俺の〜 (五日目:最終日)


踏破記


今日は俺の〜巡りの最終日です。昨日の中断地点である新橋駅烏森口から今日の歩きをスタートします。



新橋駅から国道15号第一京浜を品川方向に南下します。浜松町駅前に聳えていた世界貿易センタービルは跡形もなく消え去っています。芝エクセレントビル前で、「濱松町 町名の由来」という文字が剥げかかった案内板を見かけました。ふ〜〜〜ん、浜松町という地名は浜松市から由来したものですかぁ。

濱松町 町名の由来

武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を向かえ太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成長したと考えられ、天正十八年(1590年)徳川家康の江戸城入場を見、城下町計画に着手。慶長三年(1598年)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄・特権商人・地元住民による東側海浜地帯の埋立工事完成。慶長六年(1603年)東海道を現国道15号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増上寺代官と兼任であった。名主奥住久右衛門の支配下で、「久右衛門町」と呼ばれ、元禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事より、これ以後「濱松町」に改名され、明治・大正・昭和・平成と受継がれ現在に続いている。江戸では歴史のある数少ない「古町」のひとつである。尚、当町内には多くの史跡・旧跡(慶応義塾跡・新銭座跡・東京市電車庫第一号跡等)が点在している。




芝地区旧町名の由来を解説した案内板が立っています。ちょっとマイナーな町名ですね。

芝地区旧町名由来板

湊町

寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696年)、多門建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主の拝領町屋敷に下され、一時は同朋町と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704年〜1711年)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各所に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。また、俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。

Minato-cho

This town site was seized by authority in the 7th year of the Kanbun period (1667), and thereafter became the residence for Bakufu Obozu (generally called D0b0; tonsured waiters with the duty to serve tea in the castle). Therefore the town would generally be called Dobo-cho. In the Hoei period (1704-1711) it was renamed Shibaminato-cho after its location near the sea (minato meaning "harbor") in order to be distinguished from other Dobo-choes that existed in several places.

土手跡町

将監橋と金杉橋との間、金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝浜松町四丁目・芝中門前三丁目・芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、多門建設計画の中止に伴い、貞享二年(1685年)、土手は取り払いとなって、その跡地へ町屋を開設し、土手跡町と唱えるに至ったと伝えられています。

Doteato-cho

In the 7th year of the Kanbun period (1667) a scheme of building Tamon gate on the north side of the Kanasugibashi bridge was made, and a bank was built for a future gate. Thereafter the scheme was suspended and then in the 2nd year of the Jokyo period (1685) the bank was cleared away. It is said that trademen's houses were constructed at the bank site that where to develop into this town named Doteato-cho (doteato meaning "bank site").

新網町

むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626年)より、ここから幕府に白魚を献上したので、その褒美として同七年(1630年)、名主惣十郎の先祖伝右衛門を召し出し、海岸の百間四方の地を網干場に与えられました。同十一年(1634年)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、網干場に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。

Shin'ami-cho

Fishery was extensively carried out in this area. The fishermen had presented icefish to the shogunate government since the 3rd year of the Kan'ei period (1626), and consequently they were given an area of 3.3 square kilometers for drying nets as a reward in the 7th year of the same period (1630). Thereafter they were allowed to live in the area which eventually developed into this town, named Shin'ami-cho, meaning literally "new-net-town", because the land was originally given for drying nets.




港区では、旧町名の案内板の他に、エリアの地図に名所・旧跡などの情報を付加した「ちぃまっぷ」という案内板もあちこちに設置されています。こちらは観光案内板のような感じです。

芝地区ちぃまっぷ

ガス創業の地

東京のガス事業は明治六年(1873年)に東京会議所により開始され、翌年には銀座にガス灯が灯りました。横浜、兵庫に続くわが国3番目のガス事業でした。

The place where the gas industry business founded

The gas industry business in Tokyo started in 1873 by former Tokyo Chamber of Commerce, and Tokyo's first gas light was built in Ginza in the following year. It was the third gas industry business in Japan followed by Yokohama and Hyogo.

旧芝離宮恩賜庭園

元は老中大久保忠朝が延宝六年(1678年)に拝領した上屋敷の「楽寿園」という回遊式庭園で、かつては中央の池に海水がひき入れられていました。5月初旬には樹齢200年のフジの花が見ごろとなります。

Kyu-Shibarikyu Onshi Teien (Garden)

It was formally called "Rakuju-en" which was given to Okubo Tadaaki, an executive officer next to Shogun, in 1678 to excurse and walk around the garden to enjoy its beauty. It used to drag and keep the sea water in the pond built in the center of the garden. The best season to enjoy the beauty of wisteria which is about two hundred years old is early May.




「西郷南州 勝海舟会見地」のモニュメントは、以前は日比谷通りの起点である芝五丁目交差点角のビル前に置いてあったのですが、ビルの建て替え工事により別の場所で保管されていました。現在はビルも竣工し、元の場所に戻されています。

田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内

この敷地は、明治維新前夜慶応四年3月14日、幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ(明治五年)、更に理め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。




モニュメントには、勝海舟と西郷隆盛の会見の様子を描いたレリーフも添えられています。



別のちぃまっぷにも「西郷南州 勝海舟会見地」が載っています。

芝地区ちぃまっぷ

西郷南州 勝海舟会見地

碑には「江戸開城 西郷南州 勝海舟会見之地西郷吉之助書」とあります。慶応四年(1868年)薩摩藩蔵屋敷にて、江戸城無血開城へむけての2回目の会見が行われたと言われています。

Meeting place of Saigo Nanshu and Katsu Kaishu

It is written that "the place where Saigo Nanshu and Katsu Kaishu had a meeting to surrender the Edo Castle enscribed by Saigo Kichino-suke" on the monument. It is said that the second meeting to surrender the Edo Castle without bloodshed was held at the warehouse of Satsuma-han (Satsuma feudal clan) in 1868.

雑魚場跡(本芝公園内)

本芝公園は、江戸時代には東京湾でとれた小魚を水揚げした場所で、雑魚場(ざこば)といわれていました。水揚げされた魚は「芝肴」と称せられ、江戸の人々に賞味されました。

Former Zakoba (Landing point of small fish) (Honshiba Park)

Honshiba Park was called "Zakoba", where fishermen land the small fish in Tokyo Bay in Edo period. The small fish landed were called "Shiba Zakana" (Fish of Shiba) and appreciated by the people in Edo.




とあるビルの前に、江戸城の石垣にも使われた伊豆産の石が展示・保存されています。江戸時代にはこの付近は海岸だったんですね。

由来

この植え込みを囲んでいる石は、センチュリー三田ビル建設に伴う堀削工事中に出土したものです。専門家の鑑定によれば、江戸城の石垣などに広く用いられている伊豆産の火成岩でありますが、加工の特長からみると江戸城が建設された江戸時代初期のものではなく中期のものであろうとの事です。江戸の古地図や文書によりますと、明和年間(1760年頃)この地には細川越中守の下屋敷があり、高さ1丈2尺(約3.6m)・長さ227間(約409m)の石垣があったと記されております。おそらく当時の護岸用の石であったと思われます。




国道15号線の海側に高輪大木戸跡の土塁が見えます。大木戸とは、江戸時代に街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所です。人間や物品の出入りを管理するのが目的でした。木戸は江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製の扉で、その大規模なものが大木戸と呼ばれていました。

史跡 高輪大木戸跡

高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710年)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(1724年)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792年)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天和二年(1682年)には、札の辻(現在の港区芝五の二十九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。




品川駅周辺エリアの再開発は、泉岳寺駅・高輪ゲートウェイ駅〜品川駅の縦のラインで主要プロジェクトが進んでいます。2020年3月に開業した山手線新駅である高輪ゲートウェイ駅から南方面に品川駅まで縦に広がる「品川駅北周辺地区再開発:品川開発プロジェクト(第T期)」、そして泉岳寺駅周辺の「泉岳寺駅地区第二種市街地再開発事業」が進行中です。


右は完成予想図です。


品川駅を過ぎ、北品川二丁目交差点で山手通りと交差します。目黒川を渡ったところで右折し、川沿いにJR線の高架下まで進みます。



JR線の脇道を大井町駅方向に向かい、大井町駅東口で右折して都道420号線を東急大井町線の高架沿いに商店街のアーケードを進みます。アーケードの終端近くに、晩杯屋大井町店と同様にかって私が足繁く通った「俺のやきとり大井町」のお店があります。

25.俺のやきとり 大井町

「俺のやきとり 大井町」店は、2013年4月26日に「俺のやきとり蒲田」店に続いて、品川エリア初出店としてオープンしました。開店当初は席数が105席の立ち呑みスタイルだったのですが、現在はカウンター席も含めて全席着席の79席になっています。



店の看板メニューの「やきとり」は、独自ルートで新鮮な肉を低価格で仕入れ、やきとり職人の焼き師による絶妙な火入れで肉の味を活かしたジューシーな逸品に仕上げています。お土産にもできます。酔っ払って帰っても、奥様に優しく迎えてもらえます。



以前はなかったのですが、今は土・日・祝日はランチタイムにも営業しているみたいです。宴会コースも用意されているようです。大人数でなければ忘年会でも使えますね。



お店のガラス窓に料理長のパネルが貼られています。

岡田徹也料理長
物心ついたときから、料理人になるのが当然だと思っていた生粋の料理人。「なだ万」で腕を磨き、日本料理の真髄を理解する。後世にも本物の料理を伝えるため人財育成にも力を入れている。



立会川緑道に入り、JR線の高架に沿って大森駅方向に進みます。この周辺は、江戸時代には薩摩鹿児島藩島津家の広大な抱屋敷でした。

旧・薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡

この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治二年【1658年】買得)および抱地(天保三年【1832年】取得)であった。敷地は約1万8千坪に及ぶ。安政三年(1856年)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隅守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隅守」と表記されている場合がある。慶応年間になり、大井村の平林九兵衛が島津家よりこの地を譲り受け、開墾して耕地にしたと伝えられている。安政二年(1855年)頃の薩摩藩主島津薩摩守斉彬は77万800石の家禄があり、上屋敷は幸橋御門内(現・千代田区内幸町)にあった。
※上記大名屋敷の所有関係は、安政三年頃のもの




大森駅を過ぎ、御成橋通りを更に蒲田駅方向に進みます。結構な距離がありますねぇ。蒲田駅手前の御成橋で呑川にぶつかり、橋を渡って蒲田五丁目交差点から商店街が続く通りに入りますと、最初の四つ角の北側に「俺のやきとり蒲田」のお店があります。



26.俺のやきとり 蒲田

「俺のやきとり 蒲田」店は、俺の〜の店舗には珍しく、1・2階の121席から成っています。以前は1階は大衆居酒屋の雰囲気だったのですが、2023年11月にリニューアルされてお洒落な空間に大改装されたようです。



大人気メニューは、「やきとり5本盛合わせ」です。原価率完全無視のコスパ抜群な盛合せで、ねぎま・砂肝・ぼんじり・かわ・つくねの5本が定番になっています。全て国産鶏を使用していて、焼き方は炭火でしっかり焼き上げています。炭火から遠赤外線と近赤外線などの輻射熱によって、ガス火に比べて外はカリッと中はフワッと仕上がっています。焼き場は道路に面していますので、お店の外から職人さんの手さばきを見ることができます。焼き鳥は赤ワインとの相性も良く、以前訪れた際には1本では足りず、追加でもう1本頼んでしまいました。さすがに2本は飲みきれず、残ったワインはお持ち帰りとなりました。



料理長の紹介ポスターはありませんが、佐藤料理長が指揮を執っているようです。

佐藤翔料理長
俺の株式会社の新卒2期生として入社。俺のやきとり、俺の割烹にて経験豊富な料理長のもとで7年間経験を積む。2022年の副料理長就任を経て、2023年料理長に就任。

「俺のやきとり蒲田」店と同じビルの地階に「俺の焼肉蒲田」のお店があります。銀座九丁目のお店は1階が焼肉で地階が焼き鳥のお店でしたので、逆の配置ですね。



27.俺の焼肉 蒲田

「俺の焼肉 蒲田」店もA5黒毛和牛一頭買いを売りにしています。蒲田店名物の「蒲田盛デラックス」は、総重量1kgで一万円也。「蒲田盛」500gだと五千円、「黒毛ファイブ」250gだと三千円です。1kgの焼肉、一人で食べきれるかなぁ。



料理長の紹介ポスターはありませんが、伊藤料理長が指揮を執っているようです。

伊藤徹料理長
高校卒業後から23年間、焼肉店一筋。料理長経験や、一頭買いのセリでの買い付け経験もある、焼肉のスペシャリスト。俺の株式会社入社後は、俺の焼肉各店に勤務し、入社2年目にして早くも料理長に就任。

「俺のやきとり蒲田」のお店で俺の〜シリーズ完歩の祝杯を上げるつもりでしたが、開店には未だ時間があり、残念ですがJR蒲田駅から帰宅の途につきます。神楽坂から始まって蒲田まで、23区内の俺の〜27店を巡り、結局立寄ることはなかったのですが懐かしいお店にも再訪できて良かったです。いつか、未だ行ったことのないお店にもお邪魔したいものです。







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