているのです。
大きな河川だと平面交差しても問題ないのでしょうけど、こういった小さい川が平面交差すると大雨で増水した時に水がぶつかり合って溢れ出してしまうのでしょうね。橋の西方約50mの丸子川に架かる天神橋の先から坂が上がっています。
- 63.浄音寺坂
-
浄音寺坂(じょういんじざか)は長さが約130mほどの緩やかな坂です。江戸時代に付近に「浄音寺」というお寺がありましたが、天保の頃に焼失してしまい、今では20基程の墓石だけが残っています。坂名は、この浄音寺に由来しています。
坂の途中に、坂名を記した石柱が建っています。
坂の左手に、コンクリートブロックの塀で隔たれた墓地があり、墓石が並んでいます。真新しい墓石や卒塔婆が見られますが、お寺がなくなったのに、どうやって管理しているのでしょうか?
天神橋から玉根橋に戻ります。玉根橋の北側から目黒通りが等々力不動尊まで上り坂になっています。
- 64.等々力の坂
-
等々力の坂は長さが約320mほどの緩やかな坂です。坂上には、等々力不動尊があります。等々力不動尊は滝轟山明王院と称し、ここから「等々力」の旧村名が生まれ、坂名の由来となりました。等々力不動尊は関東三十六不動霊場の第17番になり、先ほど訪れた満願寺の別院になります。本尊は不動明王で、寺の伝承によれば不動像は1300年前の作とのことです。800年前に興教大師が武蔵国に不動明王像を安置する場所を探し続け、豊富な水量を流す此の地の滝を見て霊地と悟り、不動堂を創建したのが始まりであると言われています。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿と山門は満願寺より移築したものです。
等々力不動尊に隣接して等々力渓谷があります。東京23区内では貴重な自然湧水による滝や豊かな動植物が見られるスポットになっていて、せたがや百景の「95 等々力渓谷と等々力不動」に選ばれています。山門前に案内板が立っています。
等々力渓谷
等々力渓谷は谷沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(竜頭滝)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動堂本尊は、新義真言宗の宗祖興教大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。
境内には等々力渓谷を高台から一望できる展望台があり、緑に包まれた渓谷が目にも鮮やかです。渓谷の底には遊歩道が整備されていますが、下から見上げても展望台は見えません。それほど木々が密集しているのです。
東京都指定名勝 等々力渓谷
等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都区内唯一の渓谷である。台地と谷との標高差は約10メートルあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役の行者ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷保存会によって行われている蛍祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿の池湧水群」(国分寺市西元町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。
等々力不動前交差点を左折して、目黒通りから環八通りに入ります。
環八通りに面して等々力渓谷の入口があります。ここは「おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)」のコースになっています。
等々力渓谷 東京都指定名勝
等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1kmの東京23区内唯一の渓谷です。谷沢川沿いには、武蔵野の代表的な植生であるケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。玉沢橋(環状8号線)あたりは、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々力渓谷第3号横穴)があります。さらに、渓谷の南端には桜の名勝として知られている等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります。等々力不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成十一年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。
等々力渓谷三号横穴は「東京の河川を歩く 矢沢川」で訪れましたので、今日はパスします。環八通りの玉沢橋からは渓谷の遊歩道を散策する人達が豆粒のように見えます。
第三京浜玉川インターの先の環八通りに明神坂上歩道橋が架かっています。その手前で左折しますと、擂鉢状の坂が見えます。といっても、これは無名の坂です。趣のある坂なんですけどね。
- 65.明神坂
-
明神坂は長さが約150mほどのかなり急な坂です。坂上から西方向に下り、途中で南西方向に向きを変え、坂下では再び西方向に向かって丸子川に架かる明神橋まで急坂が下っています。坂名は、昔坂上に六所明神が祭られていたことに由来します。明治三十一年に神社を野毛二丁目に移転し、野毛の神社となり、六所明神が祭られていたことでこの社名が着きました。現在では、明神坂・明神池・明神橋・六所東などにその名称が残っています。
坂の途中の曲がり角に、坂名を記した石柱が建っています。
丸子川を上流方向に向かいますと、上野毛自然公園の西側に沿って通る上野毛通りに稲荷橋から坂が上がっています。
- 66.稲荷坂
-
稲荷坂は長さが約190mほどのやや急な坂です。途中で緩やかに左右にカーブしています。
坂名は、坂の途中の左手に稲荷社があることに因んでいます。稲荷神社は、かつては「野毛六所神社」と共に上野毛村の鎮守を担い、現在は上野毛全域の鎮守となっています。上野毛通りの稲荷坂の途中の崖を切り崩して鎮座しているのが特徴です。
ゴール地点の上野毛駅に着きました。
ということで、世田谷区で最後の「等々力・尾山台・上野毛コース」を歩き終えました。23区の坂巡りは今回で最後ですが、巡回セールスマンの仕事は未だ終わっていません。それぞれの区と区の間が未踏破なのです。これらを全て繋げないと巡回ルートは完成しません。次回からは区と区を繋ぐ未踏破区間を歩きます。
戻る