朱雀H埋立地の緑をめぐる  

コース 踏破記  

今日は江東区の「朱雀H埋立地の緑をめぐる」を歩きます。潮見駅から東雲東運河を漣橋で渡り、広大な辰巳の森海浜公園を半周して辰巳の森緑道公園を進みます。最後は夢の島公園で保存・展示されている第五福竜丸を見学します。最初に歩いたのは2022年の2月でしたが、記憶が薄れてきましたので2025年4月に改めて歩きました。

朱雀H埋立地の緑をめぐる

埋立地に作られた公園を中心に、木々の緑と水辺を散策します。

「朱雀H埋立地の緑をめぐる」の歩行距離は約5.6km(約8、000歩)、歩行時間は約1時間24分、消費カロリーは約252Kcalです。

スタート地点:JR京葉線潮見駅西口
ポイント1 えこっくる江東
ごみ処理問題や地球の環境問題などについて体験学習できます。
ポイント2 辰巳の森海浜公園
マレットゴルフなど8種類のニュースポーツにチャレンジ!
ポイント3 東京辰巳国際水泳場
東京2020オリンピックでは水泳(水球)が開催されます。
ポイント4 夢の島熱帯植物館
新江東清掃工場の余熱で暖める大温室は、熱帯雨林の雰囲気。
ポイント5 夢の島公園
東京2020オリンピック・パラリンピック、アーチェリー会場もあります。

ゴール地点:東京メトロ有楽町線・JR京葉線・りんかい線新木場駅


スタート地点のJR京葉線潮見駅西口から歩き始めます。



潮見一丁目交差点の脇に、東京消防庁の潮見消防訓練場があります。渋谷区西原にある消防学校の訓練施設と比べると規模は小さいですが、訓練用の建物はかなり本格的な造りになっています。訓練場の裏手が運河に面していますので、水上訓練もやっているかも。



ポイント1 えこっくる江東

潮見消防訓練場に隣接して、えこっくる江東があります。環境学習情報館えこっくる江東は、環境に関する学習や活動及び情報発信の拠点として、平成十九年(2007年)2月に江東区が設置した公設公営の施設です。子どもから大人まで誰でも楽しく、体感しながらごみ処理問題や地球全体の環境問題などが学べます。



えこっくる江東のマスコットキャラクターは、「たすけくん」です。たすけくんは、江東区の水辺で生まれたギンヤンマという設定で、お祭りの半纏に身を包み、みどり豊かな環境ですくすく育った江戸っ子です。みんなの活動や学習を応援し、「助けてくれる」環境ナビゲーターです。



えこっくる江東のフロア構成は、1階が常設展示室・2階が企画展示コーナー他になっています。

えこっくる江東 環境学習情報館

ご来館いただき、ありがとうございます。この施設は、江東区における環境学習、活動、情報発信の拠点です。「えこっくる江東」は、「エコ」+「つくる」+「江東」を合わせて作った愛称です。すべての生きものにとって住み良いエコロジーな環境をつくり、豊かな江東区にしようという意味が込められています。私たちは環境のために何ができるのでしょうか?一緒に考えてみましょう。

Environmental Learning and Information Center

What is Ecokkuru-Koto? This facility's name is "Ecokkuru-Koto", which comes from the words ecology (eco), create (tsukuru) and Koto City. It contains the hopes of building a city with a rich, ecologically healthy environment that is beneficial to all living things. Inside, you'll find many ideas on how to be more aware of your environmental impact. We hope you'll take this opportunity to find inspiration for creating a more eco-friendly lifestyle.




1階の常設展示室は、「地球ゾーン」と「生活ゾーン」に大きく分かれています。地球ゾーンでは、ホッキョクグマを例に、地球温暖化の問題を取り上げています。

地球温暖化が進んでいます

温暖化によって、世界各地で強い台風やハリケーン、集中豪雨、干ばつや熱波などの異常気象、北極域の海氷面積の急速な減少、陸上や海、淡水などにすむさまざまな生物、生態系にも影響が現れています。地球温暖化は、私たち人間の活動に起因している可能性が「極めて高い」とされ、原因と考えられている温室効果ガスの削減が世界規模で進められています。私たちも、地球環境にやさしい取組みを考え、日々の生活の中に取込んで行きましょう。

「絶滅のおそれがある種」ホッキョクグマ

ホッキョクグマは、海氷の上からアザラシなどを捕まえます。カナダのハドソン湾では、海氷面積が減少したため、ホッキョクグマは狩りができなくなり、平均体重が295kg(1980年)から230kg(2004年)に減少したとの報告例があります。21世紀半ばには、全世界のホッキョクグマの個体数が3分の1になるとの予測もあり、2008年5月にはアメリカ政府がホッキョクグマを絶滅のおそれがある種(Threatened species)に指定しました。




環境問題を目で見るパネルの他、環境負荷について考える江戸の暮らしを写したジオラマも展示されています。



1950年代後半から1970年代にかけて、江東区と杉並区の間で起きたごみの処理・処分に関する紛争、いわゆる「東京ごみ戦争」などごみ問題についての映像や体験展示等も行っています。

水彩都市・江東区の移り変わり

江東区は、江戸時代の都市建設とともに埋め立てによって誕生し、発展しました。この発展の中で、江東区はごみと密接に関わってきました。

江東区とごみの歴史

江戸時代
明暦元年(1655年)
江戸のごみを永代浦に捨てることの御触れが出る。
寛文十二年(1672年)
江戸市中のごみ捨場を永代島付近に定め、そこ以外にごみを捨てないよう御触れが出る。
天和元年(1681年)
ごみ捨場を永代島新田と砂村新田(現在の南砂〜東砂あたり)に定める。
享保九年(1724年)
江戸のごみを本所猿江御材木蔵跡入堀(猿江・毛利あたり)に捨てる御触れが出る。
享保十年(1725年)
江戸のごみを六万坪(現在の東陽6あたり)に捨てる御触れが出る。
享保十五年(1730年)
越中島をごみ捨場とする御触れが出る。

昭和
昭和四年(1929年)
深川塵芥処理工場を深川枝川町に建設。
昭和十四年(1934年)
夢の島埋め立て開始
昭和四十年(1965年)
夢の島ハエ騒動
昭和四十六年(1971年)
東京都知事が「ごみ戦争」を宣言。江東区は東京都および他区に対して「ごみ投棄反対に関する公開質問」を提出。
昭和四十七年(1972年)
東京都が「自区内処理と迷惑負担公平の原則」に基づいたごみ問題解決策を提言。
昭和四十八年(1973年)
江東区は東京都に対して「当面のごみ問題に関する公開質問」を提出。
昭和四十九年(1974年)
江東清掃工場完成

平成
平成七年(1995年)
有明清掃工場完成。
平成十年(1998年)
新江東清掃工場完成。

令和
令和元年(2019年)
中央防波堤埋立地帰属問題が終結。

江戸時代から明治まで

おおよそ400年前、徳川家康が江戸(今の東京)の町づくりを始めました。江戸の町に住む人が増えるとごみもだんだん増えはじめ、ごみを深川の「永代浦」に集めました。そして、ごみで海が埋まると、人が住める陸地を作るために工事を行いました。明治初期から工場が立ち始め、工業が発達していきました。また、そこに働く人々も増えました。埋め立ては、隅田川の改良工事の時に出た土や、ごみなどを使って続きました。

昭和から現在まで

戦後、社会が豊かになるにつれ、ごみの量が増え、そのごみが江東区の埋立処分場に集まってきました。このため、区民は、ごみの公害に悩まされることになり、江東区は東京都と話し合いを続け、ごみ問題に取り組んできました。現在、江東区には区内のごみをはるかに超える量を処理する大規模な新江東清掃工場と有明清掃工場があります。清掃工場で燃やしたり、細かく砕いたりしたごみは東京港の最終処分場に埋められています。この処分場は東京23区にとって最後の埋立処分場です。みんなでごみを減らし、一日でも長く使うことがとても大切です。




広場の片隅に、面積223uの樹木と原っぱと溜め池があり、身近な自然が体験できます。トンボ・バッタ・チョウなどの昆虫、ヒヨドリ・メジロなどの野鳥が訪れます。アゲハの食草ミカンの他、クヌギ・コナラなどの落葉樹が植えられています。

えこっくる江東 環境学習情報館
ポケットエコスペース

ここは、いろいろな野生の生きものが住みやすいように、むかし区内に多くあった湿地や原っぱのような環境を再生し、まちの中にたくさんの生きものを呼び戻すための場所です。時間が経つとともに多くの生きものがここに住み着くことでしょう。戻ってきた生きものたちと出会えたら、ゆっくり観察して、記録に残しましょう。そして、周囲の人にもそれを知らせましょう。




東雲東運河(砂町運河)に架かる七枝橋北詰から運河沿いの遊歩道に入ります。



潮見一丁目と辰巳二丁目を結んで、七枝橋の下流(上流?)に漣(さざなみ)橋が架かっています。漣橋は、平成六年(1994年)に架橋された橋長124.29mの三径間鋼床版箱桁橋です。車道の中央に幅1mの中央分離帯が設けられています。漣橋は弓なりに大きくカーブしているので、衝突事故を防ぐために設けられたのかもしれません。



漣橋の手前に潮見さざなみ公園があります。公園内の桜は満開です。



公園は親水テラスを囲むように広がっていて、それぞれの広場には名前が付けられています。

潮見さざなみ公園

「ふれあいの水辺の丘」〜3世代交流できる水辺の丘〜

江東区では珍しい、傾斜や起伏のある特殊な地形を利用して、自然、いきもの、人との交流(ふれあい)、出会い、親しみのある水辺、緑地を創出する公園です。

日だまり広場
休息や展望に。
花壇
ハーブ類の花が咲き乱れる。ラベンダー・タイム類・他。
わんぱく広場
砂場やブランコ等幼児・児童を対象とした遊び場です。
親水テラス
水辺に親しめます。
自然観察広場
トンボ池を中心に草はらには昆虫、池には水生植物や水生昆虫が生育・生息し、観察できます。




こんな感じです。



ポイント2 辰巳の森海浜公園

漣橋南交差点を右折し、辰巳の森海浜公園の北側沿いの道路を進みます。公園の角地には、東京アクアティクスセンターの巨大な建物が建っています。地上4階・地下1階で、延べ面積は51千uもあるそうです。メインプール(競泳、アーティスティックスイミング、水球等)・サブプール(競泳等)・ダイビングプール(飛込、アーティスティックスイミング等)を備え、2020東京オリンピック・パラリンピックの競泳競技と飛込競技・アーティスティックスイミングの会場として使用されました。オリンピック・パラリンピック終了後は観客席を約15、000席から約5、000席に減築するなどの改修を経て、令和五年(2023年)4月4日に再開業し、東京辰巳国際水泳場に代わる日本を代表する水泳場として、日本選手権やジュニアオリンピックなどの大規模大会や東京都の多くの大会で使用されています。館内には、第32回オリンピック競技大会と2020東京オリンピック・パラリンピック大会のメモリアルギャラリーが設置されていて、さまざまな資料が展示されています。夜間には建物の屋根部分がカラフルな照明によって浮かび上がります。



辰巳一丁目交差点の手前から辰巳の森海浜公園に入ります。辰巳の森海浜公園は、曙運河に面して平成五年(1993年)6月1日に開園し、東京都港湾局が管理する海上公園です。園内には、遊具・スポーツ施設・芝生の広場などがあり、周辺住民の憩いの場となっています。特にディスクゴルフやフリーテニスなど、従来のスポーツをより気軽に楽しめるニュースポーツができる施設があるのが特徴です。



入口を入った直ぐの右手に、マレットゴルフ広場があります。マレットゴルフとは、木槌を意味するマレットという名のクラブとボールを使い、決められた打ち出し地点からできるだけ少ない打数でホールにボールを入れることを競うスポーツで、発祥は昭和五十一年(1976年)に福井県の高校教諭から福井運動公園指導課長になった高山昇らが「誰でも楽しめ、健康づくりに役立つスポーツ」として考案し、翌年に課のスポーツ教室でマレットゴルフを実施したのが始まりです。体力をそれ程必要とせずプレイでき、またゴルフに比べ非常に安価であることもあって、老若男女の生涯スポーツとして普及しています。



公園内には、ラグビー場やサッカー場、それにバスケットボールの練習用ゴールポストなどもあります。



公園内の桜は満開です。



公園の南側には、多目的広場を取り囲むようにいろんなニュースポーツ施設があります。ディスクゴルフは、フライングディスクを使用した競技の一種で、ゴルフコースを模した小型のコースでフライングディスクを専用ゴールにいかに少ない投数で入れられるかを競います。

ディスクゴルフ

フライング・ディスクを何投でゴールに投げ入れるかを競います。ルールはゴルフに準じます。

人数
何人でもできますが、通常4人1組でコースをまわります。

進め方
@第1投(ティースロー)は、くじ引き等で順番を決めます。
Aゲームの進行中のスローイングは“投げ数に関係なく”ゴールから最も遠いプレイヤーが行ないます。
B2ホール目以降のティースローは、前のホールで最も成績の良かったプレイヤーから投げます。

勝敗
ゴルフと同じように9ホールをまわり、その合計スコアで競います。




グラウンドゴルフは、昭和五十七年(1982年)に鳥取県東伯郡泊村(現在の湯梨浜町)教育委員会が高齢者向けの活動推進事業の位置づけで考案したとされ、ゴルフと同様に打数を競うスポーツです。必要とするプレイ時間は、標準的なコースで8ホール30分強となっています。一般のグラウンドや広場など、ある程度整地された場所にコースが設置でき、器具は置くだけなので競技後に撤去すれば完全に原状復帰が可能です。そのため、専用のコースが必要なゴルフよりも手軽に競技出来る利点があります。

グラウンドゴルフ

専用のスティックでボールを打ち、ホールポストの金属の輪に何打で入れるかを競います。

人数
個人と団体プレイ(1チーム通常6人)

進め方
  • スタートからホールポストにできるだけ少ない打数で入れていきます。
  • ホールポストに入って、静止した状態を「とまり」とよびます。
  • 打ったボールが他のボールに当たったら、ボールの止まったところからゲームを続け、他のボールは元の位置にもどします。
  • 1打でホールポストに入った場合、総打数から3打引くことができます。
  • プレイの妨げになるボールは、一時的に取り除くことを要求できます。その際、ホールポストに対して、ボールの後方にマークし取り除かなければなりません。


勝敗
通常8ホールポストを回り、その総打数が少ないプレイヤー(チーム)が勝者となります。




シャフルボードは、細長いコートの上でディスク(円盤)を押し出し、「ダイアグラム」と呼ばれる得点盤上に到達させてその得点を競うニュースポーツです。シャフルボードは、15世紀のイギリスで行われていた「ショーブボード」ないし「ショベルボード」と呼ばれるスポーツが起源とされています。19世紀後半、船旅の間に甲板で過ごす際のレクリエーションとして広まり、1913年にアメリカのホテル経営者がこれをヒントにフロリダ州デイトナで始めました。日本では第二次世界大戦後に国際基督教大学の宣教師が日本国内初のシャフルボードコートを作りました。昭和五十四年(1979年)に日本シャフルボード協会が創設され、日本における本格的な普及活動が始まりました。同年に国際シャフルボード協会も設立され、昭和五十六年(1981年)からは毎年国際大会が開催されています。

シャフルボード

細長い棒(キュー)で円盤(ディスク)を押し出すようにシュートし得点を競います。

勝敗
1フレームごとに計算し、最後に全フレームの合計点で競います。

得点
●少しでも線に触れているディスクは得点されません。
●10−OFFの内側に入っているディスクは−10点です。

人数
1人対1人(シングルス)、2人対2人(ダブルス)などで行います。

進め方
  1. 先攻、後攻をジャンケンで決め、先攻はカラーディスク、後攻はブラックディスクです。
  2. 手前のスコアリング・ダイアグラム(三角形の得点エリア)の10−OFFの内側に、それぞれ自分のディスクを4枚ずつ並べ先攻、後攻と交互に反対側のスコアリング・ダイアグラムに向 かってシュートします。
  3. 自分のディスクを相手のディスクにヒットさせて弾き出すこともできます。
  4. お互いに4枚ずつのディスクをシュートし、終わると1フレームの終了(1フレーム終了時にスコアリング・ダイヤグラム上に残ったディスクが得点)。(※下図参照)
  5. 公式戦では16フレーム制で、約1時間かかりますが、8フレーム・12フレーム制でも楽しめます。




ペタンクはフランス発祥の球技で、名称はオック語「ピエ・タンケ(両足を揃えて)」に由来します。スポールブールやプロヴァンサルゲームをベースに、1907年に考案されたといわれています。競技は、テラン(コート)上に描いたサークルを基点として木製のビュット(目標球)に金属製のブール(ボール)を投げ合って相手より近づけることで得点を競います。

ペタンク

木製の小さな玉に金属製のボールを投げ合い、より近づけることにより得点を競うゲームです。

人数
トリプルス・・・3人対3人。各プレイヤー持ちボール2個。
ダブルス ・・・2人対2人。各プレイヤー持ちボール3個。
シングルス・・・1人対1人。各プレイヤー持ちボール3個。

進め方
  1. ジャンケン等でピュットを投げる権利を決めます。
  2. ビュットを投げる権利を得たチーム(先攻)の一人が、スタート地点を決め、35cm〜50cmの円(サークル)を描きます。そしてサークル内から6m〜10m先にビュットを投げます。
  3. 引き続き先攻チームの1人が最初のボールをできるだけビュットの近くに投げます。
  4. 次に後攻のチームが、さらにピュットに近づけるようにボールを投げます。
  5. この次に投球するチームは、ピュットから遠いボールを投げたチームです。(このとき、味方チームのボールが一番近くなるまで投球を続けます。)
  6. 片方のチームが投球を続けているうちにボールを使い終わってしまったときは、残りのボールがあるチームが投球を交代し、さらに得点を稼ぐことができます。
  7. 両チームがボールを投げおわると1セット(メーヌ)終了となります。このセット(メーヌ)で勝利したチームが次のセット(メーヌ)を先攻します。

勝敗
得点は、相手チームのどのボールよりも、ビュットに近い自分のチームのボールがあるとき、そのボールの数だけ得点になり、セット(メーヌ)を重ね、11点先取したチームが勝ちとなります。




フリーテニスはミニテニスの一種で、日本で行われているニュースポーツのひとつです。テニスに比べラケットが軽く、コートも比較的小さいため、老若男女や初心者を問わず、直ぐにゲームを楽しめるのが特徴です。テニスと卓球(ピンポン)の両方の特性を持つことから、俗称として「テニポン」と呼ばれることもあります。全国大会を筆頭に、公式大会も活発に行われています。フリーテニスの起源は、太平洋戦争終戦後の日本に駐留していた米国軍人により伝えられたパドルテニスであるといわれています。このパドルテニスを源流として、当時の国内では板切れで作ったラケットを使ったテニスのような遊びが各地で行われていました。吉田正明と青木泰三は、これらの遊びをよりスポーツ性を高めたゲームとして競技規則を確立させ、現在のフリーテニスの原型を考案しました。

フリーテニス

軟式テニスコートの10分の1程度のコートで、卓球のラケットのようなものを使いプレーします。

人数
シングルス・・・(1人対1人)
ダブルス ・・・(2人対2人)

勝敗
通常5回ゲームを行い、3ゲーム先取したプレイヤー(チーム)が勝者。

■進め方
  1. ジャンケンで、勝者はサービスかレシーブを、敗者はコートを選ぶ。
  2. サービスは右側から対角方向へ、1ゲーム終了まで左右交互に。
    ●サーバー側のベースライン後方にワンバウンドさせラケットで打つ。
  3. レシーバー側は、ワンバウンドしたボールを打ち返す。
  4. どちらか4点先取した時点でセット。
  5. サービスはゲームごとに交代。


■失点
  • ノーバウンドで打ったとき。
  • ツーバウンド以上で打ったとき。
  • ネットをこさない場合。
  • ボールがコートに落ちる前にプレイヤーに触れたとき。
  • ボールが相手側コート外に落ちた場合、ラインに触れている場合はセーフ。
  • ボレー・スマッシュを同一チームで連続して打った場合。




ガーデンゴルフは、ビリヤードの球を使用するパターゴルフです。ゴム製のクラブヘッドを持つハンマーに長い木柄を付けた専用クラブでビリヤードの球を転がし、地面に埋めたプラスチック製の植木鉢へカップインさせます。日本人男性が考案し、自宅の庭に植木鉢を埋めたことがガーデンゴルフという名称の由来となっています。ボールにビリヤードの球、クラブにヘッドが生ゴム製の専用クラブを用いて打数を競うニュースポーツです。ガーデンゴルフは4歳程度の子供から高齢者や障害者までが一緒に楽しむことが出来、自然の地形のままの公園の林の中や小学校の校庭などにカップを埋めるだけでコースを作ることができます。そのため、コースの維持費がかからないことや、利用する用具が世界主要国で安価かつ容易に入手できることから、世界的に普及する素地が大きいことも特徴です。辰巳の森海浜公園には、2010年1月に常設コースが開設されました。

ガーデンゴルフ

コース:9ホール(PAR36)、総距離81m

1組3〜4人で、専用のゴルフクラブを使って、いかに少ない打数でボールを穴に入れるかを競います。
  • 各ホールの1打目は、地表案内板の前から矢印方向へ打って下さい。「から振り」も打数に加えます。
  • 打ったボールが赤レンガを並べたOBライン又は園路に入った場合は1打を加えて元の位置から打ち直して下さい。
  • 打ったボールが他のボールに当たった場合、各ホール全員の1打目は、当てられた状態で放置して下さい。2打目以降は、当てられたボールのみ元に戻してプレーを続けて下さい。
  • ボールは、あるがままの状態で打って下さい。違反は2打を加えて下さい。但し、カップの半径1メートル以内の落ち葉や小石などは除去可能です。
  • 障害物などでボールが打てない場合は、1メートル以内のカップに近づかない場所にボールを移動し、1打を加えてプレーして下さい。
  • クラブを腰の高さより上げて、ボールを強打したり、振り回したりする危険な行為を行った場合は退場して頂きます。
  • その他のルールやマナーは、通常のゴルフに準じます。
  • プレー中の事故は、応急処置をいたしますが、その責は負いかねます。




辰巳の森公園前交差点から辰巳の森緑道公園に入ります。



防波堤の上に整備され、昭和五十年(1975年)に開園した辰巳の森緑道公園は、開園当初から整備された約220本のソメイヨシノを中心とした桜たちからなる並木道が四季ごとに様々な表情を見せてくれます。植えられた当時は樹齢15年ほどでしたが、現在は樹齢65年ほどになりました。植栽当時は背が低く、並木のさくらは手で触れることができるほどの高さだったそうです。今では大きく育ち、園路を囲うように育った桜が織りなす風景は、「HERO」を始めとした多くのドラマやCMの撮影地となっています。平成二十三年からは「辰巳さくらまつり」が開催され、桜の見頃を迎える3月下旬から4月上旬にかけての開催期間中は園路沿いに提灯やライトアップ照明が設置され、誘致した多くの出店が軒を連ねるなど、お花見の雰囲気を大いに盛り上げています。



ポイント3 東京辰巳国際水泳場

辰巳の森緑道公園の東端脇に、東京辰巳国際水泳場があります。東京辰巳国際水泳場は、平成五年(1993年)8月18日にオープンし、代々木オリンピックプールに代わる日本の水泳競技における中心的施設として、国際大会や日本選手権などの全国規模・東京都レベルの大会が多数開催され、2020年東京オリンピック・パラリンピックでは水球の会場として使用されました。オリンピック終了後は通年で氷上競技を実施できるアイスアリーナに転換することになり、令和五年(2023年)3月末に閉館しました。現在は、フィギュアスケートやアイスホッケーの国際大会を開催出来る規格のメインリンク及びサブリンクを設置し、観客席も約3、500席設置するなどの改修工事を行なっていて、令和七年(2025年)度内の竣工・開業を目指しています。



湾岸道路に出ます。懐かしの「武蔵野の路」の標識が立っています。初めて訪れたのは2005年で、その後2015年に再訪しました(こちらをご覧下さい)。今年が2025年ですから、10年おきに3回目の訪問になります。



曙運河を曙橋で渡ります。上空には京葉線の高架が通り、橋からは「あけぼの水門」が間近に眺められます。



曙運河の西側は辰巳の森緑道公園でしたが、東側は夢の島緑道公園になります。夢の島緑道公園は東京都港湾局が主管する都立の海上公園で、緑豊かな森林の中に起伏のある遊歩道が設けられ、山の中を歩くような雰囲気です。園内には自転車路が整備されていて、サイクリングにも適しています。「夢の島」は東京湾を埋め立てて作られた人工島で、江東区の町名でもあります。正式に地名となったのは昭和五十年(1975年)ですが、それ以前はただの愛称であり、当時の正式名称は「東京湾埋立14号地」でした。今は緑あふれる公園になった夢の島ですが、かつてはゴミの島として有名でした。しかし、最初からゴミの島だったわけではありません。江戸時代よりも昔の東京湾は、荒川・利根川などの多くの河川から少しずつ土砂が流れ込み、溜まった土砂により遠浅の海を形成していました。江東区は昔はその大半が海でしたが、江戸時代に盛んに埋め立てが行われ、現在の江東区が形作られました。明治以降になると、東京に大型船を接岸するための港を造るため、海の浚渫(海底を深く掘る)を行いました。そうして掘り出した土砂を海中に埋め立てて人工島を造っていったのです。現在の夢の島である「東京湾埋立14号地」は戦時中に誕生しました。昭和十三年(1938年)に江東区沖に巨大な水陸両用空港「東京市飛行場」を作る計画が立てられ、その建設予定地として14号地が造られたのです。しかし、すぐに戦局が厳しくなり、飛行場計画は資材不足のため中止となってしまいます。終戦から2年後の昭和二十二年(1947年)に使い道が未定だった14号地に海水浴場がオープンしました。その名も「夢の島海水浴場」で、この時からこの土地は「夢の島」と呼ばれるようになったのです。当時の東京湾は、高度経済成長による水質汚染が起こる前で、とてもきれいな海でした。ビーチにはヤシの木が植えられ、「東京のハワイ」として宣伝され、家族連れなどで賑わったそうです。しかし、たび重なる台風被害や財政難により、たった3年で閉鎖されてしまいました。その後、巨大遊園地を作る計画などもありましたが頓挫し、7年間も放置されました。その後、日本は高度経済成長期に突入します。国民の生活は日増しに豊かになり、人口は爆発的に増え始めました。しかし、それに伴い都内で発生するゴミも急増し、それまでの処分場ではまかないきれなくなりました。そこで、昭和三十二年(1957年)にゴミの埋め立て処分場として選ばれたのが夢の島でした。それにあたり、東京都は江東区に対し、ゴミによる公害を防ぐことを公約していました。しかし、当時のゴミ処分は、生ゴミなども燃やさずにそのまま夢の島に投棄するというものでした。東京で出たゴミの7割が江東区に集まり、毎日5、000台の収集車で運ばれたため、夢の島はあっというまにゴミで覆われました。江東区内では渋滞や交通事故が多発し、収集車から道路へとこぼれた生ゴミや汚汁が悪臭を発生させ、夢の島からやってきたハエやネズミが住民の生活をおびやかしました。極めつけは昭和四十年(1965年)で、夢の島のゴミの山の中から発生したハエの大群が江東区の住宅街に襲来しました。ありとあらゆるものにハエが群がり、小学校では授業もままならないほどだったといい、この被害は4カ月以上も続きました。これは全国的なニュースで取り上げられ、夢の島は「ゴミの島」や「ハエの天国」として広く知られるようになりました。その間、都はヘリコプターでの殺虫剤の散布などを行っていましたが効果はなく、ついに消防隊に要請して重油を撒いて夢の島一帯のゴミを焼き払う「夢の島焦土作戦」が決行されました。同年11月に2万個の毒団子によるネズミの殲滅作戦を行い、翌年、夢の島はゴミの埋立地としての役目を終えました。



まるで、山の中のトレッキング気分です。



夢の島交差点が起点となっている明治通りの西側を北に進みます。左手には、新江東清掃工場専用道路の出口があります。新江東清掃工場は明治通りから遠く離れた夢の島公園の東側に立地し、「平成十年(1998年)に竣工しました。煙突の高さは150mあり、発生した余熱を利用して、蒸気は東京辰巳国際水泳場に、高温水は東京スポーツ文化館および夢の島熱帯植物館に供給しています。なお、新江東清掃工場専用道路の入口は明治通りの反対にあります。



夢の島公園は明治通りを挟んで東西2地区に分かれています。西側地区には、夢の島総合運動場があります。



夢の島総合運動場の中心施設である夢の島競技場は、中学校・高校の部活動の大会などによく利用され、平成八年(1996年)4月1日に開設されました。ナイター照明設備付の施設には、約5千人収容の観客席、1周400mx8レーンと直線110mの全天候型塗装を施したトラック、各種跳躍種目・投てき競技・サッカー・ラグビー競技が可能なフィールドがあります。



明治通りを跨ぐ「かもめ橋」を渡って、夢の島公園の東側地区に行きます。



東側地区には、中央を貫く園路の北側に「第五福竜丸展示館」・「夢の島熱帯植物園」・「東京夢の島マリーナ」・「バーベキュー広場」、南側には「夢の島公園陸上競技場」・「BumB東京スポーツ文化館」などの施設があります。



先ずは、アリーナに面した第五福竜丸展示館を訪問します。

第五福竜丸展示館について

この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は昭和二十九年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。木造船での近海漁業は、現在でも行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。「第五福竜丸」は、昭和二十二年(1947年)、和歌山県で建造され、はじめはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被ばく後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、昭和四十二年(1967年)に廃船になったものです。東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨禍がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。

About Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall

Points of Interest
In this building rests Daigo Fukuryu Maru, or "The Lucky Dragon No.5" On March 1st, this wooden tuna fishing boat was damaged by the US detonation of Castle Bravo on Bikini Atoll in the Marshall Islands. In addition to Daigo Fukuryu Maru, articles of historical significance related to her encounter with the hydrogen bomb and exposure to radioactive fallout are also displayed. Though inshore fishing is still carried out by wooden boats, Japan's entire fishing industry, including open ocean tuna fishing, was once supported by hand-crafted boats similar to Daigo Fukury Maru. Built in the Wakayama Prefecture in 1947 and used first for bonito fishing, Daigo Fukuryu Maru was later remodeled for open ocean tuna fishing. After being exposed to radioactive fallout from the US hydrogen bomb test, the boat was reconstructed as a practice vessel for the Tokyo University of Fisheries. After 20 years at sea, this boat was retired from service in 1967. By founding the Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall and displaying "The Lucky Dragon No.5" and relevant historical artifacts and information, The Tokyo Metropolitan Government Intends to educate the public about the consequences of Castle Bravo and March 1st, 1954, in the hope of avoiding future nuclear events.




館内の中央には、巨大な第五福竜丸の実物が展示されています。終戦後のまもない時期に、こんな巨大な船が建造できたんですね。



館内の壁には沢山の解説資料が並んでいます。2022年と2025年の資料には若干の違いがあるようですが、取り混ぜてご紹介します。



第五福竜丸が被爆した当時の日本の漁業の状況が解説されています。

日本の漁業と第五福竜丸

戦争で漁業も被害
戦争中、多くの漁船が軍に組み込まれ、軍事物資の輸送や見張りの船として南方諸島や中国などに行かされました(徴用船という)。たくさんの漁船が沈められ、漁師さんたちの多くも犠牲になりました。

タンパク質がたりないよ
1945年アジア・太平洋戦争が終わった頃、日本は深刻な食料難でした。1946年の統計ではタンパク質は今の10分の1ぐらい(4.5グラム)しか摂取できず、大多数の国民が栄養失調になっていました。戦後「タンパク質がたりないよ」が流行語に。魚を主要なタンパク源としてきた日本では水産業をすすめようと、漁船の建造も各地で行われました。第五福竜丸もこうして造られた船のひとつでした。

戦後の漁業と漁場の制限
1945年8月わが国を占領した連合国軍総司令部は、日本の漁場を沿岸海域に限定しました(いわゆるマッカーサーライン)。これは、3次にわたり拡張されましたが、食料難、栄養不足解消のための漁業資源の確保にはきわめて不十分でした。

沖合から遠洋へ
1952年サンフランシスコ講和条約の発効によりマッカーサーラインは撤廃され、日本の漁業は遠く太平洋、インド洋に進出します。第五福竜丸が改造されて遠洋マグロ漁船になったのもこの時期でした。政府・水産業界も「沖合から遠洋へ」のスローガンを掲げ南の海をめざしました。

そして今は
日本の漁業はその後、1960年〜1970年代の沿岸埋立、70年代のオイルショックや200カイリ経済水域問題、1980年代以降の水産物輸入ラッシュなどの深刻な影響をうけ、今では漁業者の数が20数万人と第五福竜丸の時代の半分以下になっています。また海洋の環境汚染、海洋資源の保護なども課題になっています。




第五福竜丸の歴史についても解説されています。

遠洋マグロ漁船第五福竜丸

第五福竜丸が生まれたのは、昭和二十二年(1947年)3月です。和歌山県古座造船所で造られました。はじめは神奈川県三崎漁港のカツオ漁船・第七事代丸といいました。昭和二十六年(1951年)に、遠洋マグロはえ縄漁船に改造され、昭和二十八年(1953年)5月に静岡県焼津港の漁船「第五福竜丸」となりました。

第五福竜丸の航海

@第一次航海
昭和二十八年(1953年)6月10日から7月24日。ニューギニア北東からビスマーク諸島西の海域でメバチをねらい約45トン(1万2000貫)の漁獲。
A第二次航海
昭和二十八年(1953年)8月2日から9月21日。インドネシア・チモール海北東海域で操業、約45トン(1万2000貫)の漁獲。
B第三次航海
昭和二十八年(1953年)9月29日から11月14日。パラオ北方海域、カロリン諸島付近で操業、20回の投縄でキハダを中心に1150尾の漁獲。
C第四次航海
昭和二十八年(1953年)11月21日から昭和二十九年(1954年)1月15日。インドネシアのパンダ海で中型のメバチを中心に52.5トン(1万4000質)の漁獲。帰港途中の12月28日、インドネシア・ハルマヘラ島付近で領海侵犯の疑いで捕らえられるもののすぐに解放される。この航海の売上げは530万円でまずまずだった。
D第五次航海
昭和二十九年(1954年)1月22日から3月14日。ミッドウェー海域、パール島方面でメバチをねらうが不漁でしかも不運なことに、はえ縄の半分余りを流されて失う。そこで、マーシャル諸島へと進路を変更。3月1日未明、この航海最後の14回目の投縄をおこなう。午前3時45分、第五福竜丸は水爆実験に遭遇。ビキニ環礁の北東90マイル(160キロ)の北緯11度50分、東経166度58分の位置。乗組員は縄を揚げ、米軍の監視飛行機などに注意しながら日本をめざし、3月14日(日)午前5時に焼津に帰港。この航海の漁はわずか165尾(2700貫)だった。被ばくした第五福竜丸は、その後ふたたびマグロ漁船として働くことはなかった。




第五福竜丸が遭遇した「水爆ブラボー」について解説してあります。

水爆ブラボー

水爆ブラボーは1954年3月1日午前6時45分に炸裂しました(日本時間午前3時45分)。立ち昇るキノコ雲は高さ3万4000メートル、直径200キロに達したと米軍の記録にあります。爆発威力は広島原爆の1000倍(15メガトン、TNT高性能火薬1500万トン相当)で、環礁の内海、浅瀬のサンゴが粉々に砕かれキノコ雲に吸い上げられて強い放射能をおびて、灰のようになり広い海域に降り注いだのです。のちに「死の灰」とよばれた放射性降下物でした。アメリカとソビエト(旧ソ連)の対立(東西冷戦)は、核兵器の開発競争を激化させ、実際に戦争で使える水爆の実用化をすすめていました。水爆炸裂の死の灰は高層に吹き上がり、気流にのり地球上を周回したのです。

「死の灰」の分析について
第五福竜丸がもたらした「灰」の分析は、東京大学、静岡大学、大阪市立大学、金沢大学、京都大学、広島大学などでとりくまれた。乗組員の治療のためにも急がれた。そこから27の放射性核種が検出された。

水爆の構造の解明につながる
死の灰の分析からウラン237とプルトニウム239が検出されている。のちに解明されたのは、水爆が原爆を起爆剤として重水素化リチウムの核融合を起こさせ、その際発生した超高速の中性子が爆弾のまわりに貼り付けられたウラン238に当たりウラン237を作るということであった。ここから、ブラボー水爆は、起爆剤の原爆の核分裂(Fission)、核融合(Fusion)、ウラン238の核分裂(Fission)の3つの反応からなる3F爆弾であり、多量の放射能を出す「汚い水爆」といわれた。

"Castle Bravo" hydrogen bomb test

On March 1st,1954 at 6:15, the U.S. conducted its largest ever hydrogenbomb test, code-named Castle Bravo, at the Bikini Atoll in the Marshall Islands. The explosion generated a mushroom cloud 34,000 meters high with a diameter of 200km. The explosion yielded 15 megatons of explosive power, 1000 times more powerful than the atomic bomb dropped on Hiroshima. The explosion left a crater on the atoll's ocean floor and atomized coral ash surged up and rained down as fallout called shi no hai (ash of death) over an area of about 160 km. During the Cold War the United States and the Soviet Union were involved in an intense nuclear arms race. The testing of atomic weaponry by both sides led to widespread nuclear fallout contamination. Some fallout, raised high into the atmosphere by mushroom clouds, circled the earth in airstreams and was deposited on the other side of the world.




第五福竜丸の乗組員の被曝状況について解説してあります。

第五福竜丸・被ばく

マグロ漁船第五福竜丸の乗組員は、3月1日未明はえ縄を投げ終わり、休息をとっていました。そのとき、西の空、水平線のかなたが突然明るく輝いたのです。数分後、大きな爆発音が海の底から突き上げるようにとどろきました。縄を揚げはじめて2時間ほど経つと、空から白い灰が雪のように降ってきました。灰は、漁師たちの身体に付着し、甲板に足跡がつくほど積もりました。そこはマーシャル諸島ビキニ環礁から東160キロの海域、乗組員が見た光は、世界で最初の実用可能な水素爆弾の実験だったのです。当時アメリカは、ビキニとエニウェトク環礁を核実験場にしていました。しかし、第五福竜丸が操業していたところは、自由に通行できる公海上で、アメリカが定めた危険区域の約30キロ外でした(危険区域のことは知らなかった)。船に降りそそいだ白い灰は、放射能を大量に含んだサンゴが砕け砂粒のようでした。灰は23人の乗組員の顔、手、足、髪の毛やおなかに付着しました。その晩から体がだるい、頭痛、吐き気などにおそわれます。数日後、皮膚に火傷症状がでて、やがて髪の毛が抜けてきました。急性放射能症でした。

"Hibaku" (radiation exposure) of Daigo Fukuryu Maru

On March 1st 1954, the Daigo Fukuryu Maru was long-line tuna fishing 160km east of the Bikini Atoll. At 6:45 am all 23 crew members were sleeping in their bunks when suddenly, the sky in the west lit up in sunset colors. Seven minutes later, the sound of the explosion, as if from the depths of the ocean, arrived and rocked the boat. Then within two hours, radioactive coral ash began falling from the sky, like white snow. The explosion that the crew had encountered was the U.S.'s first hydrogen bomb test for practical military use detonated at the Bikini Atoll in the Marshal Islands. At the time, the US was conducting a series of thermonuclear tests at the Bikini and Enewetak Atolls. The Daigo Fukuryu Maru was fishing just outside of the danger zone that the U.S. government had designated in advance. (However, all crew members had no knowledge of this danger zone.) The highly radioactive pulverized coral ash fell on the ship for 3 hours. This white ash covered everything including all of the 23 crew their heads, hands, feet and hair and even got inside their clothing. Shortly, they began to suffer from nausea, headaches, bleeding gums and eye pain, all symptoms of acute radiation poisoning. In a few days their skin showed signs of burns and eventually their hair began to fall out. This ash later came to be called, shi no hai or ash of death, for it was this ash that was the cause of all the crew's acute radiation syndrome.




無線長だった久保山愛吉さんは、被爆から半年後の昭和二十九年(1954年)9月23日に亡くなりました。

乗組員被ばくと久保山さんの死

漁師たちは、はえ縄を引き揚げ焼津にむかい2週間後の3月14日に帰港し病院で検査をうけました。3月16日の「読売新聞」が最初に報道し、日本中を驚かせました。乗組員、船、漁具、マグロが強い放射線で汚染されていることがわかると、マグロの検査が始められました。乗組員は焼津の病院から3月下旬、東京の東大病院と国立東京第一病院に移されます。医師団は放射線の障害への治療のため、被ばくに関する資料をアメリカに求めましたが、なにも回答はありませんでした。「死の灰」の分析が、東大、静岡大、金沢大、大阪市大などで総力をあげてとりくまれました。医師団は懸命に治療をおこない、乗組員は1年2ヵ月後に退院することになりました。しかし、無線長の久保山愛吉さんは、被ばくから半年後の9月23日に亡くなりました。40歳でした。久保山さんは、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との言葉 をのこしました。

Death of Mr. Kuboyama

After the incident, the Daigo Fukuryu Maru quickly set off for its home port of Yaizu, Japan. Arriving two weeks later on March 14, they were immediately admitted to hospital for examination and treatment. On March 16, Yomiuri Shinbun newspaper was the first to report about the Daigo Fukuryu Maru's ill-fated voyage and citizens were shocked to hear of this news. The crew, the boat, the fishing gear and their catch of tuna were all contaminated and inspectors scrambled to recall the radioactive fish which had been sold at fishmarkets. At the end of March, the crew were moved to two hospitals in Tokyo for further treatment. Next, Japanese government officials contacted the U.S. Atomic Energy Commission for more information about the test and the fallout, so as to help in the treatment of the poisoned crew, however they were stonewalled. Subsequently, Tokyo University and Shizuoka University carried out analysis of the fallout ash which the crew had brought home with them. The doctors in charge did everything they could to treat the crew and all but one were discharged from hospital after 14 months of treatment. On September 23, 1954, however, that was six months after the incident, Daigo Fukuryu Maru's chief radio operator, Mr. Kuboyama died at the age of 40. Mr. Kukbyoama left the following words, "I pray that I am the last victim of an atomic or hydrogen bomb."




その他、多数の資料が展示されています。



展示館前の広場には、第五福竜丸に搭載されていたエンジンが展示されています。

第五福竜丸のエンジン

このエンジンは、昭和二十九年(1954年)3月1日に、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けた「第五福竜丸」で使用されていたものです。「第五福竜丸」は昭和四十二年(1967年)に廃船になりましたが、エンジンは奥地寿太郎氏に買い取られ、同氏所有の貨物船「第三千代川丸」に取り付けられました。その後、同船は昭和四十三年(1968年)7月に三重県熊野灘沖で座礁・沈没し、エンジンは海中に没しました。平成八年(1996年)12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられました。東京都はエンジンの寄贈を受け、第五福竜丸展示館前のこの地に展示しました。

Engine from the Daigo Fukuryu Maru (Lucky Dragon No.5)

This engine was originally on board Daigo Fukuryu Maru, or "The Lucky Dragon No.5." While operating near Bikini Atoll in the Marshall Islands on March 1st, 1954, Daigo Fukuryu Maru was showered by a cloud or radioactive ash from Castle Bravo, an early US thermonuclear weapon test. When the ill-fated boat was taken out of service in 1967, Toshitaro Okuchi installed the engine in a cargo boat called Daisan Chiyokawa Maru. The Daisan Chiyokawa Maru lator ran aground and sank off Kumanonada Sea Mie Prefecture in 1968. 28 years later, in December 1996, the engine was recovered from the sea. With the support of all citizens involved, The Tokyo Metropolitan Government has placed the recovered engine on display here beside the Daigo Fukuryu Maru Exhibition Hall, with the kind donations of the people concerned.




被災した第五福竜丸が持ち帰ったマグロは築地市場の一角に埋められましたが、それを後世の記憶に残すため、この地にマグロ塚が建てられました。

マグロ塚

1954年8月1日、米国が太平洋のビキニ環護でおこなった水爆実験で被曝した 第五福竜丸から、放射能に汚染された魚が水揚げされ、消費者の手に渡る前に中央卸売市場の一角に埋められました。このような核の被害が再び起きないことを願って、「築地にマグロ塚を作る会」は募金活動を行い、募金に参加した大勢の子どもたちと共にマグロを塚を作りました。本来であれば、この塚はマグロが埋められた袋地市場におくことがふさわしいのですが、市場は整備中であるため、暫定的に第五福竜丸のそばに展示されることとなりました。

TUNA MEMORIAL

Tunas contaminated by radioactivity from the Dai-go Fukuryumaru, a fishing boat near the Bikini atoll, the Pacific Ocean, where the United States conducted an H-bmb test on March 1,1954 were buried near a corner of Tsukiji Central Wholesale Fish Market to prevent them from being sold. The Tuna Memorial Building Association at Tsukiji launched a fund-raising campaign using many children's contributions and establishued this memorial in hopes that such a unclear disaster would not be repeated. Considering its history, the memorial should be placed at Tsukiji Market, but is temporarily exhibited beside the Dai-go Fukuryumaru as the market is under renovation.




ポイント4 夢の島熱帯植物館

夢の島熱帯植物館は、昭和六十三年(1988年)11月19日に開園した植物園です。その30年ほど前に江東区が東京都に提出した要望により、清掃工場でゴミを燃やした際の熱でドーム内を暖め、冬でも熱帯植物を育成することができる環境が創り出されています。中心となる施設はドームを3つ重ねたような特徴的な外観の大温室で、熱源は隣接する新江東清掃工場の余熱を利用しています。Aドーム正面入口から大温室に入ると、熱帯の水辺に生息する植物が眼前に広がります。音を立てて滝が流れ落ちる池では、熱帯性睡蓮の花が揺れ、池の縁では木生シダのヒカゲヘゴが大きな葉を広げる姿を観察できあす。また、熱帯の河口に生息するマングローブ植物が生い茂り、熱帯の水辺の景観が楽しめます。頭上左側から落ちる滝の下をくぐり、トンネルを抜けBドームへと進みます。Bドームは、ダイオウヤシを始め、巨大なヤシが林立する中に「熱帯の家」が建っています。この熱帯の家は、屋根の素材にニッパヤシの葉を使用し、風通しの良い休憩スペースとして利用できます。家の周りではヒスイカズラやトーチジンジャーなどの珍しい花を観賞でき、ココヤシやバナナ・カカオなどが実を結び、熱帯地方の人々だけでなく、我々の生活にも関わり深い熱帯植物が生育しています。Cドームには、タコノキやノヤシ・ムニンヒメツバキなど、世界自然遺産で名高い小笠原諸島の様々な植物を見ることができます。小笠原諸島は、都心から遠く1、000kmも離れた南の海上に浮かぶ亜熱帯の島々で、大陸から孤立しているために、生息する生物は独自の進化を遂げたたくさんの「固有種」があり、その中には絶滅が危惧される種が数多くあります。出口に近づくとマダガスカル原産のオウギバショウの巨大な葉が茂り、大温室の景観を締めくくります。



夢の島熱帯植物館正門前からBumB通りに入ります。右手に、夢の島公園アーチェリー場があります。夢の島公園アーチェリー場は、2020東京オリンピック・パラリンピック大会のために東京都が新たに整備した競技施設のひとつとして2019年4月にオープンし、大会ではアーチェリーの予選会場及び練習会場として使用されました。オリンピック後は、アーチェリーの大会や各種スポーツ大会やイベント・体験教室が実施されています。



東京スポーツ文化館は、夢の島公園内に所在するスポーツと文化の施設で、通称:BumB(ブンブ)と呼ばれています。元は「都立夢の島総合体育館」でしたが、改修・増築を行なって(2004年)3月31日に開館しました。それまでのスポーツに加えて文化・学習、宿泊などの機能も備えた施設として生まれ変わりました。



BumBの角地に立つトーテム・ポールで右折します。このトーテム・ポールは、カナダから友好親善と木材産業発展のシンボルとして江東区に寄贈されたものだそうです。明治通りの手前にも、もう一基立っています。



ポイント5 夢の島公園

夢の島公園をおさらいしますと、夢の島公園は都立のスポーツ公園で、昭和三十二年(1957年)から昭和四十二年(1967年)までごみの最終処分場であった東京港埋立地夢の島を整備し、昭和五十三年(1978年)に開園しました。夢の島北西部の大部分を占め、敷地面積は43万3千平方メートルに及ぶ大規模公園です。園内は南北に貫く明治通りを挟んで西側と東側に分かれ、両地区を「なぎさ橋」(北部)と「かもめ橋」(中央部)というふたつの陸橋によって結んでいます。ユーカリ・フサアカシア・アキニレ・マテバシイ・クスノキなどの樹木が多数植えられていて、高木は10、300本、低木は11、700平方メートルもあり、敷地内の約11%(50、000平方メートル)は芝生になっています。当初は上野動物園でのコアラ飼育のためにユーカリを生産する必要があり、ユーカリ畑がありましたが、現在はその役目を終えています。園内のユーカリ樹はそのときの名残で、日本最大のユーカリ林が見られます。園内には陸上競技場などのスポーツ施設がある他、バーベキュー広場や宿泊機能を備えた総合スポーツ文化施設「BumB東京スポーツ文化館」・熱帯植物園など様々な人気施設があります。また、夢の島近くの最終処分場に放棄されていた第五福竜丸の展示館があり、原水爆による惨事が再び起こらないよう願う趣旨で展示されていて、多くの人が訪れます。さらには島の北岸を利用したマリーナ「東京夢の島マリーナ」(ゆめのしま海の駅)があり、夢の島公園はスポーツや憩いに加えて、文化・教育的要素のある東京港内の一大行楽エリアとなっています。2020東京オリンピック・パラリンピックではアーチェリー会場となり、アーチェリー場が設置されました。公園の管理・運用は、日比谷花壇など6の民間企業からなる「アメニス夢の島グループ」が行っています。赤旗まつりは、公園(西側含む)とその園内施設(一部を除く)を借り切って行われます。



ゴール地点の東京メトロ有楽町線・JR京葉線・りんかい線新木場駅に着きました。駅前広場にもトーテムポールが立っていますね。



ということで、江東区で九番目の「朱雀H埋立地の緑をめぐる」を歩き終えました。次は江東区で十番目のコースである「朱雀I湾岸にある陸・海・空のスポット」を歩きます。




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