立ち呑み晩杯屋 (七日目)
踏破記
今日は晩杯屋巡りの七日目です。昨日の中断地点である大井町駅から今日の歩きをスタートします。
今日の最初の晩杯屋は田町の慶応仲通りにあります。大井町駅東口からJRの東京総合車両センターを横目に見ながら線路沿いの高台を品川方面に歩きます。東京総合車両センターは、平成十六年(2004年)6月1日にJR東日本の山手電車区車両基地と車両工場の大井工場が合併して発足しました。東京総合車両センターは東と西のエリアに別れています。車両基地部分(旧・山手電車区)は東エリアと呼ばれ、山手線で使用される全ての電車および試験車・事業用車が配置され、日夜定期検査や臨時修繕などが行われています。車両工場部分(旧・大井工場)は西エリアと呼ばれ、日本国有鉄道(国鉄)時代から、東京地区の電車を専門に、検修・改造などを行っています。手前を通過しているのは京浜東北線と東海道線の電車です。
目黒川を渡ります。目黒川は、この先で東京湾に注いでいます。蛇足ですが、河口付近は古くは「品川」と呼ばれていました。目黒川の流路が湾曲して流れが緩やかだったため、古代の武蔵国では湊に適していおり、交易が盛んな港町として栄えたことで、いろんな品物が飛び交う場所、つまり「品」の行き交っていた川であったことから、「品川」という地名が起こりました(諸説があります)。
国道15号(第一京浜)に出ます。国道15号と並行して走る京浜急行の新馬場駅の向かいの小高い丘の上に品川神社が鎮座しています。品川神社は元准勅祭社として東京十社のひとつになっています。准勅祭社とは、明治元年(1868年)に明治天皇がそれまでの畿内二十二社などの勅祭社に併せて東京近郊の主だった神社十二社を東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社として定めたものです(その後、遠隔地のふたつの神社を除いて十社となりました)。また、東海七福神の一社として大黒天を祀っています。
高輪ゲートウェイ駅は令和二年(2020年)に開業しましたが、開業当時は駅周辺は広大な空き地が広がっていました。それが現在ではタワークレーンが林立し、2024年の街開きに合わせてオフィスやホテル・商業施設を含む高層ビル7棟が完成する予定とのことです。
ちなみに、高輪という地名は「高台にあるあぜ道」に因んでいるとのことです。
港区旧町名由来板 高輪
この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東禅寺など多くの名跡があります。
The origins of old town names in Minato-ku Takanawa
This area used to be called Taka-nawate because it was located on a height ("taka") and was running along the "nawate-michi" road. The name Taka-nawate was later shifted to Takanawa. The area was developed early in the Edo era as the Tokaido Highway was improved and maintained. There are several famous sightseeing spots in the area:
Takanawa-okido Gate, Ganshoji Temple, Sengakuji Temple, Tozenji Temple, and others.
ちなみに、高輪大木戸とは、宝永七年(1710年)に東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡です。木戸は始め、元和二年(1616年)に札の辻に芝口門が建てられ、高札場が置かれましたが、その後700メートル南の場所に移転し、高札場として大木戸が設けられました。木戸は、始めは街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて治安の維持と交通規制の役割を果たしました。木戸の大きさは、両脇に長さ五間(9メートル)・幅四間(7.2メートル)・高さ一丈(10尺=3メートル)の石垣で、間に柵と門が設けられました。
慶応仲通り商店街にはふたつの出入口があります。国道1号桜田通りに面した慶應大学向かいの出入口と、国道15号第一京浜に面した都営地下鉄浅草線三田駅地上の出入口です。道幅3メートル強の細い路地に様々な商店が並ぶ慶応仲通り商店街には、飲食店・居酒屋・ラーメン屋・カラオケ店などが密集し、慶大生やビジネスマンで昼夜ともに賑わっています。
- 19.立ち呑み晩杯屋 田町店
-
晩杯屋田町店はそんな慶応仲通り商店街の真ん中辺りにあり、小ぶりながら存在感を放っています。2階には座り席もあり、毎夜毎夜学校帰りに学生談義に花を咲かしているのでしょう。でも、慶大生なら銀座の高級バーかな?
国道15号第一京浜を新橋方向に進みます。烏森口の手前からJR線の高架沿いに進み、ニュー新橋ビルの正面に出ます。ニュー新橋ビルは昭和四十六年(1971年)2月に竣工し、地下1階から4階に飲食店・商店・金券ショップ・マッサージ店・占い店などの主としてサラリーマンを客層とする店舗が入居しています。1日の来場者は1万人を超え、特に商業区画の雰囲気には独特なものがあり、おやじビルとの愛称があります。トイレは珍しく有料となっています。ビルの老朽化や耐震性の問題もあって建て直しが計画されていますが、2023年現在でも具体的な計画はなされていないようです。
ニュー新橋ビルと新橋駅日比谷口改札に面して、新橋駅の待ち合わせスポットになっている新橋SL広場(正式名は新橋駅西口広場)があります。昭和四十六年に広場的に整備されましたが、正式には道路の一部になっています。広場の端っこに保存されるSLは、C11−292で、昭和四十七年に鉄道発足100周年を記念して国鉄から港区へ無償貸与されました。C11−292は終戦間近の昭和二十年2月11日に日本車輌名古屋工場で製造され、大阪鉄道管理局内の姫路機関区に配属されて播担線や姫新線などで活躍しました。ボイラー上部の蒸気溜や砂溜が角張ってかまぼこ形になっているのが特徴で、物資不足の太平洋戦争による戦時体下で大量生産できるように製造を簡略化した、いわゆる戦時型(鉄道省時代の製造)の機関車でした。最初から最後までひとつの機関区に所属という珍しいSLで、走行距離は108万3875kmにも達しました。昭和四十七年10月14日から新橋駅前に保存されています。1日に3回、12時・15時・18時に汽笛を鳴らしています。聞いたことはありませんが。
- 20.立ち呑み晩杯屋 新橋SL広場店
-
晩杯屋新橋SL広場店は、新橋駅日比谷口改札から線路沿いに外堀通りに抜ける小道に面しています。どう見てもSL広場には面していません。お店はガード下にありますので、席は1階だけのようです。ひっきりなしに走る山手線・京浜東北線・東海道線の電車の音を聞きながらの1杯は旅情をかき立ててまた格別かも。
外堀通りを渡った先のガード下には、新橋ガード下横丁があります。2018年3月に誕生し、コンセプトは“新しい大人の溜まり場”なんだそうです。焼鳥・お鮨・貝炉端・鉄板焼き・餃子・おばんざい・ジンギスカン・スナックなど、10店舗が並んでいます。
銀座コリドー街は、有楽町駅と新橋駅間の高架下にある道路に面した飲食店街です。粋な居酒屋・オイスターバー・世界各国の料理が楽しめるバーやレストランなど、洗練されたお店がずらりと並んでいます。一方、銀座裏コリドー飲食店街は銀座コリドー街の奥の文字通り道路に面していない高架下にあります。2019年11月にオープンし、銀座コリドー街の良さを引き継ぎつつ、話題のお店も取り入れたスポットになっています。ちなみに、銀座コリドー街の住居表示は「中央区銀座」であるのに対し、銀座裏コリドー街は「千代田区内幸町」になります。
有楽町産直横丁は、JR高架下耐震工事計画により2018年7月に閉鎖された前身の「有楽町産直飲食街」を経て、生産者を活性化する産直の場として2019年12月14日に再オープンしました。魚・貝・牛・鶏・豚の食材別専門店と地方別ご当地酒場全11店舗が集結しています。
鍛冶橋交差点から外堀通りを東京駅八重洲口に向かいます。鍛冶橋は江戸城の鍛冶橋門から外堀に架けられていた橋でした。
鍛冶橋門跡
鍛冶橋門は、寛永六年(1629年)に築造されました。門に附属する鍛冶橋は、現在の丸の内二・三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来します。また、江戸時代初期、御用絵師の狩野探幽の屋敷がありました。門内には大名屋敷が立ち並び、幕末には、津山藩(現在の岡山県)松平家、土佐藩(現在の高知県)山内家が付近に上屋敷を構えていました。明治六年(1873年)に鍛冶橋門は枡形石垣を残して撤去されました。橋は、明治九年(1876年)にアーチ橋として再建されましたが、終戦後の瓦礫処理で外堀が埋め立てられた際に、橋も姿を消しました。現在は「鍛冶橋架道橋」・「鍛冶橋交差点」にその名前が残っています。
Remains of Kajibashi-mon Gate
Kajibashi-mon Gate was built in 1629. Kajibashi Bridge, the bridge leading to the gate, connected current-day Marunouchi 2-chome and 3-chome with Yaesu 6-chome in Chuo-ku. The name comes from Minami Kajimachi, the neighborhood outside of the gate of Sotobori Moat (present-day Yaesu 2-chome and Kyobashi 2-chome in Chuo-ku). The residence of Kano Tanyu, official government painter, was located here in the early Edo Period. Inside the gate stood rows of daimyos' (feudal lords') residences. The Matsudaira clan of the Tsuyama Domain (current-day Okayama Prefecture) and the Yamauchi clan of the Tosa Domain (current-day Kochi Prefecture) built their main Edo residences in this area near the end of the Edo Period. Kajibashi-mon Gate was demolished in 1873, leaving only its square-stone walls. The bridge was rebuilt in 1876 as an arched bridge, but it disappeared as Sotobori Moat was filled in along with
other rubble after WWII. The name remains today in "Kajibashi Kadokyo (Overbridge)" and "Kajibashi Kosaten (Intersection)".
長らく建設中だった東京ミッドタウン八重洲は2023年3月10日にグランドオープンしました。外堀通りに面して高層のビルが少なかった東京駅八重洲口ですが、今や景観は一変しました。地上45階・高さ240mの超高層八重洲セントラルタワービルには、オフィス・高級ホテル・店舗・バスターミナル、それに中央区立城東小学校が入居しています。
八重洲地区では、東京ミッドタウン八重洲の他に2地区で再開発工事が進んでいます。八重洲一丁目東B地区では、地上54階・高さ250mの超高層ビルが建設中ですが、工事現場で梁の落下事故があり、現在は工事が中断しているようです。
今日は門前仲町の晩杯屋まで行こうかと思ったのですが、途中で寄り道をしたために東京駅八重洲北口から帰宅することにします。そのまま行けば無駄に回り道することもなかったのですが。。。
戻る