立ち呑み晩杯屋 (十一日目)


踏破記


今日は晩杯屋巡りの十一日目です。昨日の中断地点である綾瀬駅西口から今日の歩きをスタートします。



今日の最初の晩杯屋は町屋のお店です。綾瀬駅から北に向かって歩き、武道館西口交差点を左折し、五兵衛新橋で綾瀬川を渡り、補助第136号江北橋通りを真っ直ぐに西に進みます。



東武伊勢崎線の高架下を潜り、梅田交差点で国道4号日光街道の陸橋下を潜り、なおも西に向かいます。江北橋通りは、梅田交差点の先から尾久橋通りの交点の手前までの延長2.5kmは整備中で車で通り抜けることはできませんが歩道を歩くことはできます。将来的には、葛飾区亀有の環七通りの亀有二丁目交差点から足立区宮城の荒川に架かる江北橋の西詰に至る延長9kmの東西方向の道路になる計画です。途中で左折して首都高中央環状線の高架下に出ます。護岸を登って荒川の堤防道路に出ます。下流には千住新橋、南方向には東京スカイツリーが望める見晴らしの良いところです。



西新井橋を渡り、千住桜木町交差点で小竹橋通りに入ります。



小竹橋通りの道路名は、隅田川に架かる尾竹橋に因んでいます。尾竹橋の橋名は、この場所の足立区側にあった「尾竹の渡し」の名に因んでいます。尾竹の渡しは元来お茶屋の渡しと呼ばれていましたが、茶屋に「おたけさん」という女性がいたことから呼ばれたとされています。橋の付近は千住や西新井大師への渡船場として栄えてきた場所で、昭和九年3月に関東大震災後の復興事業の一環として計画・架橋されました。当時の橋は長さ132m・幅10.2mで、当時最新の5径間突桁式上路鋼鈑桁橋(ゲルバー桁橋)でした。太平洋戦争中には金属供出によって高覧が撤去されるなどしましたが、無事戦災をくぐりぬけ、昭和二十二年と昭和三十三年にそれぞれ補修改修工事が行われた記録が残っています。「お化け煙突」として有名だった千住火力発電所の袂にあり、煙突を良く見渡せる場所として写真記録にその姿が残っています。しかし、交通量の増大と橋脚の老朽化に伴い、平成四年に現在の橋に改架されました。



尾竹橋通りを南下して町屋に着きます。町屋には都電荒川線が通っていて、昭和の面影を垣間見ることができます。



現在は「さくらトラム」と改称された荒川線ですが、沿線には多くの薔薇が植えられ、乗客の目を楽しませています。町屋駅周辺は荒川車庫駅・大塚駅周辺と並んで一際薔薇の花壇が見事で、手入れもよくされています。

都電荒川線沿線のバラマップ

荒川区では、区の中央部分を東西に走る都電荒川線を「みどりの軸」と位置付け、バラによる緑化を推進しており、北区境から三ノ輪橋の停留場間に約13、000株を植栽しています。色とりどりに咲くバラを是非お楽しみください。

Toden Arakawa Line Trackside Rose Map

The Toden Arakawa Streetcar Line runs along the central part of the City from east to west along the "green corridor". The streetcar strives to add more green space to the city using roses, and has planted about 13,000 rose bushes between Minowabashi Station and the Kita City border. Please enjoy the beautiful rose blooms.




都電荒川線の上を京成本線が通っています。京成町屋駅の駅舎の中を抜けると、右手の二叉路の先端に晩杯屋のお店が現れます。



25.立ち呑み晩杯屋 京成町屋店

立ち呑み晩杯屋京成町屋店がオープンしたのは2017年の暮れも押し詰まった12月28日のことです。御用納めの日にオープンとは営業に余程の自信があったのでしょう。無休とのことですので、お正月もお店は開いていた筈です。私も一度お邪魔しましたが、どんなに酔っ払っても地下鉄千代田線・京成本線・都電荒川線の駅まで千鳥足で1分以内ですから大丈夫です。階段から転げ落ちなければの話ですけど。



再び尾竹橋通りに出て、次の晩杯屋鶯谷店に向かいます。宮地五差路で明治通りの陸橋下を潜り、二叉路を鶯谷方向に南下します。常磐線の三河島駅の横を通り、日暮里中央通りと交差して根岸小学校の前を通ります。根岸幼稚園の前に4基の庚申塔が並んでいます。1基は堂宇の中に、他の3基は露天に建っていますが、石像の前には新しい花が供えられています。地元の人達の信仰の深さを感じます。

庚申塔(台東区有形民俗文化財)

庚申塔は、庚申信仰に基づいて立てられた石造物で、江戸時代以降、盛んに造立された。庚申信仰とは、六十日に一回めぐってくる庚申の日の夜を寝ずに過ごすことで、長寿延命や無病息災を祈る信仰である。地域ごとに庚申請が組織され、庚申の晩に講員が集まって行事が行われた。区内には、六十基以上の庚申塔が現存している。根岸小学校前には四基の庚申塔が現存する。これらの庚申塔は寛文八年(1668年)から天明五年(1785年)にかけて建てられたものである。うち祠内に安置される一基は、安永元年(1772年)に造立されたが、破損等により天明五年に再建されたものである。これらはかつて荒川区との区境近くにあり、「庚申社」、「庚申堂」、「庚申塚」等と呼ばれていた(「新編武蔵風土記稿」、「東京名所図会」)。道路の拡幅等により現在地へ移された。庚申塔は地域に根ざした人々の信仰を明らかにする貴重な資料であることから、平成十九年(2007年)三月に台東区有形民俗文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

Koshin Tower (Taito City Tangible Folk Cultural Property)

In front of Negishi Elementary School, 3-9-7 Negishi, Taito City Koshin towers are stone monuments erected on the basis of the Koshin faith, and were built extensively in the Edo period and later. According to the Koshin faith, believers can obtain longevity and sound health by staying up all night without sleep on the day of Koshin, which happens every 60 days. Koshin groups were organized for each region, and events were held for group members to gather on those evenings. Over 60 Koshin towers still exist in Taito City. The four Koshin towers in front of Negishi Elementary School were erected in 1668-1785. The one inside a small shrine structure was originally built in 1772 and rebuilt in 1785. The towers formerly erected near the boundary with Arakawa City. They were moved to the current location to widen the road, among other reasons. Because the Koshin towers are a valuable resource that reveals the faith of the people rooted in this area, they were registered as Taito City Tangible Folk Cultural Property in the Taito City Citizens Cultural Property Register in March 2007.




堂宇の中の駒型庚申塔は天明五年(1785年)7月に造立とありますが、元は安永元年(1772年)に造立されました。破損等により僅か13年後に根岸・新田講中が再建したとされています。一番左の手水鉢の脇にあるのは舟型光背型の聖観音立像で、造立年は寛文八年(1668年)9月と記されています。正面には「庚申供養二世安樂所」と刻まれていて、下部に願主名が6名銘字されています。中央部分に斜めに折れたような跡が残っています。その右隣りにあるのが駒型の庚申塔で、三角形の配置で三猿が描かれています。造立年は元禄十六年(1703年)9月と記されています。堂宇の左脇にあるのは板碑型の庚申塔です。下部に三猿が陽刻されていて、中央には「奉待庚申供養二世安樂所」と刻まれています。三猿の下には11人の施主願主名が記されています。庚申塔の上部にある扁額には、「猿田彦大神」と大きく中心に書かれており、「日光山中禅寺立木観音講」とあります。



26.立ち呑み晩杯屋 鶯谷店

言問通りに出ます。言問通りはこの先でJR線と立体交差しますので、高架になっています。立ち呑み晩杯屋鶯谷店は、鶯谷駅下交差点の手前の業務スーパー上野公園店の向かいにあります。言問通りに面した入口の他に脇道に面した方にも入口があります。



写真付きのメニューの紹介とボードに書かれたお勧めの品々が呑兵衛の飲む気をいやが応なく高めます。私の定番の煮込みとアジフライは一番上に出ていますね。豊洲直送の鮮魚の刺身は鮪以外は250円均一です。サゴシはサワラの小さいものです。マゴチは白身の高級魚で、この値段では普通食べれません。



鶯谷駅の北西側は根岸の町名ですが、その由来について記した案内板が立っています。

旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧上根岸町

呉竹の根岸の里は、上野山を背景にした田園風景と清流音無川の流れる静寂の地であった。江戸時代から「根岸の里の侘び住まい」といわれ多くの文人墨客が好んで住んだ。そのむかし、この付近には大きな池があった。そして上野山のもと(根)にあったことから、すでに室町時代には根岸と呼ばれていた。江戸時代初期、根岸は金杉村に属し、いくつかの民家が建っていた。風光明媚の地であったことから文化文政(1804年〜1830年)の頃には別荘地として二百戸余りになっていた。明治二十二年(1889年)、根岸は下谷区に編入されたあとすぐに上根岸町、中根岸町、下根岸町に分けられた。

 「雀より鶯多き根岸かな」

俳人正岡子規は、明治二十五年から同三十五年まで根岸に住んだ。今、その住まいは「子規庵」として残されている。




27.立ち呑み晩杯屋 北関東ふるさと編ファンデス上野店

上野駅浅草口の向かいに「上野産直飲食街」のビルが建っています。新橋にもありましたね。上野産直飲食街は2017年7月26日に「全国の産直食材を気軽に味わえる場」としてオープンした都心の24時間マーケットに対応した店舗街です。



立ち呑み晩杯屋北関東ふるさと編ファンデス上野店は、「上野産直飲食街」のビルの5階に入っています。



店名に「北関東ふるさと編」と入っているのは、晩杯屋の創業者である金子源氏が群馬県の出身であることに因んでいます。ファンデス上野店の「FUNDES(ファンデス)」とは、各々の街の愛好家・支持者「FAN(ファン)」になれる楽しさ「FUN(ファン)」に溢れる施設を目指す、といったふたつの「ファン」の意味が込められています。



ビルの2階以上は1フロア1店舗になっていて、エレベータを出るとそこが入口になっています。



1フロアを占有していますので、店内はかなり広いです。席数は表示されていませんが、100席位はあるかもしれません。窓が大きいので店内はとても明るいですね。今は12時58分です。土曜日なのであと2分で開店です。店員さんが近寄ってきましたが、今日の所は退散します。



今日はサントリーJT杯の準決勝第一局(大坂大会)がABEMAで生中継されます。15時30分開始なので早めに帰ろうと思います。



上野駅広小路口から改札に入ろうとしたら、広場の隅に「あゝ上野駅」のプレートが付いた大きな歌碑が建っています。この歌碑は、平成十五年(2003年)に、集団就職で上京した中小企業経営者ら有志団体によって上野駅広小路口前のガード下に建立されました。伊沢八郎が歌った「あゝ上野駅」は、1964年に発表された高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲で、いわゆる団塊の世代を中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えました。歌碑のレリーフには、蒸気機関車に牽引された列車を降り立ち集団で歩き出した集団就職の子供達の風景が描かれています。この歌の歌詞は地方銀行員が集団就職で上野駅に降りる金の卵と言われた子供達を見て作詞したものです。

あゝ上野駅

作詞 関口義明
作曲 新井英一
唄  井沢八郎

    
一、どこかに故郷の 香りを乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野は おいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった

二、就職列車に 揺られて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野は おいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野は おいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある

歌碑の由来

高度成長期の昭和三十〜四十年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌「あゝ上野駅」は、昭和三十九年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。この歌の心を末長く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に「あゝ上野駅」の歌碑を設立するものである。








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