立ち呑み晩杯屋 (十二日目)


踏破記


今日は晩杯屋巡りの十二日目です。昨日の中断地点である上野駅広小路口から今日の歩きをスタートします。



今日の最初の晩杯屋は飯田橋のお店です。上野駅から中央通りに出て御徒町を目指します。右手に上野公園があります。上野公園の正式名名称は「上野恩賜公園」です。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地である「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれます。面積は約53haもあり、公園内には東京国立博物館・国立西洋美術館・国立科学博物館・恩賜上野動物園など多くの文化施設が存在しています。また、彫刻家高村光雲作の西郷隆盛像があることでも知られています。高台となっている忍ヶ岡は近世からソメイヨシノの名所としても有名で、日本さくら名所100選にも選定されています。桜の開花時期になると、大勢の花見客が押し寄せます。また、忍ヶ岡の南に位置する不忍池は、夏には池の一部を覆い尽くすほどの蓮に覆われ、一面の緑の葉と桃色の蓮の花が目を楽しませます。冬には鴨をはじめとした数多くの種類の水鳥が飛来し賑わいます。



上野広小路交差点を右折し、春日通りを西に進みます。切通坂の左手には湯島天満宮があります。湯島天満宮は、古来より江戸・東京における代表的な天満宮で、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段も学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せています。また、境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った婦系図の歌(湯島の白梅)(1942年)は大ヒットしました。今でも境内の約300本の梅の木のうち、約8割が白梅です。

切通坂

「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三・四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。初めは急な石ころ道であったが、明治三十七年(1904年)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯境内を出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木




切通坂の中程に石川啄木の歌碑と当時の苦しかった生活ぶりを記した案内板が置かれています。

この歌は、石川啄木(1886年〜1912年)の明治四十三年(1910年)の作で、「悲しき玩具」に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家”喜之床”が、この(昭和五十五年)三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。



春日通りの向かい側に麟祥院があります。参道の入口には春日局の像が建っています。麟祥院は春日局の菩提寺です。像の後方には文京区の石碑が置かれています。碑文には文京区と春日局の縁が記されています。

文京区と春日局

文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり、文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和六十四年一月(1989年)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設置し、区民の皆様と共に区内の活性化・地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました。ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました。




本郷3丁目交差点で本郷通りと交差します。交差点の南西角に「かねやす」と大書きされたシャッターが見えます。近年まで雑貨屋として営業していたそうですが、数年前に店を畳んだようで今はシャッターを下ろしたままになっています。

かねやす

兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった(御府内備考による)。享保十五年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。「本郷も かねやす までは江戸のうち」と古川柳にも歌われた由縁であろう。芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。




春日通りに面して一軒の床屋さんがあります。かって石川啄木が2階に間借りしていた場所です(当時の建物は明治村に移築されています)。

啄木ゆかりの喜之床旧跡

石川啄木は、明治四十一年(1908年)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5−5・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治四十二年(1909年)の6月であった。五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。喜之床での生活は2年2か月、明治四十四年の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5−11−7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治四十五年(1912年)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。喜之床(理容アライ)は明治四十一年(1908年)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和五十三年(1978年)5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和五十五年(1980年)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。

   かにかくに渋民村は恋しかり
   おもいでの山
   おもいでの川        (喜之床時代の作)




春日通りを道なりに進むと、真砂坂上交差点から春日町交差点まで東富坂という幅が広い緩やかな坂が下っています。長さは約320mほどで、富坂下交差点から護国寺方面に上る「富坂」に対して、白山通りを挟んで本郷方面から春日町交差点まで下る坂は「東富坂」と呼ばれています。別名は真砂坂・東鳶坂といいます。一方、真砂坂上交差点から地下鉄丸ノ内線が地下から地上に出る線路と並行して細い坂道が下っています。旧東富坂は、長さ約140mほどの急な坂で、別名を鳶坂・飛坂といいます。トンビがたくさん集まってくることから「鳶坂」といい、訛って「富坂」に変化しました。後に、北側に新設された坂が東富坂(真砂坂)となったため、この急坂は「旧東富坂」と呼ばれるようになりました。

旧東富坂

むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった。東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので、「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(「御府内備考」による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治四十一年、本郷三丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。




白山通りに出て、東京ドーム前を外堀通りに向かいます。



水道橋交差点を右折して外堀通りに入ります。神田川に面して「市兵衛河岸防災船着き場」があります。

市兵衛河岸

河岸とは、物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場などの施設のことである。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2−1−18あたりに”岩瀬市兵衛”の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は、飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見える。この河岸は、明治八年から昭和八年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった”砲兵工廠”の荷揚場としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は、昭和三十九年の住居表示の施行により後楽1丁目となり、この名は消滅した。




28.立ち呑み晩杯屋 飯田橋東口店

飯田橋駅に着きました。立ち呑み晩杯屋飯田橋東口店は、中央線の南側に沿ってJR飯田橋駅東口から飯田橋プラーノに向かう道路に面した雑居ビルの中にあります。かつては低層住宅地が密集していた富士見地区ですが、再開発されて飯田橋プラーノが誕生したことで街の雰囲気はすっかり変わりました。



晩杯屋飯田橋東口店はビルの入口を入った奥にあります。未だ開店前で店内は真っ暗ですが、ガラスドアの後ろでメニュー板が待機しています。1階にあるので、酔って階段を転げ落ちることはないでしょう。



次のお店は巣鴨駅の近くにあります。飯田橋から巣鴨に通じる一本道はありませんので、幾つかの道路を経由する必要があります。取りあえず、神田川と並行して延びる首都高5号池袋線下の目白通りを北に向かいます。神田川の東側は今は後楽二丁目の町域ですが、かっては新諏訪町と呼ばれていました。

旧町名案内 旧 新諏訪町(昭和三十九年までの町名)

江戸時代には、隆慶橋東側、雁木横町といっていた。明治の初め、小日向三軒町代地、小日向東三軒町と称していた地を合併して新諏訪町とした。町名は、北側に隣接する諏訪町に対して、新の一字を加えて、新諏訪町とした。隣町の諏訪神社からとった。江戸時代、江戸川(神田川)は御留川で禁漁であった。江戸川が外堀に注ぐすぐ手前の橋が船河原橋で、ここから下流は禁漁でなかった。新諏訪町に接する船河原橋の下手がせき止めてあり、水がドンドと音を立てて流れ落ちた。それでこの橋は俗にドンド橋といわれた。橋の滝の下は、下ってくる魚を捕らえるために網を張り、釣糸をたれる人が多かった。




神田川は大曲交差点付近で西方向に大きく彎曲しています。そこに架かる橋が白鳥橋です。白鳥橋付近は通称「大曲」と呼ばれていますが、昔から神田川が直角に近いカーブを描いて西へと大きく曲がる場所であったことに由来しているものと思われます。白鳥橋という橋名は、江戸時代の初期にこの辺り一帯が白鳥池という沼沢地であったことに因んでいます。白鳥池は明暦三年(1657年)の明暦の大火の後に埋め立てられ、周囲には町家や武家家が建てられました。白鳥橋から石切橋までの約600mほどの両岸は、飛鳥山と共に米将軍として知られた徳川八代将軍吉宗が植えた桜の並木になっていました。小金井の桜に因んで、当時「新小金井」とも呼ばれたほどの名所でした。対岸の春日にある北野神社には源頼朝が風待ちをして船を繋いだという伝承があり、海へと続く地形だったことが推測されます。白鳥橋から東に入って巻石通りを超えると、江戸時代にこの地にあった安藤飛騨守の屋敷に由来する安藤坂(別名:安藤殿坂)が春日通りに向かって上がっています。安藤坂は、江戸時代には江戸市中でも有数の急坂として知られ、九段坂との別称もありました。更に、坂の下の神田川沿いの船宿で魚を取る網を干したりしたことから、網干坂とも呼ばれたそうです。その安藤坂を上がって春日通りに出ます。小石川五丁目交差点から東の方向に緩やかに下る広い通りが延びています。道路の中央は公園を兼ねた緑地帯となっていて、桜並木が続いています。播磨坂と呼ばれる通りは戦後に計画された環状3号線の一部で、春日通りから千川通りへ下る500メートル程のみが昭和三十年前後に完成しました。外苑東通りの延長上にあたる道路ですが、現在も播磨坂の前後は工事未着手で、突如現れる道幅の広い大通りは不自然に見えます。ここに桜の植樹が行われたのは昭和三十五年のことですが、現在では立派な桜並木に成長し、文京区でも有数の桜の名所となっています。

播磨坂のさくら並木

この通りは、戦災復興事業における付近一帯の土地区画整理によって、都市計画道路環状三号線の一部として造られました。江戸時代、この辺りは松平播磨守の上屋敷でした。また、千川(小石川)が流れる低地一帯には「播磨田んぼ」が広がっていたことから、新しくできたこの坂を「播磨坂」と呼ぶようになりました。立派なさくら並木(現在127本)は、昭和三十五年に「全区を花でうずめる運動」で値えられた若木(樹齢15年)が育ったものです。昭和四十七年からに、毎年4月初めに「文京さくらまつり」が行われ、多くの人々に親しまれています。平成七年(1995年)3月には、全体が「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、年間を通じて楽しめる新しい名所となりました。




環三通りの中央部分には幅の広い緑地帯が設けられていて、まるで公園のようです。環三通りの北側に当たる一画には、勝海舟と共に維新の三舟と呼ばれた高橋泥舟と山岡鉄舟の屋敷があったそうです。

高橋泥舟(1835年〜1903年) 山岡鉄舟(1836年〜1888年) 旧居跡

下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保五年(1720年)、山岡家は文化八年(1811年)以降この地に移り住んだものと思われる。泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。二人は、文久二年(1862年)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。慶応四年(1868年)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。




29.立ち呑み晩杯屋 巣鴨北口店

播磨坂を下って千川通りを左折し、千石三丁目交差点を右折して不忍通りに入り、猫又坂を上がって千石一丁目交差点を左折して白山通りに入ります。そのまま白山通りを進むと、おばあちゃんの原宿として知られる巣鴨に着きます。立ち呑み晩杯屋巣鴨北口店は、巣鴨駅北口広場の北側一画にあります。お店の造りからして、1階が立ち呑み席、2階が座り席のように見えます。晩杯屋の建物の壁には代表的なメニューが表示してあるのですが、このご時世の物価値上がりの影響で改訂された値段を簡単には書き換えができないらしく、旧価格で表示されているものもあります。まぐろ刺しは数年前は1皿200円でしたが、確か今は310円になった筈。。。



次の晩杯屋のお店は大塚駅近くにあります。巣鴨駅から山手線の線路の南側に沿って大塚駅に向かいます。山手線の大塚駅には北口と南口に広場があります。南口広場は少し窪地になっていますが、舞台を設えると、ちょっとしたアリーナになります。ちなみに、「アリーナ」は古代ローマの円形劇場で闘技をするための場所を表しています。「アリーナ」の語源はラテン語で「砂」を意味する言葉です。なぜ砂かというと、砂だと血が出ても吸収されて闘技に影響が出ないためです。今日は商店街のお祭りのようですね。大塚駅周辺には外国人が経営する国際色豊かなお店が多いので、多彩なメニューが並んでいます。



30.立ち呑み晩杯屋 大塚南口店

立ち呑み晩杯屋大塚南口店は、南口広場から飲食店が建ち並ぶ路地の奥にあります。昔は北口の駅前通りにあったのですが、何年か前に移転したようです。晩杯屋のお店には珍しく、マンションの1階に店舗を構えています。看板にはメニューは表示されていますが、お値段は書かれていません。諸物価高騰の中、賢い選択ですね。



都電荒川線の線路沿いに植樹されている薔薇の花を眺めながら、坂道をゆるりと歩いて春日通りと交差する向原交差点に出ます。旧造幣局跡地に出来た「としまキッズパーク」の中を抜け、サンシャイン60の前の道路を通って池袋の繁華街に出ます。ここには常に若者の姿があります。雑踏を抜けて、池袋駅東口(北)脇から線路添いの池袋駅前公園に出ます。池袋駅前公園は区画整理事業により生まれた公園で、JR池袋駅の東口から100メートルほど北にあります。山手線の内側の線路沿いに延々と続き、平成十二年に池袋駅東自転車駐車場と共に新しく生まれ変わりました。アースカラーの明るく暖かみのある舗装や植え込みウォール、斬新な形のゲート、風力や太陽光を利用した夜間のイルミネーションなどが来街者を楽しませています。

31.立ち呑み晩杯屋 池袋東口店

立ち呑み晩杯屋池袋東口店は、池袋駅前公園の北端に近い路地の中ほどにあります。隣り近所には大人向けのお店が軒を接しています。ネオン輝く夜ともなれば大勢の酔客で混み合うことでしょう。池袋の夜を堪能する人にお勧めです。



最初は池袋東口店で晩杯屋巡りの旅を終えるつもりだったのですが、ナント明日10月23日に新宿駅東口店がオープンするそうです。なので、新宿駅東口店を晩杯屋巡りの最後にしようと思い、今日は池袋駅東口(北)から帰宅の途に着きます。







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