10.光が丘・赤塚コース(二回目)
『光が丘・赤塚コース』は、練馬区の長光寺橋を起点にして、荒川戸田橋緑地に至る12.2kmのコースです。
<総合案内板のコース紹介>
このコースは練馬区の石神井川長光寺橋から板橋区荒川堤防(新河岸1丁目)までの市街地の緑を結ぶ約12.2kmのコースです。都内で最も広大な団地のひとつである光が丘団地と高島平団地、そしてその団地に隣接した光が丘公園、赤塚公園を通過します。また赤塚には新東京百景の東京大仏をはじめ多くの寺社が点在しています。
<パンフレットのコース紹介>
広大な公園と、赤塚の起伏ある台地の谷すじに点在する、史跡群をめぐるコース。赤塚の旧鎌倉街道沿いには、名刹・史跡が数多くあり、また、区立の郷土資料館・美術館も整備されて、歴史を訪ねながら憩える場となっています。農地や雑木林のなかを抜け、少し高い丘に登りまわりを見回せば、高速道路や高層ビルが遠くに見えますが、このコースのあたりは、まだまだ昔のすがたが残っています。そんな人と自然との関わり合いが色濃く残る風景を探して歩くコースです。
10年前になりますが、東京都が制定した「武蔵野の路」21コースを歩きました。このうち、9コースについては踏破記を書きましたが、残り12コースについては未完となっていました。今回、一念発起して踏破記が未完のコースについて、再度歩き直して完成させようと思います。
今回は「光が丘・赤塚コース」です。起点は石神井川に架かる長光寺橋になりますが、今回は逆向きに歩きますので、板橋区の新河岸1丁目となります。荒川戸田橋緑地を眺望する土手から降りてやや殺風景な住宅と工場が入り組んだ路地に降り立ちます。古びた都営団地を左右に見ながらちょっと歩くと、新河岸川に架かる徳丸橋に出ます。新河岸川はこの先の赤羽岩淵水門で隅田川に合流します。徳丸橋を左折し、直ぐ先で右折しますと前谷津川緑道に入ります。
前谷津川は、赤塚新町などの水源から発し、赤塚・四葉・徳丸・西台・高島平の谷間を流れて新河岸川に注いでいた長さ5kmあまりの小川でした。1984年に暗渠工事が完了し、今では川の流れを見ることはできませんが、その後に前谷津川緑道が整備されました。高島平2丁目あたりには、かつて川の両岸に並んでいたという桜並木が連なっており、春には花見客で賑わいます。緑道は高島通りを横断し、高島平団地の中に入って行きます。武蔵野の路が団地の中を通るというのはちょっと不思議な感じがしますが、団地の中の遊歩道のように溶け込んでいます。さくら通りとも呼ばれているそうです。
高島平団地を抜けて不動通りに出ます。そのまま直進しますと首都高速池袋線の高架が目の前に聳えています。ここで右折し、高架に沿って進みます。ここでは道路の右側(北側)の歩道を歩きます。道路に沿って、左右に広大な赤塚公園が広がっています。どんどん歩いて行きますと、首都高池袋線の高架は新大宮バイパスと合流します。複雑に入り組んだ高架を抜けて赤塚公園に出るには、一旦側道に降りて歩道橋を渡るしかありません。道路の右側(北側)の歩道を歩いて来ないとこの歩道橋には出れません。
歩道橋を抜けて新大宮バイパスの反対側に出ます。ここから東京大仏通りを進みます。と言っても、東京大仏通りは狭くて歩道がありません。代わりに、歩道が現れるまで赤塚公園の中を通ります。赤塚公園には、旧赤塚城本丸跡が残されています。高台の上に開けた空き地と案内板がかろうじてその痕跡を感じさせますが、都内に残る貴重な史跡です。
武蔵千葉氏と赤塚城趾
下総国の守護千葉氏は、古河公方足利利成氏と関東管領上杉家が争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456年)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(よりたね)兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と白浜城(現台東区)へ入城しました。寛正四年(1468年)に兄の後を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(1590年)まで勢力をふるいました。城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかになっていません。
赤塚公園を出た東京大仏通りの向かい側に10年前にも立ち寄った北海道アイスクリーム屋さんが今も営業していました。ボリュームの割にお値段は安く、今回もバニラアイスクリームを頂きました。とてもクリーミーで直ぐに溶け出すのが難点ですが、ちょっと他とは比較できない美味しさです。
アイスクリーム屋さんの先に、板橋区の史跡にもなっている赤塚不動の滝があります。今ではチョロチョロと流れ落ちる水量少ない滝ですが、昔はどうだったのでしょうか?
かつて、板橋区内にある崖下からは、いたるところで湧水がみられ、人々の生活に潤いをあたえてくれていた。この滝もその一つで、山岳信仰が盛んとなった江戸時代の中ごろより、富士山・大山(神奈川県相模原)などの霊山に発拝する際、出発に先だち地元の人たちがここで身を清める“みそぎ”場として使われていた。崖上にはこの滝の守護神ともいえる不動尊石像が祀られている。昔は滝つぼの前に垢離(こり)堂が設けられていたという。昭和八年滝つぼが整理される前には、現在より水量も多く水の落ち口も広かったようである。この滝水はいかなる時でも涸れることがないと伝えられるが、周辺の宅地開発にともない水量は減少している。それでも、自然の豊かだった時代をほうふつさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られている。
不動の滝から少し先の右手奥に乗蓮寺があります。赤塚公園には旧赤塚城の本丸跡がありましたが、乗蓮寺の境内には二の丸跡の石碑が立っていました。ただ、諸説あって本当に二の丸だったかどうかは定かではないそうです。私は見落としましたが、ここには冒険家の植村直己の墓があります。といっても、植村直己はマッキンリーで遭難したので、お墓といえるかどうか分かりませんが。
乗蓮寺は東京大仏のあるお寺として知られています。奈良の大仏も鎌倉の大仏も見たことはありませんが、確かに大きいです。32トンもの青銅を調達したのも凄いですが、よくぞここまで緻密に造られたなというのが実感です。でも、牛久大仏の方がもっと大きいのでは?
坐像で、青銅製の鋳造大仏では、奈良・鎌倉に次ぐ日本で3番目の大きさを誇ります。高さは基壇が地上2メートル、蓮台2.3メートル、座高8.2メートルの計12.5メートル、重さは32トンあります。浅草の仏壇店翠雲堂が製造しました。
東京大仏通りの終点手前に松月院というお寺があります。お寺の歴史は古く、なかなかに格式が感じられます。
松月院 萬吉山宝持寺 曹洞宗
延徳四年(1492年)、千葉自胤(よりたね)はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側の墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。また、天正十九年(1591年)、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進したが、これに習って歴代将軍が下付した朱印状が寺宝として秘蔵されている。天保十二年(1841年)、長崎の人・高島秋帆は幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行ったが、その前夜、当時を本陣とした縁故で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。
東京大仏通りに続く赤塚中央通りを進みます。東武東上線の下赤塚駅の手前の商店街から右手に伸びる細い路地があります。一見して旧街道によくある緩やかなカーブを描いた道です。ひょっとしてと、入り口にある小さな像を見ますと、石柱には鎌倉古道の一部だと書いてありました。鎌倉街道には上道、中道、下道と3つのルートがありますが、この道は中道の一部らしいです。
下赤塚駅の先で川越街道に出ます。赤塚新町三丁目交差点を左折し、広大な光が丘公園へと続く道に入ります。光が丘公園は、北側が正方形、南側が半円形になった独特の形をしています。戦前は特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場があり、戦後は米軍グラントハイツとして利用されました。飛行場に木が植えられている筈はありませんから、現在の鬱蒼とした森林はグラントハイツ返還後に植えられたものなのでしょう。
練馬清掃工場前交差点を左折し、旧ダイエーの前で右折し、光が丘七丁目交差点で左折して南下します。光が丘二中を右折し、谷原三丁目交差点で笹目通りに出ます。この先、目白通りと交差するのが谷原交差点です。交差点を取り囲むように設けられた歩道橋は、階段を上ると方向感覚が失われ、どこから降りていいのか迷ってしまいます。
日も傾きますが、なかなか終点の長光寺橋には辿り着けません。よく似た名前ですが、練馬高根台駅手前に長命寺というお寺があります。私は橋の名前は長命寺に由来していたのだろうと思っていましたが、よくよく見ると長光寺橋となっています。でも、長光寺という名前のお寺は近辺に見当たりません。ネットで調べてみますと、どうやら大昔はあったのですが、今は名前だけ残っているらしいです。何はともあれ、やっと光が丘・赤塚コースを歩き終えました。
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『光が丘・赤塚コース(二回目)』の歩数は22、018歩、所要時間は4時間37分でした。
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