立ち呑み晩杯屋 (十日目)


踏破記


今日は晩杯屋巡りの十日目です。昨日の中断地点である一之江駅出口A0から今日の歩きをスタートします。



今日の晩杯屋は亀有のお店です。一之江駅から環七を真っ直ぐに北上すればお店近くの亀有駅に行けます。



一之江境川親水公園は、一之江境川を利用した親水公園です。かつて一之江境川は東一之江村と西一之江村との間を流れ、用水路や船の運航路として利用されていました。多くの区民からの「自然に近い水辺を」という声に応え、平成七年(1995年)3月に、今井街道より上流が、翌年4月に下流が完成し、全長3.2キロメートルの親水公園が誕生しました。魚や昆虫や水生植物が生息できるように新中川の自然水を流しているため、ハゼ・スズキ・テナガエビなどが生息しています。夏季には水遊びが楽しめる広場が3か所設置してあり、豊かな自然を満喫することができます。また、ソメイヨシノ・クスノキ・サツキ・アジサイなど約2800本の樹木が植えられ、平成十八年には日本で初めての景観地区となりました。

一之江境川親水公園地誌

一之江境川の由来

東一之江と西一之江の境を流れることから、一之江境川とよばれるようになりました。応永五年(1398年)の「葛西御厨注文」という古文書に「東一江」・「西一江」の地名が見られます。自然の河川ですが、江戸時代中期に中井堀が整備されてその分流となりました。用水として利用されるだけでなく舟運路でもあり、東一之江・西一之江・新堀・鹿骨・一之江新田の五か村で組合をつくって藻刈りや川浚いに力を合わせていました。昭和三十年代以降急速な流域の都市化がすすみ、家庭排水が流れ込むようになり、水質も悪化しました。しかし、下水道の整備により排水路としての役割も終え、再び親水公園として蘇りました。




秋の匂いといえばキンモクセイですね。庭園樹や街路樹として植栽に使われ、秋に橙黄色の花を咲かせて甘い香りを放ち、ジンチョウゲやクチナシと合わせて、日本の三大芳香木のひとつに数えられています。樹皮が動物のサイ(犀)の足に似ていることから中国では「木犀」と呼ばれ、オレンジ色や赤色の花を咲かせることから日本では「金木犀」という樹名になりました。ちなみに、白い花を咲かせる木はギンモクセイと呼ばれます。



環七は起点となる湾岸道路から足立区の大谷田陸橋付近まで南北に延びていますので、東京と千葉方面を結ぶ東西方向の道路や鉄道とあちこちで交差します。そういう場所では大抵陸橋が架けられています。



環七が河川を渡るところには長大な橋が架けられています。青砥橋は中川が新中川と分岐した地点に架けられ、橋長は640.8m・幅員は23.0mあります。環七の中で最後に開通した区間(青戸八丁目〜奥戸陸橋)の一部であり、工事は昭和五十四年(1979年)10月に着手され、昭和六十年(1985年)1月に完成しました。青砥橋が架けられる前は環七はどんなルートだったのでしょうか?



あまり知られていませんが、青砥橋を渡った先にかってこの地に築かれた葛西城址が残されています。環七沿いの御殿山公園には記念碑や案内板が置かれています。

東京都指定史跡 葛西城跡

葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(1538年)二月には、北條氏綱によって葛西城が落城されたという記録(「快元憎都記」)があり、この後、葛西城は後北條氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。後北條氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和四十年代後半のことである。昭和四十七年から発掘調査が行われ、その結果、主郭を区画している大規模な堀、溝、井戸跡等が検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。東京都内には、中世城館跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にその痕跡をほとんど残さないことから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調査によって明らかにされており、戦国の騒乱を語る上で欠かすことのできない城郭である。

Historic site Kasai-jo Ato

Kasai Castle, of which ruins currently remain, was a medieval castle built on a slightly high alluvial area on the right bank of the Naka River. Investigations were conducted as accompanied by a construction of the Ring Road No.7, and then the remains of the castle were identified. Therefore, there are no remains visible on the ground. Kasai Castle is frequently attested in historical sources since around the middle of the 15th century, as being an important base for members of the Uesugi clan (including both prominent families of Ogigayatsu and Yamanouchi) serving as assistants to deputy shoguns, while they were in conflict with deputy shoguns at Koga, generation after generation. Thereafter, the castle was captured by the Hojo clan of Odawara in 1538, when they drove Uesugi out of the south Kanto region. Subsequently, the rulers of the castle often changed, for example due to the advancement of Nagao Kagetora (Kenshin Uesugi), and the castle was finally secured by the Hojo clan after the Second Battle at Konodai between Hojo Ujiyasu and Satomi Yoshihiro; the rule under the clan lasted until the downfall of the Hojo clan. The area on the both sides of the Ring Road No.7 which is preserved as a park is believed to be a part with the main building. The figure of the castle under the Uesugi rule is not clear, but at any rate, the castle is enlarged under the Hojo clan: water conduits have been identified in a range covering a length of 400 m from the south to the north, and of 400 m from the east to the west. At that time the main building also occupied an immense block with conduits being 18 m wide, and traces of mound are also identified for this period. It is known that the castle was utilized in falconry of Shogun family members in early Edo Period, under the name of Aoto Palace.




歴史と文化の散歩道の案内碑も建っています。航空写真から推測してみても、葛西城が如何に巨城であったかが分かります。

発掘された葛西城

葛西城は中川右岸に沿った標高1〜2m前後の微高地上に占地し、その範囲は青戸8丁目宝持院付近から青戸7丁目慈恵医大青戸病院付近におよぶものと推定される。葛西城址は昭和四十七年(1972年)から環状7号線道路建設に伴い発掘調査が実施され、戦国時代をはじめとする陶磁器や漆器椀等の木製品を多量に出土した。葛西城から出土しまた多量の遺物は、今まで古文書や絵巻物でしか想像できなかった戦国時代像を研究する上で、欠くことのできない貴重な資料としてその名を全国的に知られている。葛西城の立地する葛西地域は、中世において秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって治められ、私領の一部は伊勢神宮に「葛西御厨」として寄進されている。葛西城の築城がいつ頃なされたかは古文書からも定かではないが、中世におけるこの辺一帯の政治情勢や出土した遺物から、15世紀中頃と推定される。15世紀末、伊豆、相模方面を舞台に台頭してきた後北条氏は北条早雲の子、北条氏綱によって関東進出が企てられ、天文七年(1538年)葛西城は氏綱の手に陥落、下総に勢力を張る足利義明に対する構えとして整備されたことが知られる。その後、葛西城は16世紀末まで存続するが、 天正拾八年(1590年)小田原の役における後北条氏の滅亡と同じくして葛西城も落城し、中世城郭としての役目を終えるのである。近世初頭、徳川家康の江戸開府後、葛西城跡地には青戸御殿が建てられる。青戸御殿は秀忠、家光の三代にわたって鷹狩等に利用された後、明暦三年(1657年)頃取り壊され たといわれている。また、葛西城は中世の城館跡として名を馳せているが、葛西城の下には今から1600年程前の古墳時代の住居跡や井戸跡、多量の土器等が発見されており、当時のムラが埋没していることがわかっている。土器の中には遠く東海地方から運ばれてきたものがあり、当時の水上交通の活発さを窺わせている。このように葛西城址は、弥生・古墳時代から中世・近世に至る各時代の貴重な資料を遺存している複合遺跡であり、葛飾区のみならず、東京低地の歴史を研究する上で欠くことのできない文化遺産である。




アリオ亀有は環七通り沿いのJR常磐線亀有駅の南東約400mに位置し、平成十八年(2006年)3月3日に旧日本板紙亀有工場の跡地に開店しました。イトーヨーカ堂が新業態「アリオ」として運営する大型ショッピングセンターで、アリオとしては全国で4店舗目(都内では初出店)の店舗としてオープンしました。館内はイトーヨーカドーアリオ亀有店と、MOVIX亀有を含む127の専門店で構成される23区内有数の規模の専門店街「アリオモール」から構成されています。隣には、スポーツ勝利の神様として崇拝されている亀有香取神社が鎮座しています。亀有の地は亀の背中が盛り上がったような形をしていることから、古来より「亀無」と呼ばれていました。しかし、”なし”では縁起が悪いからということで、「亀有」と呼ばれるようになったそうです。亀有香取神社は、1276年に千葉の香取神宮より分霊を勧請されたのが始まりです。当時、ここは香取神宮の神領地で、亀無郷の総鎮守として地域の人々に手厚く迎えられました。亀有香取神社は勝利のご利益があり、また、境内社の道祖神社は外部からの疫病侵入を防ぐために道の要所に置かれた「道の神様」であることから足腰健康のご利益があるとされ、両社を合わせてスポーツ勝利の神様として慕われています。御朱印帳にはマラソンをイメージしたものもあります。マラソン大会に出場するなら御朱印帳は必携ですね。



24.立ち呑み晩杯屋 亀有北口店

立ち呑み晩杯屋亀有北口店は、環七と高架で交差する常磐線の北側を左折し、亀有駅北口に通じる飲食店街の中ほどにあります。



1階は博多発祥の豚骨ラーメンの有名店である一風堂のお店になっています。一風堂は、創業者の河原成美氏が昭和六十年(1985年)10月16日に福岡市で「博多一風堂」を開店したのが始まりで、「怖い・臭い・汚い」と言われていた1980年代の博多ラーメンのイメージを覆し、女性が単独でも入りやすいスタイリッシュで清潔な店舗と豚骨特有の臭みを排しながら濃厚な深みのあるスープや研究を重ねた自家製麺が特徴です。店名は、河原成美氏がファンだった「一風堂」というロックバンドの名前に由来するそうです。そういうことで、ラーメン店の2階にある亀有北口店はそんなに広くはないように思えますが、席数は82もあると表示されています。鰻の寝床のように奥行きがあるのでしょうか?



環七を長いこと歩いたので、今日は亀有駅から帰ろうかと思ったのですが、もう一踏ん張りして綾瀬駅まで行くことにします。亀有といえば、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台となった場所ですね。駅の北口広場には主人公の両津勘吉の像が建っています。この他にも、駅の近辺には中川圭一や麗子などの像が合計15基も建っているそうです。

こちら葛飾区亀有公園前派出所
両津勘吉像

1976年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載を開始して以来、亀有のみならず全国の人々に愛され続けている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。30年もの長きにわたり多くの笑いと感動が生み出されています。物語の舞台であるここ亀有には、主人公の両津勘吉巡査長が毎日勤務している派出所があります。この像は、物語の主人公「両さん」が亀有を訪れる人々にとってより身近に感じられるようにとの願いをこめて建立されました。




常磐線の高架の北側に沿って綾瀬方向に進みます。途中から古隅田川の流路跡に造られた遊歩道を歩きます。古隅田川は中川から分岐し、元々は裏門堰親水水路を歴て最終的には隅田川に合流していましたが、現在では水戸橋付近に設置された大六天排水場から綾瀬川に排水されています。古隅田川は足立区と葛飾区の境を流れる流路延長5.45kmの河川です。葛飾区亀有三丁目で中川と分かれ、葛飾区小菅三丁目で綾瀬川左岸に合流します。現在は下流部の一部を除き暗渠となっています。東京拘置所付近に延長1.1kmに亘り、綾瀬川の開削で分断された旧流路跡(裏門堰親水水路)が残っています。かつて、隅田川は利根川の下流に位置していて、武蔵国と下総国の境界線となっていました。埼玉県と東京都にあるふたつの古隅田川は当時の利根川〜隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)・元荒川・中川・古隅田川(東京側)・隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられます。綾瀬駅に着きました。次の晩杯屋のお店は町屋にありますので、今日は綾瀬駅から帰宅することにします。その前にベルクスで今夜の晩ご飯のお刺身を調達しないと。。。







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