- A目黒と富士の絆を歩く
- コース 踏破記
- 今日は目黒区の「A目黒と富士の絆を歩く」を歩きます。京王井の頭線の駒場東大前駅をスタート地点として、緑深い公園と富士山を遠望する目黒の名所を巡ります。
「A目黒と富士の絆を歩く」の歩行距離は約8.4km(約12,000歩)、歩行時間は2時間6分、消費カロリーは約378kcalです。
スタート地点:京王井の頭線駒場東大前駅東口
↓ (約2.0km:約 30.0分)
- @駒場公園
- 【旧加賀藩主・前田利為侯爵邸宅跡の公園には、昭和初期建造の洋館・和館があります。開園時間あり。】
↓ (約2.2km:約 33.0分)
- A上目黒氷川神社
- 【旧上目黒村の鎮守です。境内には富士山信仰を伝える浅間神社や模式の登山道があります。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- B目黒天空庭園
- 【首都高速大橋JCTの道路上にあり、坂道に花や植栽・竹林の広場などが続いています。開園時間あり。】
↓ (約1.4km:約21.0分)
- C菅刈公園
- 【芝生の広場と桜が人気の公園です。在りし日の大名庭園の姿が一部復元されています。開園時間あり。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
- D西郷山公園
- 【西郷隆盛の弟・従道の邸宅北東部を整備した公園です。空気が澄んだ日には高台から富士山も望めます。】
↓ (約0.4km:約 6.0分)
- E猿楽塚古墳
- 【古墳時代末期(6〜7世紀)の円墳(猿楽塚)です。塚の上には小さな神社があります。】
↓ (約0.2km:約 3.0分)
- F目黒元富士跡
- 【富士塚は1812年に築かれました。歌川広重の錦絵に描かれたほどの名所でした。】
↓ (約0.8km:約12.0分)
- G目黒新富士跡(別所坂児童遊園)
- 【こちらの富士塚は1819年に完成しました。山腹にあった3つの石碑が当時の名残です。】
↓ (約0.8km:約12.0分)
ゴール地点:東急東横線中目黒駅東口1
スタート地点の京王井の頭線の駒場東大前駅東口から歩き始めます。こちらの出入口は一般の乗降客向けで、東京大学教養学部の構内に入るには、駒場東大前駅東大口を使います。ほぼ東大生専用の出入口です。
見所ポイント@の「駒場公園」は、加賀百万石(今の石川県)の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場邸跡に造られました。前田侯爵がこの地に邸宅をかまえたのは昭和の始めの頃です。明治十一年に設立されて以来、近代農業に輝かしい業績を残した駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)が本郷に移転した跡地を第一高等学校(現在の東京大学教養学部)、東京農業教育専門学校(旧東京教育大学農学部)とともに分割使用したものです。建物は昭和初期の和洋両建築の粋を集めたもので、化粧レンガやタイル張りの施された洋館は昭和四年、書院づくりの和館は昭和五年に完成しました。自然の巨木を活かし、名石をあしらった幽すいな奥庭や芝生の広場が設けられました。和館は侯爵がロンドン駐在武官であったことから、外人客接待用に建てたとも言われています。華々しい社交の場となったこの優雅な豪邸は、第二次大戦中に前田侯爵が戦死した後私人の手に渡り、終戦とともに占領軍に接収されました。昭和三十二年10月に接収が解除されるまでの12年間は連合軍司令官の官邸などとして使われました。現在の公園は、昭和四十二年に東京都が公園として開園したもので、昭和五十年4月に目黒区に移管されました。なお、和館は現在1階部分が一般に開放されていて、玄関から二の間、一の間(表座敷)と続く広間や、重厚な床の間・違い棚・付書院・欄間の透し彫などを備えた美しいつくりが昔のままに見ることができます。また、水屋・寄付・待合所を備えた茶室や和室も有料施設として利用されています。縁側からは、芝や流れのある池の配置が見事に調和した庭園が望め、落ち着いた雰囲気を味わえます。洋館も決められた時間帯に開館しています。和館北側には日本近代文学館が設置され、近代文学に関する資料が閲覧できます。
自然と文学のオアシス−駒場公園
大木が繁り、野鳥が遊ぶ園内。静かなたたずまいは、都会のオアシスを思わせる。面積約4ha。もとは加賀百万石。旧前田利為侯爵の邸宅であり、昭和の初めにつくられた洋風・和風二棟の屋敷と庭園は、昭和四十二年から公園として公開された。洋館は旧前田侯爵邸洋館、和館は休憩所として、そのまま利用されている。
石造りの正門は重厚で年季が感じられます。とても個人の私邸には見えませんね。
重要文化財(建造物)
正門及び塀
旧前田家本邸はもと本郷(現在の東京大学内)にありましたが、昭和五年(1930年)、旧加賀藩主前田家16代当主前田利為(としなり【1885年〜1942年】)侯爵が駒場に本邸を移転しました。駒場本邸の敷地は約4万uあり、正門前の花崗岩の敷石と縁石は本郷邸で使用されていたものです。正門は間口6.2m、門柱から左右に塀が延び、門衛所が付属します。
Important Cultural Property (Structure)
Main Gate and Wall
The former residence of the Maeda family was originally located in Hongo, Bunkyo City (the current location of the University of Tokyo-Hongo Campus). In 1930, Marquis Maeda Toshinari (1885-1942), the sixteenth head of the Maeda family of the former Kaga domain, relocated the residence to Komaba, Meguro City. The total area of the site is approximately 40,000 square meter. The granite paving blocks and curbstones in front of the main gate are those used in the former Hongo residence. The main gate has a width of 6.2m, with walls extending to the left and right from both gateposts. The gatehouse is attached to the main gate.
現在の駐在所でも三角屋根が見られますが、尖塔型屋根は守衛所の建物にも多く採用されていたようです。門衛さんは厳めしい制服を着て来訪者をチェックしていたのでしょうか?
重要文化財(建造物)
門衛所
正門に付属する鉄筋コンクリート造平屋の門衛所で、小窓の柱頭飾りやピラミッド型の尖塔型屋根の意匠に特徴があります。外壁のスクラッチタイル貼など洋館と共通する仕上げや意匠が用いられており、洋館と同一設計者の設計によると思われます。前田侯爵が住んでいた時は、ここに門番がいて訪問者のチェックをしていました。往時の前田家の使用人は100人以上いたと伝えられます。内部は改装されていますが、外観は創建時の姿をよく留めています。
Important Cultural Property (Structure)
Gatehouse
The reinforced-concrete one-story gatehouse, attached to the main gate, is characterized by decorative, column-shaped stone frames that line the small windows, as well as a pyramid-shaped spire roof. The gatehouse shares the same design and finishing materials, such as scratch tiles on the wall, with the Yokan, a Western-style building that served as the Maeda family residence, suggesting that the same architect designed both structures. Gatekeepers were stationed at the
gatehouse to check on visitors when Marquis Maeda was living in the Komaba residence. It is reported that over 100 employees worked at the Maeda residence at that time. The interior of the gatehouse has undergone renovations over the years, but the exterior of the structure has remained largely unaltered since its construction.
洋館は居住棟というより、校舎のような感じです。当時は高価だった煉瓦を多用して建てられたようで、破格の費用がかかったことでしょう。
重要文化財(建造物)
洋館
留学や駐在武官としてヨーロッパ滞在の長かった前田利為侯爵は、駒場本邸(洋館)を内外の賓客をもてなすにふさわしい邸宅として、昭和四年(1929年)に竣工しましたが、当主一家の住居でもありました。設計は高橋貞太郎です。鉄筋コンクリート造地上2階・地下1階建で、当時最新の設備を取り入れる一方、外観はイギリス貴族の館であるカントリー・ハウス風の意匠とし、伝統的で重厚なイギリスのチューダー様式でまとめています。外装は石川県小松市産の凝灰岩である大華石(たいかせき)やスクラッチタイルで装飾されています。第二次世界大戦中に前田侯爵が戦死し、戦後は一時期連合国軍GHQが司令官の事務所などとして使用しましたが、内外部とも創建当時の状態を良く留めています。隣にある和館とは、外廊下でつながっています。
Important Cultural Property (Structure)
Yokan
The head of the Maeda Family, based in the Kaga domain (located in present-day Kanazawa, Ishikawa Prefecture), was a powerful daimyo, or feudal lord, in the Edo period (1603-1868). The main residence of the daimyo in Edo (later renamed Tokyo) was located in Hongo, Bunkyo City, and is now the site of the University of Tokyo-Hongo Campus. Marquis Maeda Toshinari, who had lived in Europe for a long period of time as both a student and a military attache, built a new, Western-style residence (the Yokan) in Komaba in 1929 in order to entertain guests from Japan and abroad. Takahashi Teitaro designed the building, which served as both a guesthouse and a residence for the Maeda family. The Yokan is a reinforced-concrete two-story building complete with a basement. The structure makes use of what were the latest facilities and conveniences at the time of its construction, while the exterior displays the traditional and dignified Tudor architectural style of a British aristocrat's country house. The building is also adorned with scratch tiles and Taikaseki, a kind of tuff produced in Komatsu City, Ishikawa Prefecture. Marquis Maeda died in battle during World War II and General Headquarters, the Supreme Commander of the Allied Powers (GHQ) requisitioned the building after the war, using it for some time as a residence for various senior officers. Nevertheless, both the interior and exterior of the building have been well preserved in their original form. An open corridor connects the Yokan to the adjacent Wakan, a Japanese-style building.
この方角から眺めると、昔の貴族の館のようにも見えます。白金の朝香宮邸や旧古河庭園に建つ古河財閥の古河虎之助男爵邸に似ています。ちなみに、古河男爵邸は、鹿鳴館を手がけたイギリス人ジョサイア・コンドルの設計でした。
栄華の跡
英国邸宅風の洋館は、昭和四年に旧前田侯爵が新築。欧州で長く駐在武官を勤めた前田侯はここで外国の賓客をよく接待したが、17年に戦没。
和館は案内板の写真では全景がよく見えますが、現地で見ると木々に囲まれて屋根の一部しか見えません。
重要文化財(建造物)
和館
外国からの賓客に日本文化を伝えるために、昭和五年(1930年)に竣工した木造2階建の近代和風建築で、迎賓のほか、前田家の四季折々の行事にも利用されました。外観は、玄関側の北面は破風屋根が重なる重厚な意匠とし、庭側の南面は京都の銀閣寺を思わせる姿となっています。内部は畳敷きの大廊下や広い続き間のほか茶室も設けられています。設計は、佐々木岩次郎で、茶室は三代目木村清兵衛によるものです。隣接する洋館とは渡廊下でつながっています。戦後は一時期、連合国軍GHQ司令官の住宅などに使用されましたが、内外ともに創建時の状態を良く留めています。
Important Cultural Property (Structure)
Wakan
The Wakan is a modern Japanese-style building that features a wooden two-story design. Marquis Maeda oversaw completion of the structure in 1930 and used it to introduce Japanese culture to international guests, although the Maeda family also used it as a venue for seasonal events. The building has a stately exterior design with overlapping gable roofs on the north-facing side of the entrance, while the south side, which faces the garden, evokes images of Ginkaku-ji (Jisho-ji) Temple in Kyoto. The first floor consists of a large corridor with tatami mat floors, large adjoining rooms, and a tea room. Sasaki Iwajiro designed the Wakan while the third-generation Kimura Seibe designed the tea room. An open corridor connects the Yokan and the Wakan. General Headquarters, the Supreme Commander of the Allied Powers requisitioned and used the building as a residence for some time after World War II, but both the exterior and interior of the building have remained largely unaltered since the time of construction.
こちらが案内板に添えられている和館の写真です。2階部分は天守閣みたいですね。
入口には簡素な棟門(屋根付きの門)があり、板塀が風情を醸し出しています。屋根が重くて不安定に見えますが、門柱と塀が一体化しているので構造上はしっかりしているようです。
重要文化財(建造物)
和館門及び塀
洋館の東側に設けられた和館は、周囲を和風の門や塀で仕切り、南側には和風の庭を配した和の空間を作り出しています。和館門は、唐破風が両側面につく平唐門という形式で、唐破風頂部の鬼瓦には前田家の幼剣梅鉢紋(ようけんうめばちもん)が掲げられています。和館塀は、上部を格子に、下部を割竹張りとする形式で、格子から和館が見え隠れします。また、門から和館玄関までは石畳みの園路を斜めに取るなど、重厚になりすぎない配慮がされています。平成二十四年(2012年)にX線調査を行ったところ、門の柱廊部にアンカーボルトが埋め込まれていることが分かり、関東大震災(大正十二年)後の設計ということもあり、当時から優れた耐震対策が施されていました。
Important Cultural Property (Structure)
Wakan Gate and Wall
The Wakan, a Japanese-style building located to the east of the Yokan, is surrounded by a traditional gate and walls. Together with the Japanese-style garden located to the south, this creates a space that contrasts with the Western style of the Yokan. The gate features a hirakaramon gate structure with bargeboards (karahafu) that serve as gables on both sides. Each roof tile (onigawara) on the top of the bargeboards bears the Yoken Umebachi-mon, the Maeda family crest that features plum blossoms and short daggers. The wall is composed of lattice at the top and split bamboo at the bottom, allowing visitors to catch glimpses of the Wakan through the upper part as they arrive or leave. A cobblestone path leads diagonally from the gate to the entrance of the Wakan, creating a delightfully modest atmosphere. An X-ray survey conducted in 2012 discovered anchor bolts
embedded in the porticos of the gate. This shows that the gate made use of the latest earthquake-resistant countermeasures at the time, developed in the aftermath of the Great Kanto Earthquake (1923).
建物の外観を見てきましたが、私的には珍しく、内部も見学したいと思います。洋館の方が入りやすそうなので、アーチ型の車寄せから入館します。客人はここまで車に乗ったまま来ていたのでしょう。
旧前田家本邸洋館
加賀百万石と称された旧加賀藩主前田家は、明暦産年(1657年)から本郷(現在の東京大学周辺)に広大な上屋敷を営み、明治維新後も同地に本邸を設けました。その前田家が駒場に本邸を移転したのは昭和五年(1930年)、16代当主前田利為侯爵(1885年〜1942年)の時でした。関東大震災をきっかけに駒場農学校(のちの東京帝国大学農学部)と前田家が土地交換を行い、駒場に本邸が建設されました。当時の駒場は草原が広がる英国の田園のような風景で、利為侯も馬で遠乗りを楽しんだといいます。英国大使館附武官としてロンドンに駐在した利為侯は、激動する世界情勢を目の当たりにした経験から、本邸に内外の賓客を迎え、民間外交に心を砕きます。また英国貴族との交流を深めるなかでその生活に触れ、利為侯自身も貴族的で暖かい家庭を築きます。洋館は、1階が賓客をおもてなしする空間、2階が家族のくらしの空間となっています。1階では、玄関から階段に続く広間でお客様をお迎えし、サロンや客室で寛いでいただき、大食堂では晩餐会が催されました。小食堂では家族揃っての夕食があり、2階には家族が日常の生活を送る私室がありました。平成二十五年、旧前田家本邸洋館は尊經閣文庫・和館・庭園とともに、国の重要文化財(建造物)に指定されました。これを機に平成二十八年から2年余りにわたり文化庁の国庫補助事業として保存修理工事等を実施し、利為侯がくらしていた時代の内装復原等を行いました。また、前田侯爵家のもてなしやくらしの様子を紹介する展示室をはじめ、利為侯が大切にした加賀の文化を紹介するコーナーや図書室も設けました。前田侯爵家の往時の生活を追体験して頂ければ幸いです。東京都教育委員会はかけがえのない文化財の保存に努めますとともに、この建物が皆さまに活用され愛され慈しまれることを、願ってやみません。
洋館内はとにかく広く、ベルサイユの宮殿のような豪華さです。部屋の数も幾つあるか見当もつきません。迷子になるかも。第一応接室は広い庭園に面していて、窓が大きく取られていますので、客人は緑の芝生を眺めながらの歓談を楽しんだことでしょう。
第一応接室
侯爵夫人や令嬢のお客様が通されていた応接室です。白いタイルでできた背の高いマントルピースが特徴で、床の寄木細工も華やかさを添えます。当初は、ダマスク柄の壁紙(色は不明)に、同じくダマスク柄の黄色いカーテンがかけられており、明るい雰囲気の部屋であったようです。
Drawing Room
This room was used to recieve guests by the marquise and her daughters. The tall mantelpiece made of white tiles and the parquet floor adds luxuriance to the room.
The damask pattern was repeated on wallpapers and yellow curtains.
その庭園は木々に囲まれ、まるで森林公園の広場みたいです。
サロンは、元々応接間や談話室などの部屋そのものを意味する言葉ですが、今では様々な意味で使われています。
- フランス語で宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界をサロンと呼び、主人が文化人・学者・作家らを招いて知的な会話を楽しんだ集まりを指します。
- フランスにおける展覧会を指し、元々ルーヴル宮殿の大サロンで開催されていた芸術アカデミー主催の美術展サロン・ド・パリ(官展)に由来します。
- 文化人相互の交流の場を称して「〜サロン」と呼び、抽象的な集まりの場を指します
- ネイルサロン・日焼けサロン・ビューティーサロン・ヘアサロン・エステティックサロンなどのサービスを提供する店の名前に使用されます。(何故か美容系が多い)
サロン
玄関ホールに続く、お客様を最初にお通しする待合です。意匠も玄関ホールと共通し、大きな梁を見せる天井と、黒緑色の大理石のダブルの柱が重厚さを演出します。チーク材のパネル壁、黒色大理石のマントルピース上に設えた大鏡など、内装も豪華です。南庭に面して、全面にカットガラスをはめた扉としています。
Salon
Adjacent to the entrance hall, this room was a salon into which the guests were ushered. The design is identical to that of the entrance hall and the stately impression is emphasized by the ceiling with large beams and double pillars of dark green marble. The interior decor, including the teakwood panel wall and the large mirror placed on the mantelpiece of black marble, also exudes opulence.
「Ingle」とは「炉・炉火」の意味で、「Nook」とは「片隅・隠れた場所・心地よい隅」という意味です。広々とした空間も快適ですが、狭い空間も人と人との距離を縮めて静かに話の出来る場所として落ち着きます。スコットランドでは、暖炉を囲む小部屋や団らん用のコーナーを「イングルヌック」と呼ぶそうです。
イングルヌック
暖炉脇の暖かな小さなスペースをイングルヌックといいます。ここでは、大階段下の窪みを利用した小さな談話室のような空間で、マントルピースとステンドグラスの窓を備え、造り付けソファの背上に三連アーチの飾り棚を設けています。
Inglenook
"Inglenook" is a small, warm space around the fireplace. Here, the hollow space underneath the large staircase was utilized as a small lounge furnished with a mantelpiece, stained glass windows and a fixed sofa with three arch-shaped
ornament cabinets above the backrest.
マントルピース(Mantelpiece)とは、暖炉の焚き口の上部や周辺に設けられる装飾を指します。西洋の暖炉は日本の床の間のような精神的意味をもつ室内装飾の中心であるため、各時代に応じた様式でデザインされました。初期の暖炉は煙突が壁面から突き出していたため、炉と煙突の両者が装飾され、頂部に破風(屋根の妻側の端の部分のこと)を設けて重厚にデザインされました。装飾はおもに大理石や石造のレリーフや柱型が用いられました。煙突が壁内部に設置されるようになると、上部は壁の一部としてデザインされ、鏡や絵画などが装飾として用いられるようになりました。さらに、時計やろうそく台などの調度品が装飾として利用されるようになり、それらを置く飾り棚が設けられ、いわゆる壁付き暖炉の形式が完成しました。現在では、この飾り棚を含む焚き口周辺部をマントルピースと呼んでいます。
小客室
大客室と続き間となっていて、必要に応じて引戸で仕切ることが出来ます。大客室とはシャンデリアや壁紙の意匠を揃えますが、マントルピースは小振りで明るい色調の大理石を用います。南の芝庭に面しては、当時高価であった巨大な1枚ガラスの開戸を備えます。
Guest Room
This room was a suite of the guest hall and could be separated by a sliding door as needed. The design of the chandelier and wallpapers were identical to that used in the guest hall, while smaller and brighter marble was chosen for the mantelpiece.
A hinged door opening to the south garden was fitted with a single panel of glass, which was expensive in those days.
大客室は小客室と似た造りですが、ピアノ以外、テーブルやソファーなどの家具は置かれていません。見学者がゆったりとソファーに座り込んでも困りますからね。
大客室
お客様にくつろいで過ごしていただくための部屋で、部屋のそこここに座り心地の良いソファーやティーテーブルが配され、室内には絵画や美術品、珍しい観葉植物などが飾られていました。黒い大理石のマントルピースの上には記念の品が置かれ、ピアノも備えられていました。小客室と同様の設えですが、天井の縁廻しがより豪華です。
Guest Hall
This is a lounge for the visitors to relax in, with comfortable sofas and tea tables placed around the room and a display of Western paintings, curios and rare foliage plants. It is the similar arrangement in the guest room, but with more magnificent ceiling panels.
大食堂にも食卓や椅子などの家具が置かれていないので、一見すると大広間のように見えます。26人分のフルコースを用意したり給仕するだけでも大変な事だったでしょう。流通や冷蔵技術が未発達だった当時に、食材を揃えるのはもっと大変だったと思います。
大食堂
晩餐会のための部屋で、最大で26人のディナーが可能であったといいます。巨大な白大理石のマントルピースが部屋の中核で、その周囲を古典的な文様の金唐紙で飾ります。マントルピースの向かいは円弧状の張り出し窓があり、天井に及ぶチーク材のパネル壁が落ち着いた雰囲気を醸します。
Dining Hall
This was a room for banquets, which is said to have been capable of accommodating 26 guests at the maximum. A mantelpiece made of gigantic white marble is located in the center of the room, around which leather-like golden wallpaper with classical patterns is placed for decoration. On the opposite side of the mantlepiece, an
arch-shaped bow-window is installed, and the panel wall made of teakwood almost reaching the ceiling creates a calm atmosphere.
厨房が見当たらないと思っていたら、地下にあったのですか。料理を運ぶために小型エレベーターを設置するとは、まるでホテルのようです。ま、階段を使って人の手で運んでいたら、つまずいて転げ落ちた時に悲惨なことになりますからね。
小食堂
家族のための小食堂です。東庭にテラスを張り出し、全面にカットガラスをはめた扉にしています。壁一面に食器棚が設えられ、部屋の隅には地下の厨房から料理を運ぶための小型エレベーターがありました。
Dining Room
This was a dining room for the family. It has a terrace
projects towards the garden in the east and doors with
cut-glass panels. The cupbords are fitted into both walls,
and there used to be a small elevator for serving food or
drinks in one corner.
食器棚の食器類は隣の大食堂で晩餐会が開催される際の保管場所だったのでしょう。いくら何でも、家族だけでこんなに大量の食器類は必要ないですからね。ワイングラスは何処にあるのかな?ワインセラーも地下?
婦人室にはテーブルはありませんが、豪華なソファーが置かれています。壁の文様も絨毯の柄も素敵ですね。ダマスクとは紋織物の一種で、平織・綾織・繻子(しゅす)織などの地に模様を織り出したものです。本来は絹織物でしたが、中国の錦の技法が伝わり、12世紀頃にはシリアのダマスカスが主産地になり、ヨーロッパに広まってダマスクの名が生まれました。その後、絹に限らずダマスクス風の紋織物一般をさすようになり、近年は絹・亜麻・麻の交織や化繊などでも作られています。ダマスクは、服地・表装地・テーブルクロス・ナプキン・カーテンなどに施され、同様の技法による織物は中国や日本で緞子(どんす)と呼ばれていますが、この名称もダマスクに由来しています。
婦人室
菊子夫人の居間で、家族団欒の場でもありました。鏡付きの優美なマントルピースには小菊模様のグリルをはめ、三連アーチの窓や格子天井もやさしい雰囲気です。カーテンや絨毯は
紫色で、壁紙も華やかなダマスクの大柄を用い、邸内でもっとも華麗な部屋であったといいます。
Marquise's Room
This room was Marquise Kikuko's living room and was also a place for the family to enjoy each other's company. The elegant mantelpiece with a mirror had a grill with the design of a small chrysanthemum. The three arch-shaped windows and the ceiling
with recessed panels create a calm atmosphere. With the purple curtains and carpet, as well as the rosy wallpaper with large damask patterns, this was the most elegant room in the residence.
一般家庭の寝室というと、部屋の8割位のスペースをベッドが占拠していますが、さすがに侯爵夫妻の寝室は広いです。ベッドがミニチュアのように小さく見えます。ロンドンの高級家具店で誂えたものだそうですが、日本人の身長に合わせて小さめに作ったのでしょうか?
寝室
侯爵夫妻の寝室で、壁紙は金銀の色彩です。枕元の壁龕には前田家当主の守り刀が置かれており、その両脇の小窓は透かし彫りを施した豪華なものです。ベッドやキャビネット等の家具の多くは、ロンドンの高級家具店であるハンプトン社で誂え、船便で送られました。
Bed Room
This was the bedroom for the Marquis and the Marquise. A sword for protection was placed in a niche at their bedside. Most furniture items were made to order from Hampton Corporation, a high-quality furniture store in London, and was shipped to Japan.
敗戦から立ち直り経済成長へ向かうなかで、文学資料が散逸しつつあることを危惧した高見順・伊藤整・川端康成といった作家、小田切進・稲垣達郎といった研究者らの呼びかけにより、昭和三十八年(1963年)4月に財団法人日本近代文学館が発足しました。その動きは大きな反響を呼び、15000人にものぼる人から資料の寄贈や建設資金の寄付などが寄せられ、昭和四十年(1965年)に旧前田利為侯爵邸敷地内で着工し、昭和四十二年(1967年)4月13日に現在の文学館が開館しました。
文学の殿堂 財団法人日本近代文学館
失われゆく近代文学資料を収集・保存するために、文壇・学界・マスコミ界有志が発起、関係者の献身と各界からの絶大な援助により昭和四十二年に開館。
旧前田利為侯爵邸奥から樹木の間に細い道が延び、その先は駒場野公園につながっています。植栽の中に「歴史と文化の散歩道」の案内板が置かれています。20年ほど前にも通りましたね。
駒場の今昔
駒場一帯は台地で、かつては駒場野と呼ばれ、笹が一面に生い茂り、所々に松林などがある原野が広がっていました。そのため古代から中世にかけて東国武士たちの軍馬の放牧地として利用されてきました。江戸時代になると、鳥や獣が数多く生息する駒場野一帯は、鷹狩り場となりました。将軍の鷹狩りのたびに、田畑は人馬で荒らされ、そのうえ地元の農民たちは場所ごしらえや道普請、鷹の餌の昆虫集めなどに駆り出されました。江戸末期には幕府の軍事訓練所が計画され、明治にはいると初めての陸軍観兵式がここ駒場野の原野で行われました。維新後日が浅かった当時、軍事教練のスタイルもイギリス式、フランス式、ドイツ式とばらばらであったものでした。
Komaba
Komaba used to be a vast field called Komabano and was used as a grazing land since ancient times to Medieval Period. In the Edo Era, the area was used for the hawking ground. In the Meiji Period, the first military riview was held here.
駒場野公園の表門は京王井の頭線の踏切際にあります。年季の入った門柱には駒場野公園の名前の入ったプレートが貼られていますが、元は「東京教育大学農学部」とかの名前が書かれていたのでしょう。
駒場野公園案内図
この公園は、東京教育大学(農学部)の跡地を利用して作られました。面積は2.8haあります。園内にはスポーツ施設、プールの水を利用した流れ、原っぱ、ケルネル水田、果樹園、雑木林、池などがあります。野鳥や虫を楽しめる公園にしていくために、雑木林の一部と池がサンクチュアリーになっています。
入口の先には広い窪地があって、水田のように見えます。それまで堆肥以外に肥料を使わなかった水田耕作ですが、日本で初めて化学肥料を使い、生産力を高めたのですね。殺虫剤は使わなかったのかな?
駒場で花開いた近代農学
ここ駒場は、日本近代農学発祥の地である。明治十一年、農学校が誕生。ドイツ農法に範を求めた駒場農学校は、優秀な農業技術者を次次と世に送り出した。この学校の日本人教師で、後に「明治三老農の一人」といわれたのが船津伝次平。彼は自ら実習田作りに汗を流すなど、体当りで農業の近代化に努めた。ドイツ人教師ケルネルも異色の存在。わが国で初めて化学肥料の使用を試みた彼は、実験水田で研究に取り組んだ。この水田は、「ケルネル田圃」として今も残る。駒場農学校はその後、大学農学部などに発展的解消。記念の駒場農学校碑が東大教育学部の構内にある。
水田はケルネル田圃というのだそうです。米の栽培がない(?)ドイツから来た農業技術者が日本の伝統的な水田を近代化したというのは面白いですね。
ケルネル田圃
ケルネル田圃は、旧駒場農学校の実習田です。駒場農学校は、明治政府が近代農学に基礎をおく欧米農法をとりいれるために、農業指導者を養成する学校として明治十一年に設置されました。札幌農学校がアメリカ系統の農業技術を導入したのに対して、駒場農学校にはドイツ系統の農学がとりいれられました。ドイツ人のオスカー・ケルネルは、駒場農学校の教師として招かれ、日本農業の特質を配慮しながら農芸化学を応用した実験を中心に土壌、肥料などの研究と教育をおこない、多くの成果を収めました。ドイツ人教師ケルネルの名をつけたケルネル田圃は、新しい日本農業の指導者を育てた駒場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。なお、駒場農学校は、後に東京農林学校となり、東京帝国大学農科大学等を経て筑波大学に継承されました。現在、ケルネル田圃では筑波大学附属駒場中学校・高等学校により教育水田として生徒が実習しています。
水田を見下ろす高台に石碑が建っています。
水田の碑 駒場農学校の跡地
近代農学研究農業教育発祥の地
この水田は 明治十一年 ここ駒場野に開校した農学校の農場の一部でわが国最初の試験田 実習田として 近代日本の発展を支える淵源の一をなした
農学校は いくたびか 学制の変更により 名称を変えて その歴史を継ぐ学校が この地で発展を重ねた
その間この水田は 近代農学研究発祥の地にふさわしい沿革をたどり 国際的協力のもとに初めて 本邦近代農業の研究と教育とが進められ 幾多人材の輩出を見た
本校は 東京農業教育専門学校附属中学校として 昭和二十二年 開校以来右の歴史の流れを継いで この水田を教育の場に活用する栄光に恵まれ 耕作を続けて 本年創立四十周年を迎えた
そもそも 農は 人類生存の基をなす営みである 本校は この水田のもつ歴史的意味に想いを致し 幾多先輩の偉業を想起しつつ これを永く後世に伝えたいと考え ゆかりある方々の翕然(きゅうぜん:多くのものが一つに合うさま)たる協力を得て ここにこの碑を建立する
なお 建立に際し 地元目黒区の理解と協力のあったことを録して 感謝の意を表する
駒場野公園を出て淡島通りに出ます。進学校として名高い中高一貫校の筑波大学附属駒場中学校・高等学校はすぐ近くにあります。昭和二十二年(1947年)に旧制東京農業教育専門学校の附属新制中学校として設立され、その後、昭和二十七年(1952年)に東京教育大学附属駒場中学校・高等学校(通称は「教駒(きょうこま)」)と改称しました。国立の中学校・高等学校では唯一の男子校です。東京教育大学が筑波大学に改組されたため、現在の通称は「筑駒(つくこま)」と呼ばれています。卒業生は多士多彩で、政界・官界・法曹界・財界・学術界に有名人を多数輩出していますが、文化・芸能界はその他の有名校と比べると少ないようです。淡島通りは、元々道玄坂上と下北沢(森巌寺・淡島神社附近)を結んでいた道路と、現在の淡島交差点付近で分岐して調布市方面に向かっていた滝坂道が原型となっています。主に20世紀前半にルート変更が重ねられ、現在の形態となりました。淡島通りの「淡島」とは、森巌寺境内の淡島神社に由来しますが、現在の淡島通りは淡島神社付近は通っていません。
目黒川緑道に下る坂道の途中に、警視庁の第3機動隊(通称「3機」)の本部があります。3機のシンボルマークは外車のベンツに似たデザインで、「ほこりの三機」と呼ばれています。円は太陽と和、三つの柱は光と隊訓の「誠実・融和・奉仕」と両手を高々と上げて力強く躍進する人を表わし、「気はやさしく力持ち」という先代のシンボルマークである桃太郎の精神を継承しつつ昭和五十四年に制定され、平成六年に現在のマークになりました。
道路脇に案内板が立っています。目黒は落語の「目黒のさんま」の題材にもなったくらいですから、江戸時代は広大な原野だったのでしょう。「目黒のさんま」は三代目三遊亭金馬の得意とした小噺でした。低級な下魚として扱われていたさんまを庶民的な流儀で無造作に調理すると美味になりますが、丁寧に調理すると不味いという滑稽噺です。
ある殿様が目黒まで遠乗り(あるいは鷹狩)に出ました。供の者が弁当を忘れたために腹を空かせていた殿様一行のもとにうまそうな匂いが漂ってきます。殿様が匂いの元を尋ねると、家来が「これはさんまというものを焼く匂いでござるが、さんまは庶民の食べる下魚なので殿のお口に合うものではありません」と答えます。しかし空腹に耐えかねた殿様はさんまを持ってくるよう命じ、家来は農家の者が食べようとしていたさんまをもらってきます。直接炭火で焼いた「隠亡焼き」のさんまは黒く焦げて脂がしたたっていますが、初めてさんまを食べた殿様はそのうまさに大喜びします。さんまのうまさが忘れられず、殿様はある日さんまを出すよう家来に申しつけました。庶民の魚であるさんまは屋敷にはないので家来は慌てて出て行き、日本橋の魚河岸でさんまを買い求めます。しかし調理の段になると、焼くと脂が多く出て体に悪いということで蒸して脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜き、身姿が崩れた姿を椀にして出しました。殿様が食べてみると目黒で食べたものとは比較にならぬ不味さでした。どこで求めたさんまかと尋ねると、家来は「日本橋魚河岸で求めてまいりました」と答えました。殿様はしたり顔で、「ううむ、それはいかん。さんまは目黒に限る」と言ったそうです。海から遠い目黒で捕った魚が美味いと信じて断言する、という下りが落ちになっています。世俗に無知な殿さまを風刺する話でもあります。現在は殆ど演じられていませんが、噺の後半に、最初に目黒で食べてきた殿様ではなく、その美味しさを吹聴された他の殿様達のうちのひとりが「されば余も」と所望しますが、やはり台なしな椀物を供されて最初の殿様に苦情を申し立てて落ちの問答に至る流れもあります。
鷹狩りの将軍が休息した御用屋敷
江戸中期、八代将軍・吉宗の頃には、この一帯に広大な御用屋敷があった。鷹狩場管理を主目的としたこの屋敷には、鷹狩りの将軍が度々立ち寄り、食事や休憩をとった。また鳥見役という管理人が常駐、周辺の村々の不穏な動きに目を光らせていたという。明治以降、昭和二十年までは陸軍の施設が多数あったが、戦後は住宅、文教地区に一変。
東邦大学医療センター大橋病院は目黒川緑道の北側の高台に所在し、大田区に大学本部がある学校法人東邦大学が運営しています。昭和三十九年(1964年)に開院され、地域医療支援病院に指定されています。病棟が建て替えられ、新病棟が平成三十年(2018年)6月20日に319床(現在は320床)で開院しました。東邦大学には多くの附属病院がありますので、ここは「東邦大大橋」という略称で呼ばれています。
見所ポイントAの「上目黒氷川神社」は、天正年間(1573年〜1592年)に此の地の旧家加藤氏が甲斐国・上野原の産土神をこの地に迎えて創立したといわれています。その後、明治十一年(1878年)には上目黒にあった浅間神社を遷座し、明治四十五年(1912年)には北野神社を合祀したと言われています。
氷川神社
祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)を主神とし、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573年〜1592年)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。正面の石段は文化十三年(1816年)に造られましたが、明治三十八年(1905年)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保十三年(1842年)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。境内には、目切坂上(現、上目黒1−8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
玉川通りから上目黒氷川神社の本殿に上る石段下に大山道道標が置かれています。現在の玉川通り(国道246号線)はかっての大山道の道筋に当たっています。
石段の脇に、目黒富士登山道と記された階段があります。目黒富士に登るための登山道です。
江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まりました。人々は富士講なる集まりを作り、実際に富士山に登頂したほか、身近な所に富士山を模した「富士塚」を築いて祠を作りました。目黒区内には現在の上目黒一丁目付近に文化九年(1812年)に築かれた目黒富士があり、高さは12メートルありました。文政二年(1819年)には現在の中目黒二丁目付近にも新しく富士塚が築かれたことから、上目黒の富士塚を「元富士」と呼び、中目黒に造られた富士塚を「新富士」と呼びました。いずれの富士塚も歌川広重の「名所江戸百景」に描かれた名所でした。元富士は、明治十一年(1878年)に敷地が岩倉具視の別邸となった際に石祠や石碑類が上目黒氷川神社境内に移され、浅間神社も神社内に遷座しました。塚の場所はその後根津嘉一郎邸となり、昭和十四年(1939年)の邸の改築の際に破壊され、新富士も昭和三十四年(1959年)に取り壊され、現在はどちらも残されていません。その後、昭和五十二年(1977年)に富士山に見立てた登山道が造られ、神社内の一角が新たな「目黒富士」とされ、毎年7月には山開きの例祭が行われています。
目黒富士
江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化九年(1812年)に目切坂上(上目黒1−8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上(中目黒2−1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、 明治十一年(1878年)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。昭和五十二年(1977年)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。
オーパスブリッジは玉川通りを跨いで大橋ジャンクションの屋上公園と繋がっている人道橋で、平成二十四年(2012年)2月に開通しました。
オーパスブリッジの名前の由来
大橋ジャンクションの形状である「O」及び屋上公園を小道(Path)に見立てて命名された再開発エリア名「オーパス目黒大橋」にちなみネーミングされたものです。
見所ポイントBの「目黒天空庭園」は、大橋ジャンクションの屋上を緑地化した庭園で、平成二十五年(2013年)3月30日に目黒区の区立公園としてオープンしました。ドーナツのような楕円形が特長で、高さは地上11メートルから35メートル、延長距離は約400メートルで、平均勾配が約6%のループ状になっています。最も低い部分はオーパスブリッジ経由で玉川通りに連絡しています。庭園には芝生を基礎として約30種類の樹木や花が植えられています。南側に設置されているエレベーターの3階が庭園となっていて、バリアフリー対策が施されているために車椅子やベビーカーでの入場も可能となっています。
庭園には植栽だけでなく、野菜畑やブドウ棚のあります。ここで栽培されているブドウは赤ワイン品種であるマスカット・ベーリーAで、収穫されたブドウを使用して山梨県勝沼町のワイナリー実際にワインを作っています。収穫量が少ないために本数は少ないですが、瓶詰めされて収穫祭で供されます。私も頂いたことがあります(ここをご覧下さい)。【注意:戻る場合は「戻る」ボタンは押さず、「←」で復帰して下さい。】
玉川通りの頭上を通る首都高3号渋谷線と首都高中央環状品川線を接続する大橋ジャンクションは、ローマ帝国のコロッセオのイメージが一部に取り入れられた巨大な円柱形をしています。どれだけのコンクリートが使われたのか想像もできません。
大橋ジャンクションの脇を目黒川が流れています。桜の名所としてお花見シーズンは激混みになりますが、今は夏の終わりで閑散としています。目黒川が清流に復活したのも行政の努力の賜です。
清流の復活 −目黒川−
目黒川は世田谷区池尻を上流端として、品川区東品川で東京湾にそそいでいます。目黒川上流は昭和の初めごろまではかんがいの水源として、下流は河口から現在の船入場までは運河として利用されていましたが、都市化の進展や陸上交通の発展とともにその利用状況が大きく変化し、水質の悪化や水量の減少がみられました。そこで、平成七年(1995年)3月より東京都では清流復活事業を実施し、目黒川で清流の復活を行いました。この目黒川に流れている清流は、新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を利用しています。東京都では、都民が水辺に親しむことができるとともに、水辺に多様な生物が生息できるよう、水質の向上や水量の回復により、心のやすらぐ水辺環境づくりをめざしています。
かっての目黒川は水量も多く、水車を動かすには十分な流れもあったのでしょう。目黒の工業は目黒川などの川のほとりに建てられた水車小屋から始まりました。水車が置かれた時期は明確ではありませんが、水のエネルギーを使って機械を回転させる水車は古来世界の多くの地域で使われてきました。日本で使われ始めたのは平安時代からと言われていますが、本格的な普及が進んだのは江戸時代に入ってからです。白米を食べる習慣が広がり、精米のために水車が使われるようになったためです。また、農業生産力が向上して商品作物が作られるようになると、水車で粉を碾くなど、その用途が広がりました。目黒川は市街地に近いため、加工品をすぐに出荷できるという利点がありました。この頃の水車は直径4尺(約120cm)で、きねは大きいもので数十本も備えていたそうです。こうして目黒区は明治期に水車を使った工業化が進展し、精米や製粉からたばこ製造やガラス磨きまで水車が使われるようになりました。しかし、目黒区域の水車は電力による精米機が現れたことや、目黒川の改修工事によって姿を消していきました。
水車跡
この地域は、近くを大山道(現在の玉川通り)が通り、物資の輸送に便利であり、また、三田用水、目黒川の水力にも恵まれていたので、江戸時代から明治にかけて水車が多くつくられました。中でもこの近くにあった大橋の加藤水車は有名でした。これらの水車は、精米・製粉・雑穀加工から、薬種の精製やガラス磨き、煙草のきざみなど、水車動力を利用した小工場へと変わっていきました。しかし、これらの水車も、現在はどこにも残っていません。
目黒川に朱色に塗られた人道橋が架かっています。近くに神社でもあるのかなと思いましたが、この辺りは住宅や商店しか見当たりません。ネットで調べてみたところ、戦前にこのあたりを占有していた地主が架けた私的な橋らしいとのことです。きっと風流な大人だったのでしょう。
目黒川の河岸に記念碑と、桜を植樹した経緯を説明した石碑が建っています。
記念碑の説明
この記念碑は、昭和の初めに行われた目黒川の初期の改修にあわせて、地元の有志の方々により植樹された桜を記念して建てられたものです。建てられた当時は、ここより上流の目黒橋の近くにありましたが、昭和五十六年から昭和六十一年にかけて行われた護岸改修に伴い、この場所に移しました。また、柳橋から目黒橋の間に植えられた桜は、昔の護岸のときに植えてあったものを、再び植え直したものです。
見所ポイントCの「菅刈公園」は目黒川から道ひとつ奥に広がる公園です。江戸時代には豊後国竹田城主中川氏の屋敷があったところで、回遊式庭園は名所でした。明治時代になると西郷従道(西郷隆盛の弟)が別邸として洋館・和館を建てました。公園の一画には庭園を復元した場所があります。
見所ポイントDの「西郷山公園」は菅刈公園から坂道を上り、旧山手通りと合流する手前に入口があります。目K川に向って下っていく斜面に設けられた公園で、見晴らしの良い広場からはお天気が良ければ富士山が拝めます。西郷山公園は菅刈公園に隣接していて、ここも旧西郷邸の一部でした。園内には西郷に因んで鹿児島県の各市町村から寄贈された樹木があり、桜島の溶岩で造られた記念碑も建てられています。
西郷山公園は目黒区の「みどりの散歩道」のコースに組み込まれています。公園の入口に由来を記した案内板が立っています。公園のすぐ先の旧山手通りに架かる橋の名前も西郷橋になっています。橋の下を道路が通っていますが、この橋は下の道路を渡るための橋でも、旧山手通りの陸橋でもなく、ここに三田用水を渡すために架けられた水道橋だったとのことです。
美しい庭園で知られた西郷山
このコースは全長3.1km。目黒川に沿って自然観察を楽しみながら歴史の跡を訪ねる。明治初期、西郷隆盛の弟従道がこの辺りの広い土地を購入。以来西郷山と呼ばれてきた。従道はここに兄隆盛を迎えようとしたが、西南戦争に敗れた隆盛は鹿児島で自刃。そのため従道の別邸に。洋館、和館と美しい庭園で知られたが、明治天皇も行幸した往時の栄華は今はない。洋館は犬山市の明治村に移築。昭和五十六年、一部が公園に生れ変わった。園内には西郷家の郷里鹿児島から贈られた木々や、桜島の溶岩を使った公園の由来碑も立っている。
旧山手通りにはお洒落な結婚式場とか高級レストランとか有名ブランドのお店とかが軒を連ねていますが、その中にエジプト大使館も旧山手通りに面しています。大使館にはそれぞれのお国のアイデンティティが置かれていますが、エジプト大使館の正門前には古代エジプトの彫像が守衛の役目を果たしています。これがミイラだったら訪れる人はいないでしょう。
旧山手通りの一角にヒルサイドテラスの案内板が立っています。ヒルサイド(hillside)とは、「山腹」とか「丘陵の斜面」の意味ですが、確かにこの辺りは旧山手通りの高台から目K川に向って崖のように斜面が続いていますね。別の案内碑にその歴史が説明されています。
ヒルサイドテラス
ヒルサイドテラスは、渋谷区猿楽町・鉢山町の旧山手通り沿いに造られた集合住宅・店舗・オフィスなどから成る複合施設です。建築家の槇文彦(アネックスは元倉眞琴)により設計され、彼の代表作のひとつとなっています。第一期が竣工した1969年から1998年までの30年の歳月をかけて建てられました。D・E棟に隣接する駐日デンマーク大使館(1979年)も槇の設計です。ヒルサイドテラスのオーナーである朝倉家の祖先は元は甲州武田家に仕えた武士であったとされていますが、後に帰農して渋谷に居住しました。江戸末期には三田用水を利用した水車も所有し、朝倉徳次郎は明治になるとこの水車を利用した米の賃搗きの収益で渋谷付近の土地を買い集めて大地主となり、精米業を営みました。徳次郎の養子となった朝倉虎治郎は渋谷区会議長や東京府会議長を務めた政治家でもありました。しかし第二次大戦後、朝倉家は所有していた土地の大部分を失い、本宅も相続税支払いの為に売却を余儀なくされました(重要文化財・旧朝倉家住宅)。手元に残った旧山手通り沿いの土地を生かした不動産経営を検討していた朝倉家は、先代の当主である朝倉誠一郎および当代当主の朝倉徳道が慶應義塾大出身だったことから、教授の紹介で同じ慶應育ちの槇文彦と1967年に知り合い、「代官山集合住宅計画」を立案させました。当時、この地域は第一種住居専用地区に指定されていて店舗の開設は認められていませんでしたが、槇はヒルサイドテラスA・B棟を建設する際に行政と交渉して用途規制緩和を実現し、現在のような住居と店舗が混在する建築を実現させました。
見所ポイントEの「猿楽塚古墳」はヒルサイドテラス内の奥にあります。
猿楽塚(さるがくづか)
ここにあるこんもりした築山は、六〜七世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。ここにはその円墳が二基あって、その二つのうち高さ五メートルほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。ここにある二基の古墳の間を初期の鎌倉道
が通っていて目黒川にくだっていました。渋谷区のように開発が早くからはげしく行なわれた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。
猿楽塚の上には猿楽神社が鎮座していて、案内板に建立の経緯がしるされています。
猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ二基の円墳があり。北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は、江戸時代の文献「江戸砂子」・「江戸名所図会」等にも見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。六〜七世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚古墳がほとんど煙滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、昭和五十一年三月十六日に、渋谷区指定文化財第五号に指定された。この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、二月十八日、十一月十八日を祭礼日と定めて、建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
デンマーク大使館の隣りに旧朝倉家住宅が残っています。現在は一般公開され、往時の栄華が偲ばれます。入口の横に旧朝倉家住宅の案内板が立っています。高台なので夕陽に沈む富士山の山容も拝めたことでしょう。
旧朝倉家住宅
旧朝倉家住宅は、猿楽町の南西斜面を利用して東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎によって、大正八年(1919年)に建てられました。宅地北側に主屋が建ち、西に土蔵、東に庭門や附属屋(車庫)があります。このうち、主屋・土蔵及び宅地が重要文化財です。なお、庭門及び附属屋が附(つけたり)として指定されています。主屋は、一部2階建ての主体部を中心に、接客のための応接間、内向きの座敷や茶室など、機能に応じた異なる意匠でまとめられ、土蔵は主屋に附随しています。また一体となる庭園は、崖線という地形を取り入れた回遊式庭園となっています。
Kyu Asakura House (Important Cultural Property)
Kyu Asakura House, which utilizes the southwest slopes of Sarugaku-cho, was built in 1919 by Torajiro Asakura, chairperson of the Tokyo Council. On the site's north side is the main building (shuoku), while on the west is a storehouse (dozo), and on the east a garden gate and garage (annex). Of these buildings, the main building, the storehouse and the building site are designated "important cultural properties". The garden gate and annex are also designated as "additions." The main building, which is built around a partially two-storied central wing, features a function-based pattern of rooms, including a drawing room (osetsuma) for receiving visitors and an inward-facing zashiki room and a teahouse. The storehouse is attached to the main building. The garden, which is integrated with the buildings, is a circuit-style garden designed around the cliff-like contours of the land.
旧朝倉家住宅の向かいに小さな地蔵尊が祀られています。
地蔵・道しるべ
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。この地蔵尊は、文政元年(1818年)の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
目黒川に下りる坂の入口に、見所ポイントFの「目黒元富士跡」の案内板が立っています。
目黒元富士跡
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化九年(1812年)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政二年(1819年)に、別所坂上(中目黒2−1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の「名所江戸百景」に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました。
その隣には「富士信仰と元富士」の案内板も立っています。富士塚は都内各地でみられますが、本物の富士山と一緒に拝めるのはここと新富士だけだったかもしれません。
富士信仰と元富士
富士信仰が広まった江戸後期、手軽に富士登山ができるよう各地に“ミニ富士”が造られた。高さ12mの元富士もそのひとつ。山頂からは本物の富士山も望め大勢の人で賑わった。
駒沢通りを横断し、恵比寿南三丁目交差点から高台の住宅地に入って行きますと、別所坂の上に出ます。雪の日には交通止めになりそうな急峻な坂ですが、坂の途中に名前の由来を記した案内板が立っています。
別所坂
この辺りの地名であった「別所」が由来といわれる。別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かって坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。
坂上には新富士の案内板も立っています。
目黒の”新富士”と新富士遺跡
この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。平成三年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。
別所坂が直角に折れ曲がる角に庚申塔が祭られた小祠があり、その横に案内板のプレートが壁に貼り付けられています。
庚申塔
「庚申塔」は、庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。仲間たちは60日に一度くる庚申の日に、眠ってしまうと、「三戸(さんし)」という虫が体から抜け出し、天の神に目頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められるので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。江戸時代には、豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦や農作業の情報交換の場ともなり盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。形や図柄は様々だが多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。別所坂上庚申塔の昭和五十一年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天〜明和元年(1665年〜1764年)である。
別所坂を下らず、坂上に建つマンションの横手に作られた私道を抜けて行きますと、見所ポイントGの「目黒新富士跡(別所坂児童遊園)」の入口に繋がっています。急峻な崖線を無理矢理削って造成されたような2段式の遊園には、段差を利用して斜面にボルダリングのような遊具も設けられています。
遊園の奥まった植栽の中に3基の石碑と案内板が置かれています。
新富士
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、 新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政二年(1819年)、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(「遊歴雑記」)と書かれるほどであった。新富士は昭和三十四年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月建之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
新富士と呼ばれた富士塚は右手のマンション辺りにあったのでしょうか?
別所坂児童遊園から別所坂に下る細い急な階段を下り、目黒川遊歩道を中目黒方向に進みます。駒沢通りと山手通りが交差する中目黒立体交差点の手前に目黒川舟入場があります。目黒川船入場は治水を目的とした地下箱式調節池となっていて、その上は広場や公園として整備されています。キッチンカーが訪れたり、フリーマーケットなどのイベントも開催されています。多くの支流が集まる目黒川周辺はたびたび洪水に見舞われてきました。このため、大正時代に治水目的とともに船が運航できる運河にする計画が立てられ、昭和十二年(1937年)に目黒川舟入場と共に完成しました。しかし、運河は水上運送の衰退とともにその役割を終え、今では水鳥や亀が憩う、癒しの風景が広がっています。運河として整えられた際に、蛇行していた目黒川は現在のように真っすぐに改修されました。しかしその後も大雨が降ると度々洪水を起こすことがありました。そこで東京都は目黒川船入場の地下に洪水調整池を設置し、大雨が降っても高水位を超えると自動的に調節池へ水が流れ込む仕組みを構築しました。この調節池は平成二年(1990年)に完成し、翌年から供用が開始され、その後、平成二十八年(2016年)までの間に9回の流入実績があるそうです。目黒川船入場の付近には川の中に規則正しく並ぶ石が見えます。この石は水の流れを整える仕組みがあるそうです。
中目黒のランドマークであるアトラスタワーの足元には飲食店が並んでいます。目黒川緑道を散策する飲兵衛を当て込んだお店もあり、私の定番である晩杯屋は、平日13時・土日祝日はナント11時オープンとなっています。お花見のシーズンは昼桜・夜桜見物の人達で超激混みになります。
中目黒駅に着きました。一昔前はダサいイメージの駅でしたが、現在は東横線の駅らしく小綺麗になっています。山手通りを挟んだ反対側には高架下モールに蔦屋も入っています。
ということで、長〜〜〜い「A目黒と富士の絆を歩く」を歩き終えました。何度も通ったところもありましたが、案内板などあまり注意していなかったので、新しく知り得たことも多かったです。前田利為侯爵邸は初めて訪れたのですが、ちょっと長居し過ぎてしまいましたね。
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