立ち呑み晩杯屋 (八日目)
踏破記
今日は晩杯屋巡りの八日目です。昨日の中断地点である東京駅八重洲北口から今日の歩きをスタートします。
今日の最初の晩杯屋は門前仲町のお店。。。の筈でした。ところが何を勘違いしたのか、亀戸の晩杯屋の方が門前仲町のお店よりも東京駅に近いと思い込んでいました。東京駅から永代通りを門前仲町まで進み、そのまま永代通りを日曹橋交差点まで行って明治通りを北上すれば亀戸に行けます。亀戸から再び明治通りを日曹橋交差点まで戻り、荒川に架かる清砂大橋を渡れば西葛西の晩杯屋まで一本道で行けます。ということに気付いたのは、亀戸の晩杯屋から門前仲町の晩杯屋への道筋を確認している時でした。日曹橋交差点から門前仲町までの片道分と東京駅から門前仲町までの距離を比較すればその差は一目瞭然です。ま、別に距離が伸びてもお散歩には変わりありません。勘違いしたまま、日本橋交差点から中央通りを北上します。日本橋の手前で大規模な再開発工事が進行中です。日本橋一丁目中地区第一種市街地再開発事業は、日本橋・江戸橋に接した約3.9haの区域の日本橋川沿いの街づくり強化の中心とも言える大規模プロジェクトです。第二江戸橋ビル・江戸橋ビル(りそな銀行日本橋支店)の【C街区】には、地上52階・地下5階・高さ約284mの超高層複合施設が計画されていて、オフィス・大規模カンファレンス・ビジネス支援施設・国際水準のホテルなどが入居予定になっています。現日本橋一丁目三井ビルディング(COREDO日本橋)のD街区とは地下通路で連絡されます。【A街区】区域内の歴史的建造物である日本橋野村ビル旧館は保存・保全され,【B街区】には水辺のにぎわいを形成する親水広場や商業施設が開発される予定です。日本橋発着のクルーズが楽しめる日本橋船着場も増設・拡充される予定で、日本橋の歴史・文化を象徴する景観を活かした街づくりが計画されています。
日本橋は江戸時代に五街道の起点として定められました。ちなみに、日本橋のシンボルになっている麒麟の像は、日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、それまでの麒麟の作品には見られなかった羽を付けることになり、翼と背びれとを検討した結果、羽が生えたような形の背びれを採用することになったとのことです。麒麟は動物園で見るキリンだとばかり思っていたのですが、本当は中国の神話に現れる伝説上の動物(瑞獣)だったんですね。
重要文化財
日本橋 附東京市道路元標(一基)
日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。現在の日本橋は、明治四十四年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名
の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。また、附(つけたり)指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
Important Cultural Property of Japan
Nihonbashi Bridge Including the Zero Milestone of Japan
It has been reported that the Nihonbashi Bridge was first built in 1603, the year TOKUGAWA, Ieyasu established the shogunate in Edo. In the following year it was designated as the origin point of the five national roads administered directly by the shogunate (Tokaido, Nakasendo, Oshu Dochu, Nikko Dochu, Koshu Dochu). The bridge stood in the central district, where was the busiest commercial city of Edo with rows of bustling fish markets and wholesale shops. along with the Nihonbashi River. The bridge that stands today is a Renaissance-style double-arch stone structure built in 1911, and one of the few Meiji-era stone bridges left in Tokyo. It is 49.5 meters long and 27.5 meters wide. The bridge has ornate cast-copper columns decorated in a mix of Japanese and European Styles.Most of all, the bronze statues of kylins (a kylins is an imaginary creature in ancient China) and the lion holding the Tokyo municipal emblem were originally designed by architect TSUMAKI, Yorinaka, which are regarded as high-leveled design art works (Original mold: WATANABE, Osao, Cast: OKAZAKI, Sessei). The bridge name inscribed on the oyabashira (thick posts located at both edges of bridge) is modeled on calligraphy by TOKUGAWA, Yoshinobu, the 15th and last Tokugawa shogun.
The Zero Milestone of Japan which is included in the national cultural property designation used to be positioned at the center of the bridge until 1967, together with the post for aerial wires for a tram line. Now it was relocated to the open space at the northwest side of the bridge. The Zero Milestone plaque was embedded in and at the center of the bridge deck pavement in 1967 with an inscription modeled on calligraphy by then-prime minister SATO, Eisaku, and also there is the replica of the plaque at the edge of the bridge on the northwest side.
元標の広場には日本国道路元標の碑が置かれています。
日本国道路元標
日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国重要文化財に指定されています。
日本橋を渡った先に三越本店の巨大な建物があります。正面から見ると船の舳先のようです。
三越本店
三越は、延宝元年(1673年)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正三年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和二年に復興するが、更に昭和十年全館の増改築が完成し、現在見られるような規模となった。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。
歩道の脇に古めかしい石碑が建ち、その横に石碑の碑文を解説した案内板が立っています。
都重寳 石町時の鐘
江戸時代當初の時の鐘で、初め江戸城にあり、二代将軍秀忠の時是を石町に移し、地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され、幕末まで石町時の鐘として親しまれた。鐘楼櫓下では蕪村等が夜半亭と号して誹諧の集ひをしていた事は有名である。傳馬町牢に於ける處刑時もこの鐘を合図に執行されたが、定時に鳴るべき鐘が處刑者の延命を祈るが如く、その都度遅れたとあって、一名情けの鐘とも傳へらる。現鐘は旧楼焼損後、寛永八年に改鋳したもので、銘に寛永辛卯(かのとう・しんきんのうさぎ)四月中浣鋳物師大工椎名伊豫藤原重休とある。昭和五年九月石町寳永時鐘々楼建設会に依り、十思公園に移され、廿八年十一月都重寳に指定さる。
傳馬町牢屋敷跡
大安楽寺・村雲別院・身延別院・十思小学校及び十思公園を含む一帯の地は、江戸時代の傳馬町牢屋敷跡である。牢屋敷は慶長の頃、常盤橋際より移り、明治八年五月市ヶ谷囚獄が出来る(迄)存した。幕末の時、牢屋頭に大番衆石出帯刀御(木に豕:チョ)御用山田浅右衛門がつとめた。當時勤王志士九十六名が處刑されている。
吉田松陰先生終焉之地
長門の藩士吉田松陰先生は兵学に通じ、憂国慨世(世間の現状に怒りを感じ、その成り行きを心配すること)の念篤く、萩の松下村塾で多くの人士養成は遂に有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名といふ著名士を出した。先生は國事を論じた罪により、安政六年七月傳馬町牢に囚はれ、同年十月二十七日時三十歳にて惜しくも最期をとげた。
隅田川に架かる両国橋を渡ります。両国橋は江戸時代に隅田川で2番目に架けられた橋で、その当時は武蔵国と下総国のふたつの国をつなぐ橋だったので、いつしか「両国橋」と呼ばれるようになりました。人が集まる場所でしたので、両国の花火が打ち上げられるようになったといわれています。両国橋の親柱には人工衛星の形をした大きな石球が置かれています。これは地球儀をイメージして作られたのだそうです。
両国橋を渡った先の右手に両国橋児童遊園という名前の小さな公園があり、案内板や石碑が置かれています。右端の案内板には両国橋を架橋した際に川底に打ち込まれた「百本杭」について記してあります。土木機械のない時代、流れの急な河川に長い橋を架けるのは大変な工事だったことでしょう。
両国橋と百本杭
両国橋の風景を持徴づけるもののひとつに、百本抗があります。昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川・中川・綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ抗の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本抗の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治十七年(1884年)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本抗を示しています。明治三十五年(1902年)に幸田露伴は「水の東京」を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本抗の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの抗は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
葛飾北斎は、生涯の殆どを墨田区で過ごしました。といっても、一箇所に定住していたわけではなく、生涯に93回も転居したそうで、一日に3回引っ越したこともあるといわれています。北斎が転居を繰り返したのは、北斎が絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからです。最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことです。私はまだ23回しか引っ越しをしていませんが。。。案内板に北斎が描いた両国橋近辺の浮世絵の解説が記してあります。
すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
両国納涼 一の橋弁天 −絵本隅田川両岸一覧−
狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。
Trace the footprints of KATSUSHIKA HOKUSAI, a world class painter of SUMIDA.
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River: Ryogoku Noryo Ichinohashi Benten
One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc., can be seen side by side. The main feature of this print is probably its size, which is wider than it is high as is typical with picture books. The small bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area around the forest is Ichinohashi Benten, which is currently the Ejima Sugiyama Shrine. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.
公園の隣のビルに、「山くじら ももんじや」の看板が掛かっています。「山くじら」とは、猪の肉の隠語です。肉食が禁じられていた江戸時代後期、猪の肉を食べさせる店では「山くじら」という看板を出し、動物の肉を大っぴらに食べさせていました。また、ももんじや(屋)とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐・猿・鶏・牛・馬などの肉を食べさせたり、売っていた店のことをいいます。格子越しに中を覗いてみますと、猪君が鉤に逆さ吊りされています。お店の飾りのようにも見えますが、フサフサとした毛皮を見ると本物のようです。衛生上問題ないのでしょうか?
お店の前に墨田区の案内板が立っています。
江戸の味 ももんじや (Momonjiya)
享保三年(1718年)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」と総称しました。現在は、この「ももんじや」を店名にしていますが、正式には「ももんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも「山くじら」と称して食べられていました。猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼にします。その他、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。
両国二丁目交差点に面して回向院の入口があります。お寺の由緒書きには、江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地があると書かれています。
諸宗山 回向院
明暦三年(1657年)、江戸大火(振袖火事)に依る死者十万八千余人を弔うために建立された。
安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。
江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある
明暦三年 大火石塔
安政二年 大地震石塔
鼠小僧次郎吉墓
水子塚 (寛政五年)松平定信建立
猫に小判の話 猫塚
勧進相撲発祥の地記念 力塚
呼び出・定火消墓・木遣塚
諸動物供養塔
竹本義太夫墓
岩瀬京傳・京山・加藤千陰墓
回向院の前に墨田区の案内板が立っています。
江戸の町(Eko-in Temple) 回向院
明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者・海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が理葬供養されています。
回向院の境内には、かって大鉄傘と呼ばれた国技館が建っていました。
国技館(大鉄傘)跡
相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年(1833年)から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十二年(1909年)に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老老朽化のため昭和五十八年(1983年)に解体されました。そして同六十年(1985年)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
本所松坂町といえば、忠臣蔵ですかね。歩道脇に古びた石柱が建っています。裏面には何やら書かれていますが読み取れません。播州赤穂の四十七士が主君の無念を晴らす為にここにあった吉良邸に討ち入ったのは五代将軍綱吉の時代でした。松坂町という名は吉良家の所領が松坂だったことに由来するそうです。その本所松坂町の地名が無くなることを惜しんで建てられた石碑とのことです。
錦糸町は東京の東部を代表する繁華街です(北部は赤羽、西部は八王子)。四つ目通りを挟んで、JR錦糸町駅ビルと娯楽の殿堂楽天地が並んでいます。楽天地は、昭和12年(1937年)に江東楽天地という名称で錦糸町駅前に開業しました。周辺の映画館を集め、遊戯施設の他、吉本興業と提携した江東花月劇場も誘致され、総合レジャー施設となりました。戦後はキャバレーや場外馬券売り場も設けられ、大人の娯楽施設として発展してきました。中年以降の年代には、天然温泉とボーリング場が記憶に残っているかもしれません。現在は、地下にスーパーの西友、残りのフロアは錦糸町パルコとなっています。温泉や映画館も健在です。
亀戸にやってきました。亀戸にはディープな飲み屋街が沢山ありますが、京葉道路と総武線に挟まれた路地にも沢山の飲食店が犇めいています。
- 21.立ち呑み晩杯屋 亀戸東口店
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JR総武線の亀戸駅には東口と西口のふたつの改札があります。西口の方はバスロータリー広場に面していて賑やかなのですが、路地の奥にある東口は広場もなくそれほどでもありません。晩杯屋亀戸東口店は東口改札のはす向かいのコンビニの2階にあります。
未だお昼時なのでシャッターは固く閉っていますが、本日の鮮魚メニューは何でしょうか?最近は珍しいシイラの刺身も載っているようですが。
さて、次は西葛西の晩杯屋。。。と思って予定表を見たら門前仲町の晩杯屋が抜けています。シマッタ!当初は東京駅から門前仲町に行くつもりが錯覚してしまい、先に亀戸の晩杯屋に来てしまいました。急に疲れが出てしまいました。しょうがないので、無駄足にはなりますが亀戸から明治通りと永代通りを戻って門前仲町に向かいます。亀戸駅東口の路地から京葉道路に出ます。長らく工事中だったカメイドクロックはいつの間にか完成していました。カメイドクロックの敷地には、1939年から1993年まで第二精工舎(現・セイコーインスツル)の東京工場がありました。工場閉鎖後の1997年に商業施設「サンストリート亀戸」が建てられ、地元の生活インフラを担うほかアイドルイベントなどが行われていましたが、2016年3月31日に閉館となりました。2022年に装いも新たに開業した施設の名称は、「この地の記憶を紡ぎ、みんなが集まり、みんなの日々を、亀戸の記憶を刻む場所」として「KAMEIDO CLOCK(カメイドクロック)」と命名されました。全部で136テナントから構成され、大型スーパーマーケットと生鮮三品・食物販の専門店が集う「カメクロマルシェ」、亀戸の下町ならではの食文化を活かした新しい地域コミュニティ拠点「カメクロ横丁」、屋外にキッズパークを兼ねそろえた約540席のフードコート「アソビバ!フードパーク!」などが入居しています。
京葉道路に面して、キッチン・ダイブのお店があります。テレビなどでも紹介され、24時間営業の激安&デカ盛り弁当のお店として有名です。店に入ると台の上に弁当がギッシリと並べられています。揚げ物がメインなので、おかずは茶色一色になっています。ちなみに、看板商品の1kgのお弁当は1100円です。買って帰ろうかと思ったのですが、この先まだまだ歩きますので今日のところは見るだけにします。
明治通りに入って日曹橋交差点まで南下します。小名木川を越えた先に砂町銀座商店街の入口があります。「砂町銀座」という名前が生まれたのは昭和七年のことでした。当時日本一の商店街だった銀座通り商店街に負けないようにとの思いを込めて命名されました。今では東西670mの商店街に180店舗が営業し、江東区随一の商店街になりました。毎月10日に開催される「ばか値市」や8月上旬に3日間開催される七夕祭りなど、イベントや催事も充実しています。
商店街の中でも「魚勝」は新鮮かつ激安の魚屋さんとして知られています。珍しい魚種も多く、開店すると同時に買い物客が店内になだれ込んでいきます。営業時間は11時半から売り切れまでです。大体、14時過ぎにはお魚を並べた棚はカラッポになります。鰹が大きくて安いのですが、門前仲町まではまだまだ距離があるので今日のところは我慢します。
日曹橋交差点から永代通りを東京駅方向に戻り、ようやっと門前仲町に着きます。門前仲町といえば居酒屋の聖地「魚三」がありますね。以前はビルの壁に巨大な看板が掛かっていたように思いますが、今はなくなっています。ビルの外装が新しくなっているようなので、改修した際に取り外したのかな?
- 22.立ち呑み晩杯屋 門前仲町店
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永代通りを挟んだ魚三のはす向かいに晩杯屋門前仲町店があります。「大人の給水ポイント」だそうです。暑い日にはたっぷりアルコールを補給しないとね。「TAKE OUT」メニューが充実していますね。私なら、もつ煮・刺身五点盛・アジフライの合計1、700円で家飲みしますがな。
今日は随分と遠回りしましたので、門前仲町駅で帰宅の途につきます。未だ晩杯屋が開いていない15時前なのでテイクアウトは出来ませんでした。残念!
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