魚三酒場 (富岡店→ときわ店→新小岩店)


晩杯屋の次は「魚三酒場」を巡ります。晩杯屋よりは少し格が上がりますが、コスパ抜群の大衆酒場として評判の魚三酒場は、都内に富岡店・ときわ店・新小岩店の3店があります。

先ずは魚三酒場富岡店です。富岡店は門前仲町(住所は富岡一丁目)にあります。門前仲町一帯は、慶長元年(1596年)に深川八郎右衛門ほか6人が開拓し、深川村を創建したのが始まりとされています。江戸時代には永代寺の門前町として栄え、現在は富岡八幡宮や深川不動堂の門前町として賑わっています。かっては、「神輿深川・山車神田、だだっ広いのが山王さま」と呼ばれ、お神輿でならしたこの街では、今でも三年に一度の八幡さまの本祭で50基を超えるお神輿の連合渡御が挙行され、大勢の見物人で賑わいます。

昭和二十九年創業の魚三酒場富岡店は、門前仲町の永代通りに面した老舗大衆居酒屋です。安くて美味しい魚料理とお酒が評判です。開店が夕方の16時と早いにもかかわらず、開店前から行列ができるほどの人気店です。壁いっぱいに張ってある手書きのお品書きは、どれもお酒に合う魅力的なものばかり。厚切りのお刺身やボリューム満点の焼魚など、豊洲直送の新鮮な魚介類をびっくりするぐらい良心的な値段で食べることができます。その人気のほどは開店前に店の外にできる長い行列を見れば一目瞭然です。1・2階は個人客用のカウンター席となっていて、3・4階は(利用したことはありませんが)グループ客専用の座敷席のようです。門前仲町の飲み屋といえば、まず「魚三酒場」と名前が挙がるぐらい不動の人気を誇るお店です。魚三酒場は、先代が100年ほど前に魚屋をやっていて、その後50年ほど前から飲み屋を始めたそうです。魚屋の気持ちを持ち続けることが料理を安く提供できる秘訣とのことです。

魚三酒場ときわ店は清澄白河駅と森下駅の中間地点辺りに位置し、どちらの駅からも歩いて5分ほどです。お店は清澄通りに面していて、建物の壁に取付けられた大きな看板には「大衆酒場魚三」と大書きしてありますので直ぐに分かります。魚三酒場富岡店と同じく、魚料理が楽しめる大衆酒場として知られる人気店です。1階にはコの字のカウンターがふたつ置かれ、個人客が狭いスペースに並べられた椅子に座って肩を寄せ合いながらそれぞれに一杯を楽しんでいます。2階はグループ客専用のようです。

魚三酒場新小岩店も新小岩では言わずと知れた人気の大衆酒場です。お店は新小岩駅南口から徒歩5分ほどの、平和橋通りと小松通り会商店街が分岐する交差点角にあります。老舗ながらの渋い店構えで、店先に価格表記がないので初訪問で一人では少々入り辛さがあるかもしれません。店内はコの字のカウンターがふたつと、奥に小上り席があります。新小岩店は1階のみのややこじんまりした感じのお店です。


踏破記


ということで、お馴染みの地下鉄門前仲町駅出入口5からスタートし、魚三酒場で一番知られている「魚三酒場富岡店」に向かいます。



01.魚三酒場 富岡店

魚三酒場富岡店は永代通りに面した細長いビルの1〜4階に入っています。以前はビルの壁に大きな看板が掛かっていて分かりやすかったのですが、今は取り外されています。それでも正面の壁に掲げられた看板は存在感抜群です。営業時間は16時〜21時半ですが、15時半を過ぎるとお店の前の歩道には入店待ちの長蛇の列ができます。



魚三酒場では他店でお酒を飲んでの二次会は御法度です。また、長居は禁物です。サクッと呑んでほどほどで退散するのがルールです。注文は、店員さんが順番に聞き取ります。勝手に注文しても無視されます。無愛想に感じられますが、それが魚三酒場の仕来たりです。くだを巻いたり、騒いだりして作法を心得ない客は容赦なく怒られます。魚三酒場には、メニューの多さ・味の良さ・値段の安さ、と全てが揃っています。お刺身は分厚く切ってあります。お酒はこぼれるくらい並々と注いでくれます。なによりも、昭和の雰囲気を残す雰囲気がたまりません。最初は瓶ビール(今時珍しい大瓶です)で喉を潤し、その後は熱燗というのが定番です。お料理では、鮪刺しとおつゆは欠かせません。それに鰯の天麩羅が加われば言うことなしです。センベロとまではいきませんが、2千円もあれば十分満足できます。



魚三酒場富岡店と永代通りを挟んだ向かい側に深川不動堂が鎮座しています。深川不動堂は、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院で、「深川のお不動様」と呼ばれ、古くから親しまれて来ました。毎日定時に行われる「護摩祈祷」は太鼓4台を使用し、迫力と荘厳さを備え、多くの参拝客が訪れます。また、日本一の天井画(大日如来蓮池図)・「四国八十八ヵ所巡拝所」・1万体のお不動様の祀る「祈りの回廊」等見所も豊富です。

Fukagawa Fudodo Temple
Fukagawa Fododo Temple is the Tokyo branch of Narita-san Shinshoji Temple from Narita City, Chiba prefecture, and has been a beloved local structure since olden times. The greatly impressive Goma Fire Ritual is held daily at scheduled hours and features the beating of four taiko drums. The temple also houses one the greatest ceiling art of Japan, the Shikoku Pilgrimage, and a prayer hallway decked with 10, 000 Buddha statues.



油堀川は現在の江東区佐賀二丁目で隅田川から分流して東に流れ、大島川西支川や平久川と交差して現在の木場二・三・五丁目の間を流れて大島川東支川を横切り、木場掘に注いでいた全長1.65kmの割堀でした。油堀川には、和倉橋・永居橋・下之橋・千鳥橋・富岡橋(俗に閻魔堂橋)という橋が架かっていました。元禄十二年(1699年)に開削され、物資の運搬に使われました。深川の十五間川・油堀・堀川とも呼ばれました。現在の佐賀町や福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、川に沿って一色河岸・油堀河岸・数矢河岸がありました。昭和四十九年(1974年)から埋め立てが始まり、昭和五十年(1975年)には水路は消滅しました。昭和五十五年(1980年)にはその上に首都高速9号深川線が建設されました。かつて割堀であった高架下は、現在では遊歩道や駐車場・駐輪場・公園などになっています。清澄通りに面した歩道脇には、今は存在しない富岡橋の親柱がモニュメントとして残されています。親柱の大きさからみても、富岡橋は相応の規模だったのでしょう。



清澄通りは、墨田区吾妻橋から中央区勝どきに至る延長8kmの4〜6車線の道路です。清澄通りは隅田川の東側に沿った南北方向の道路で、春日通りから晴海通りまでの区間で都営大江戸線が地下を通り、両国・清澄白河・門前仲町・月島・勝どきを結んでいます。門前仲町から蔵前橋通りと交差する石原一丁目交差点まで清澄通りを進みます。



清澄通りと交差する葛西橋通りを渡った先に3つのお寺があります。一番手前の陽岳寺は、今川家・武田家・徳川家と戦国時代に三家に仕え、海上から支援した向井将監源忠勝が開基となったお寺です。向井氏は伊勢湾を支配する海賊衆で、武田信玄が水軍を編成したときに配下となり、武田家滅亡後に向井正綱は徳川家康に仕え、江戸入府時には二千石の御船奉行となりました。その子忠勝は大坂冬の陣で戦功をたて、子孫代々左近将監を務めるように命じられました。御船奉行は江戸防衛が役目で、江戸湊沿いに屋敷を構え、忠勝は隅田川沿いに霊巌島を築く工事も手がけたといわれています。

陽岳寺

由来
向井忠勝(1582年〜1641年)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永十四年(1637年)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。慶長二年(1597年)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬、夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。寛永二年(1625年)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。




陽岳寺の隣に法乗院があります。深川えんま堂(ゑんま堂)として古くから人々に親しまれ、寛永六年(1629年)に深川富吉町(東京・江東区)に創建され、同十八年に現在地に移りました。開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺です。えんま堂には日本最大の閻魔大王座像が安置され、本堂1階には江戸時代に描かれた「地獄極楽絵」が展示されています。境内には「日本三大仇討ち」で知られる曽我五郎の足跡石があるなど見どころも豊富です。また、為永春水の「春暁八幡佳年」や河竹黙阿弥の「梅雨小袖昔八丈」などの江戸町人気質を盛り込んだ代表的江戸文芸や芝居の作品中にも法乗院が描かれていて、当時の様子を伺い知ることが出来ます。なかでも「髪結い新三」の「ゑんま堂の場」は法乗院が描かれた名場面のひとつになっています。



ゑんま堂の隣には、深川七福神の「福禄寿」を祀った心行寺があります。心行寺は雙修山養源院と号し、元和二年(1616年)に八丁堀に創建され、寛永十年(1633年)に現在地に移りました。寺名の養源院は、延宝元年(1673年)に錦帯橋を架橋した第二代岩国藩主吉川広嘉(1621年〜1680年)の正室です。心行寺は、深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。

心行寺

由来
心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和二年(1616年)に、八丁堀に創建され、寛永十年(1633年)に現在地に移りました。養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621年〜1680年)の妻で、承応三年(1654年)に没しました。広嘉は岩国藩主として二代目で、延宝元年(1673年)には、錦帯橋を架橋しています。深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。




かって、隅田川との合流部、上の橋から海辺橋までを仙台掘といいました。これは、北側に仙台藩松平陸奥守の屋敷があったことに由来します。この川は、以前に永代六問堀の一つであって、幅六間の堀でしたが、元禄年間に川幅を掘り広げ、さらに亀久橋の方まで新たに疏通した時、川幅を二十間に広げたので、以降この川は、二十間川と呼ばれるようになりました。現在は、大正時代に入って開削され、砂町地区の砂町運河とよばれていた部分を合わせて、小名木川まで5.54キロメートルが仙台堀川です。なお、大横川から東の3.7キロメートルは親水公園になっています。江戸時代、仙台藩邸内で花火が行われたことが記録に残っています。



海辺橋の袂の清澄通りに面して採茶庵を復元した小さな建物があり、奥の細道に出立する直前なのでしょうか、その縁台に腰掛けた旅装姿の松尾芭蕉の彫像が置かれています。庵の前には案内板が立っています。

採茶庵跡 〜奥の細道はここから〜

採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「『常盤屋句合」・「角田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一角でした。案内板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。




庵の前には、採茶庵跡と書かれた石柱も立っています。左右・後面に説明書きがあります。

採茶庵跡

芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て、みずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した。




海辺橋から先の仙台堀川の北側には都立清澄庭園の広大な敷地が広がっています。この地には元禄期の豪商だった紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられています。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されています。明治11年(1878年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手しました。明治13年(1880年)に竣工し、深川親睦園と命名されました。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24年(1891年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見ました。明治22年(1889年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられました。大正12年(1923年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受け、邸宅も焼失しました。それを受けて大正13年(1924年)、三菱三代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈しました。東京市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設などの整備を進め、昭和7年(1932年)7月24日に清澄庭園として開園しました。東京都は昭和48年(1973年)に残る西半分の敷地を購入し、翌年から整備を開始して昭和52年(1977年)に清澄公園として追加開園しました。



小名木川は、隅田川と旧中川を結ぶ運河(人工河川・水路)で、江東区の北部を東西一直線に横断しています。全長約5kmで、途中横十間川、大横川と交差します。小松橋と新扇橋の間には扇橋閘門が設置されており、閘門より東側は地盤沈下が激しくゼロメートル地帯の顕著な地域のために水位を1m下げています。小名木川は、江戸時代初期に徳川家康の命令で建設されました。1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は兵糧としての塩の確保のため、行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けました。しかし当時行徳から江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの江戸湾(東京湾)北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかありませんでした。また、沖合を迂回した場合でも、風向きによっては湾内の強い風波を受け船が沈むことも起き、安全とは言えませんでした。そこで小名木四郎兵衛に命じ、行徳までの運河を開削させたのが始まりです。運河の開削によって安全に塩を運べるようになり、かつ経路が大幅に短縮されました。その後、塩以外の品物の運搬や成田参詣客なども運ぶようになり、行き交う物量が増大しました。1629年、小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅されました。小名木川と旧中川・新川の合流地点には、幕府の役人が駐在して行き交う船の積み荷に江戸の治安上危険な物などが紛れ込んでいないか確認するために簡易な検査をした「中川船番所」が置かれました。新川・江戸川・利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜や東北地方の年貢米などが行き交う大航路となりました。開削とほぼ同時期に川の北側が深川八郎右衛門により開拓されて深川村になり、慶長年間に川の南側が埋め立てられて海辺新田となり、以降江戸時代を通じて埋め立てが進みました。やがて小名木川を中心に竪川・大横川・横十間川・仙台堀川などの整備が進み、重要な運河のひとつとして機能しました。明治時代に入ると、小名木川沿岸一帯はその水運で様々な原材料を運ぶことができたこともあって諸工業が盛んになり、工業地帯となりました。1930年に荒川放水路が完成しましたが、これに伴い荒川・旧中川・新川の合流地点には、「小名木川閘門」・「小松川閘門」・「船堀閘門」が設置されました。昭和50年代には、地盤沈下などによりこれらの閘門は閉鎖されましたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になりました。橋の袂に「中村芝翫宅跡」の案内板が立っています。

江東区登録史跡
二代目 中村芝翫宅跡

歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政八年(1796年)江戸下谷に生まれ、嘉永五年(1852年)二月一七日に五七歳で没しました。はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化十年(1813年)に中村鶴助と改名、文政八年(1825年)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役、実悪、女方、武道、荒事など、さまざまな場面で活躍し、天保七年(1836年)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保二年(1831年)に江戸の中村座で「六歌仙」を演じた時、喜撰法師(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、「我が庵は芝居の辰巳常盤町、而も浮世を放れ里」と住居付近の様子をおりこんでいます。




02.魚三酒場 ときわ店

魚三酒場ときわ店は、清澄通りから深川芭蕉通りが分岐する交差点傍の細長いビルの1〜2階に入っています。ちなみに、ビル名が「常磐魚三ビル」とありますから、自社ビルのようです。私もタイル1枚分位は寄与したかも。



店内にはコの字型のカウンターがあり、富岡店ほどではありませんが、お客さんで賑わっています。刺身・天麩羅など、お持ち帰りも出来るようですが、やはりカウンターの前に座ってアツアツの揚げたてを頂きたいものです。



清澄通りに面して、元祖カレーパンのお店を謳った明治十年(1877年)創業のカトレアという老舗のパン屋さんがあります。カトレア(Cattleya)は中南米原産のラン科植物で、美しい花を咲かせることからよく栽培され、最も有名な洋ランです。洋ランの女王とも言われます。でも、看板の表記は「Cattlea」となっていて、「y」が抜けていますね。辞書には見当たりませんが、別の意味なのでしょうか?元祖カレーパンは平日は約1、000個、週末には約1、500個も売れるというお店の看板商品です。商品化されたのは昭和二年で、当時は洋食ブームの真っ最中でした。カレーパンは人気のカツレツとカレーライスからヒントを得て考案されたそうです。ニンジンや玉ネギなどの野菜がたっぷり使われたカレーはマイルドで自然な甘みが感じられ、上質なサラダ油と綿実油で揚げられているために全く油っこくありません。揚げあがりは7時・11時・15時の1日3回ですので、その時間を狙って揚げたてを買うのが良いかと思います。甘口と辛口の2種類があります。



清澄通りと新大橋通りが交差する森下駅前交差点の角に、「二ツ目通り」の由来を記した石碑が置いてあります。

二ツ目通り(清澄通り)の由来

明暦三年(1657年)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治二年(1659年)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661年)に完了しました。開拓は道路と河川を一的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋・・・・・・五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは堅川二之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に堅川二之橋通りの名が残されています。




清澄通りと斜めに交差している並行する2本の道路があります。この辺りの通りと通りは大抵直角に交わっていますが、何故この道だけが斜めに交わっているのでしょうか?それは、江戸時代にはここに五間掘と呼ばれた水路があり、その水路が埋め立てられた後、かっての水路に沿って道だけが残ったからなのです。弥勒寺橋は清澄通が五間掘と交わる森下駅A5出口のところに架けられていた橋で、その名は近くにある弥勒寺に由来していました。寛文十一年(1671年)には既に橋が架けられていたことが確認されていますが、弥勒寺がこの地へ移ってきたのは元禄二年(1679年)であるため、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられています。弥勒寺は、池波正太郎著の「鬼平犯科帳シリーズ」では、その門前にお熊ばあさんの営む茶店「笹や」がある寺としてお馴染みです。一方、弥勒寺橋の方も時代小説には度々登場していて、藤沢周平著の「獄医立花登手控えシリーズ」や「彫師伊之助捕物覚えシリーズ」の中では弥勒寺や六間堀・五間掘等とともに作品を彩るランドマークとなっています。

弥勒寺橋跡

弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間堀にかけられていた橋です。この橋の初見は寛文十一年(1671年)の江戸図で、江戸時代前期には、すでに架橋されていたことがわかります。弥勒寺橋という名称は、橋の北東に真言宗弥勒寺があったことに由来します。しかし、弥勒寺は、元禄二年(1689年)に本所へ移ってきたので、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられます。五間堀は、昭和十一年(1936年)・昭和三十年の二度の埋め立て許可により、全て埋め立てられ、その後弥勒寺橋も廃橋となりました。




竪川に架かる二之橋の袂に幾つかの案内板が立っています。

鬼平情景
弥勒寺門前 茶店 笹や

弥勒寺前にあり、平蔵が「本所の銕」と呼ばれ、放蕩無頼の日々をおくっていた頃をよく知るお熊婆さんの店です。今は七十を超えていますが、若い頃は平蔵に毎日のように酒を飲ませ、泊めてやったきっぷのよい世話好きですが、一度は平蔵の寝床にもぐりこんで逃げ出された苦い思いをしています。「お熊と茂平」では役宅を訪ねて来たお熊が平蔵にその時の話を持ち出されて恥じる場面が出てきます。意外に純な面があります。塩辛声で、口の利きようは男勝り、容姿は痩せて骨が凧のように張り出し、一度会ったら忘れられないものです。平蔵が盗賊改方の長官にな ってからはその出先のような役を担い、連絡や見張りの場所はもちろん、隠れ家にもなり、作品の多くに登場します。




二之橋についても、その歴史が解説してあります。

江戸の町 二之橋

万治二年(1659年)、竪川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ十間(18メートル)、幅三間(5.4メートル)ほどありました。池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。現在の橋は平成十年(1998年)に架橋されたものです。




軍鶏鍋にはこれといった定義はなく、軍鶏の肉が入っていれば軍鶏鍋と呼ばれます。坂本龍馬が好んだとされる軍鶏鍋は、出汁と醤油で作った割り下ににんにくを入れて軍鶏を煮込んだものとさています。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」においては、近江屋事件の当日に龍馬が軍鶏鍋を注文するのですが、料理屋から届く前に暗殺されてしまうという様子が描かれています。池波正太郎の鬼平犯科帳シリーズに出てくる軍鶏鍋屋「五鉄」の軍鶏鍋は、軍鶏のもつ(内臓肉)を使うのが特徴で、酒・みりん・醤油・水を合わせて濃い目の割り下を作り、ささがきの牛蒡と軍鶏のもつを鉄鍋で煮込んだものということになっています。鍋料理であるにもかかわらず夏でも登場人物に食べさせていて、粉山椒や唐辛子をかけつつ、汗を拭いながら食べるのが快味だということです。東京の深川には五鉄の軍鶏鍋に似た料理を出す店が現存しています。軍鶏鍋から派生した料理として、日本橋人形町の軍鶏料理屋「玉ひで」で考案された親子丼があります。

鬼平情景 軍鶏なべ屋「五鉄」

小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は竪川」とあるように、この辺りだと推定されます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。




葛飾北斎は江戸時代後期の浮世絵師で、代表作に「冨嶽三十六景」や「北斎漫画」があります。世界的にも著名な画家で、安永八年(1779年)から嘉永二年(1849年)までの70年間にわたって、人間のあらゆる仕草や花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫・鳥・草花・建物・仏教道具、妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表しました。その画業分野も版画(摺物)のほか、肉筆浮世絵・黄表紙・読本・狂歌本・絵手本・春画など多岐にわたっています。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は西洋由来の絵画技術にも大いに興味を示し、銅版画やガラス絵・油絵などの描法を研究し試みました。北斎の画業は欧州へと波及し、ジャポニスムと呼ばれるブームを巻き起こして19世紀後半のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼしました。

すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
本所立川 −富嶽三十六景−

富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(「冨嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

Trace the footprints of KATSUSHIKA HOKUSAI, a world class painter of SUMIDA
Thirty-six Views of Mount Fuji: Honjo Tatekawa (The Timberyard at Honjo)

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt.Fuji. This print was made when Hokusai was about seventy years old. During the Edo Era, timberyards that used the river for transporting timber were crowded along the north bank of the Tatekawa River (nearby the former Aioicho 1-chome through to 2-chome). Hokusai has depicted a scene of Mt. Fuji seen from between the timberyards, the workers and the timber. The composition of this print with Mt.Fuji visible between the piles of timber is typical of Hokusai, who was very proficient at expressing perspective. "Nishimura Storage Yard" is written on the timber storage area at the bottom right-hand side and "2-Chome Bakurocho" and "Supplied by Eijudo" is written on the timber on the left and right of this, enabling Hokusai to casually advertise the name and address of the Thirty-six Views of Mount Fuji series' publisher.




清澄通りと国道14号線(京葉道路)が交差する緑一丁目交差点角に、相撲の町である両国に相応しいキングサイズ(胴囲り100cm以上)専門のライオン堂があります。実際にお相撲さんの利用も多いのですが、一般の方でも体が大きい人にはお勧めの洋服屋さんです。



江戸東京博物館は両国の国技館の隣に位置し、江戸・東京の歴史・文化に関わる資料を収集・保存・展示し、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として平成五年(1993年)3月28日に開館しました。建物は地上7階・地下1階の鉄骨造構造で、地上部分の高さは約62mあり、明暦三年(1657年)の「明暦の大火」で焼け落ちた江戸城天守閣とほぼ同じだそうです。隣接する国技館との調和を考え、高床式のユニークな構造の建物になっています。現在は大規模な改修が進行中で、休館のようです。



清澄通りと蔵前橋通りが交差する石原一丁目交差点の角に横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園があります。東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。



蔵前橋通りは、文京区のサッカーミュージアム入口交差点から、千代田区・台東区・墨田区・江東区・葛飾区を経由し、江戸川区の市川橋手前の国道14号(千葉街道)との交差点までの、4〜5車線・総延長14kmの道路の通称です。概ねJR総武線に沿った道路で、隅田川を蔵前橋で渡り、亀戸天神の前や新小岩駅付近を通り、千葉街道に合流して千葉県に入ります。新小岩駅の北側を通りますので、道なりに歩けば自然と魚三酒場新小岩店に向かえます。



半地下になった大横川親水公園を法恩寺橋で渡ります。大横川はかっては川の流れが見られましたが、昭和五十六年から墨田区内の上流部を暗渠化する工事が始められ、現在見られる大横川親水公園は平成九年に完成しました。公園となっても、かつての橋の大半は往時のまま残り、報恩寺橋のほか、業平橋や江東橋も現役のままで残っています。報恩寺は、太田道灌が江戸城築城に際して平川(後の江戸城平川門付近)に建立したことから、その地名に因んで山号を平河山とし、元禄八年(1695年)にこの地に移転してきました。蔵前橋通り周辺の「太平」という町名は、太田道灌の「太」と山号の「平」に因むといわれています。かつては20ヶ寺に及ぶ塔頭(たっちゅう:禅宗寺院で祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院をいいます。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは門徒らが塔のほとり・「頭」で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説があります。)を擁したという大寺ですが、現在も参道の両側には4ヶ寺の塔頭が見られ、そこには周囲の喧騒から切り離された静寂な空間が残されています。参道を報恩寺山門に向けて歩くと、ちょうど寺の背後にスカイツリーが望まれ、歴史ある景観に新しい顔が加わった絶妙のロケーションとなっています。

法恩寺

長禄二年(1458年)、江戸城を築いた太田道灌が、江戸平河(千代田区)に建立したのが始まりです。開山は日住上人、寺号は本住院です。道灌の孫、資高が法恩寺と改めました。移転を重ねて、元禄元年(1688年)、現在地へ移転しました。

Hoonji Temple

The history of Hoonji Temple started when Ota Dokan, who constructed Edo Castle, built it in Edo Hirakawa (Chiyoda Ward) in 1458. The temple was opened by Saint Nichiju under the name of Honju-in. It was Dokan's grandson Suketaka who changed the name to the current Hoonji. After several relocations, the temple was finally transferred to the current site in 1688.




蔵前橋通りと四ツ目通りが交差する太平四丁目交差点角にはオリナスがあります。オリナス(OLINAS)とは、ショッピングモール・シネマコンプレックス・オフィスビル・マンションから成る複合商業施設です。明治二十六年(1893年)から平成九年(1997年)までこの地にあった時計メーカーの精工舎(セイコー)の工場跡地の再開発事業として、東京建物が中心となって開発され、2006年に開業しました。専門店の入る「オリナスモール」、大型商業施設の入る「オリナスコア」、オフィスビル「オリナスタワー」、マンション「ブリリアタワー東京」の4棟で形成されています。名称のオリナスは、建設地の「錦糸」町の連想から、職・住・遊が融合して「織り成す」をイメージして付けられました。また、アルファベット表記のOLINASは、「Organization of Lifestyle Interface, New bussiness, Amenity, Shopping」の頭文字となっています(こじつけっぽい感あり)。



天神橋で横十間川を渡ります。橋名の由来となった亀戸天神社は、江東区亀戸にある神社(天満宮)です。天満大神(菅原道真)を祀り、受験生などを中心に学問の神として親しまれています。亀戸天神社は、正保年間(1644年〜1647年)に菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐が天神信仰を広めるために社殿建立の志をもち、諸国を巡り、寛文元年(1661年)に江戸の本所亀戸村に辿り着き、元々あった天神の小祠に道真縁の飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされています。古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府という意味で「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」・「本所宰府天満宮」と称されていました。明治六年(1873年)に府社となって亀戸神社と改称され、昭和十一年(1936年)に現在の亀戸天神社となりました。例年10月下旬から11月下旬まで菊まつりが開催されています。本殿の正面を取り囲むように菊を展示して菅公を慰めるとともに、参拝客も鑑賞できるようになっています。



江戸時代の亀戸には、浮世絵師の歌川広重が描いたこともある梅屋敷がありました。亀戸梅屋敷はその歴史ある建物をモチーフにして、平成二十五年(2013年)3月にオープンした複合商業施設です。観光案内所や物産店・江戸切子ギャラリー・寄席など、亀戸の文化や歴史の魅力をたっぷり味わうことができます。



亀戸梅屋敷の歴史を記した案内碑が建っています。

江戸の賑わい処 「亀戸梅屋敷」

江戸時代、亀戸には呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘があり、その庭には見事な梅の木々が生えていました。立春の頃になると江戸中から人々が船でやってきて、この地はたいそう賑わったといいます。特に「臥竜梅」と呼ばれた一株が名高く、水戸光圀や徳川吉宗も賞賛したそうです。また、歌川広重により描かれた浮世絵「亀戸梅屋敷」は江戸の時代に海を越え、かのゴッホが模写するなど、日本のみならず世界から評価された傑作と言えるでしょう。江戸ッ子たちを魅了し、その名を世界に知らしめた「亀戸梅屋敷」。現代に蘇った賑わいの拠点「亀戸梅屋敷」を舞台に江戸/下町/亀戸の粋な歴史と文化をお楽しみください。




蔵前橋通りは新小原陸橋で亀戸線と立体交差しています。明治三十七年(1904年)に開業した亀戸線は、江東区の亀戸駅と墨田区の曳舟駅とを結ぶ東武鉄道の鉄道路線で、路線距離は僅か3.4kmしかありません。駅の数も起終点駅を含めて5駅のみです。亀戸駅の次の亀戸水神駅は亀戸天神の最寄り駅と間違われやすいのですが、全くの別方向です。



江東新橋は旧中川に架かる橋で、西詰は江東区亀戸八丁目・東詰は江戸川区平井五・六丁目となっています。昭和三十六年(1961年)に架橋され、橋の長さは74メートルあります。蔵前通りは江東新橋の手前から向きを北東に変え、東京都と千葉県の境界を流れる江戸川方向に向かいます。



平井大橋は、荒川(荒川放水路)と中川の両河川を跨いで架かる蔵前橋通りの橋です。江戸川区平井と葛飾区西新小岩とを結び、橋の長さは616メートル(荒川渡河部483.9メートル・中川渡河部132.1メートル)という長大な橋です。平井大橋は四ツ木橋や小松川大橋など荒川に架かる橋の混雑緩和を目的に、昭和三十六年(1961年)に着工され、昭和四十一年(1966年)に竣工し、同年8月に開通しました。平井大橋のすぐ下流には荒川中川橋梁が架かり、総武線が走っています。



辰橋は蔵前通りと平和橋通りとの交差点にその痕跡が残っています。橋名の由来ですが、「巽」というのは東南の方角を指す言葉です。江戸深川の芸者衆を巽(辰巳)芸者と呼ぶのも「江戸の東南の芸者」という意味です。新小岩の巽橋は何を中心にして「巽」なのでしょうか?実は、明治二年(1869年)に成立した小菅県の県庁が置かれた小菅御殿(現在は小菅拘置所の敷地になっています)から見た方角を言っているのだそうです。小菅県は明治四年に品川県とともに東京府に合併し、短い間存在した県です。辰橋はかっての西用水(西井堀)に架かっていた橋で、現在水路跡は「西井堀せせらぎパーク」という親水公園になっています。



交差点を右折して平和橋通りを南下します。平和橋通りは、概ね荒川の東側に沿って足立区の日光街道の千住新橋北詰交差点から江戸川区の千葉街道の八蔵橋交差点に至る、総延長7kmの2〜4車線の都道で、JR総武線の新小岩駅前や江戸川区役所の前を通ります。そのまま平和通りを進み、新小岩駅南口の脇を地下道で抜けます。



03.魚三酒場 新小岩店

魚三酒場新小岩店は、平和橋通りと小松通り会商店街が分岐する交差点角にあります。建物の壁が黄色に塗られていますのでかなり目立ちます。歩道に面して大きなガラス戸が並んでいて、何処が入口なのか迷います。入ったことはありませんが、店内にはコの字のカウンターがふたつと、奥に小上り席があるそうです。折角訪れたので一杯引っかけていこうかと思ったのですが、開店まで2時間もあり、またの機会にします。



入口のガラス戸に、葛飾区を本拠地とする南葛SC(Nankatsu Sports Club)のポスターが貼ってあります。あまり聞いたことないチーム名ですが、そのルーツは1983年に葛飾区立常盤中学校サッカー部OBを中心にして設立された常盤クラブです。2013年に、漫画「キャプテン翼」の作者で地元葛飾区出身の高橋陽一を後援会会長に迎え、同作の登場人物である大空翼や岬太郎らが小学校時代に所属していた選抜チームに因んで南葛SCに改称しました。今はJリーグへの加盟を目指しているそうです。魚三の店員さんもサッカーが好きなのかな?



新小岩駅の南口から広場を挟んでアーケード商店街が延びています。下町情緒が溢れ、活気あるルミエール商店街は葛飾区の商店街の中でも歴史が古く、地元民に親しまれています。餅つき・さくらまつり・チャンスセール・収穫祭・イルミネーションなど、四季折々のイベントが盛りだくさんです。



新小岩駅から総武線で帰宅します。門前仲町から2万歩弱の歩きでしたが、途中には多くの名所・旧跡が目白押しでした。時間を調整すれば魚三新小岩店でお散歩の疲れを癒やせたかも知れませんが、またの機会を楽しみにしましょう。







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